第三章
第三章
一
母の墓参に行った。
まだお盆前のためか境内には人影はなく、掃き掃除をしている住職の姿だけがあった。
寺と聞くと厳かな印象がある。空気が落ち着いている。冷厳なのだと思う。
世界が違うのだ。
そこは俗世から隔離された、身近でもっとも「死」にちかい場所だ。
そこに俗世の花を持ち込むことにより、ひとはわずかでも畏れの認識をくもらせようとする。けれども、ひとたび墓前にそえられた瞬間から、確実にその空間と同化してしまう。
「百合ですか」
手を合わせていると、顔なじみの老齢の住職が、ひとの良さそう顔で近づいてきた。
ずっと昔から同じ笑顔をうかべていた記憶しかない。それこそもう何十年もこの寺にいて、どこの坊主と同じように日々定められた庶務に暮れ、そうこうしている間に何十年という月日が過ぎ去ってしまった。そんな感じだ。
「――好きな花だったと聞いています」
ともすれば規則的とさえ錯覚してしまう無秩序な蝉の声だけが、切り離されたあやうい世界に現世の存在を呼びかけているようでもあった。
それはやはり、ここが異界だからであろうか。
「それでは、さぞよろこんでおられることでしょうな」
人の生き死にを摂理と説くかぎり、ここでは「死」さえ日常として存在する。
「どうでしょう、死人はよろこびません」
住職は細い目をとじ、わずかに首をかたむけた。
「死者のための花でしょう」
「生きている人間が自己満足のため、自分を慰めるために悼むんです。どんなにきれい事を並べても、死んだひとに感情はありません。責任転嫁ですよ」
ほほえんでいた。
「たまには親子で顔をお見せなさい。そのほうがきっとお母さんもよろこばれますよ。……もう十年もたつのですから」
十年。ひと言で十年といっても――実際に体験していながら、それでも長いのか短いのかわからない。
殺人の時効は十五年で、ひとの心の傷が癒えるのにはきっとそれ以上の時間がかかる。だから、まだまだ残ってしかるべきこと。
そう。殺人――
昔、酒に酔った父が一度つぶやいた。
本人はおぼえてないだろう。けれどもその瞬間、自分の立ち位置を失った。
(オマエガ殺シタンダ……)
母親に見捨てられ、父親からも見放され、どうしていいのかわからなかった。不安定のまま放り出される恐怖だった。
ただ泣いていることしかできなかった五歳の子どもに罪があるというのなら、あの時に戻って母を止めるなり、ともに逝くなりしたかったと、数えきれないほど悔やんだ。
けれども、それはすで過去だった。
「無常ですな」
まるですべてを悟ったように住職が、静かに空を仰いだ。無情かもしれない。
そうでしょうか、と言えたかどうか。
――蝉の声。
二
ヨネとは二つ先の駅で待ち合わせした。
小柄で童顔の彼女を見て、大学生と思うひとはいないだろう。でも男の方は、よく中学生に見られるような高校一年生だ。恋人というより、やはり姉弟に近いだろうか。
その日はヨネが見たいと言っていた映画を観た。あまりに退屈な内容で、不覚にも途中で眠ってしまった。上映終了のアナウンスに目覚めると、隣でヨネも眠っていた。揺り起こすとメガネがずれておかしな顔になった。それから事態に気づいた彼女と笑いあった。
楽しかった。
駅前通の喫茶店に入った。ほとんど毎日会っているのに、会話には事欠かなかった。アキちゃんは聞き上手ですねぇ、と言われた。
話題は父の建築作品に移った。心酔者のヨネはそこにきて、熱っぽく興奮を語った。そんな彼女を見ているのは悪くはなかったが、父のことをよく言うのが気に入らなかった。
「そんなたいそうな人間じゃないよ」
壁紙がけばけばしい色調で落ち着かない。カップやスプーンひとつとってみても、いかにも若い女の子に受けそうなポップなデザインだ。礼子さんの店は落ち着いてて良かったな、とぼんやり思い出していた。
「そうですか。私はすばらしいと思いますがねえ」
「そうかな」
「そうですよォ」
説得力のない無意味な会話だ。こんなところまで来て、あのひとの話はしたくなかった。それを察したのか、ヨネはすぐに話題を変えてくれた。
「そういえば、結局バイトとかどうしちゃったんですか。探すのやめちゃったりとか」
「うん、やめちゃった」
「やっぱりィ」
「だってヨネが」
「ひとのせいにしてはいけませんよ。正しい大人になれません」
からかうように彼女が言う。
正しい大人だって。正しいかどうかなんて誰が決めるんだ。他人から見られた姿じゃないか。それを決める人間が正しいわけじゃないし。
「ほらまた。アキちゃんはすぐにそういう難しい顔をする。もうちょっと、にこにこしててください。かわいいんですから」
「子ども扱いしないでくれよ」
バイトのせいで、あきらめがいいとか根気がないとか、そんな目で見られているみたいだ。そのうえかわいいだなんて、男らしさも認識されてないとなると救いようがない。
たしかに生まれて初めてのデートだったから、ほとんどヨネにまかせっきりで情けないのだけれど。
「だってカッコイイってのとも、ちょっと違うじゃないですか。あ、でも将来有望ですね。絶対女の子が放っておきませんよぉ。いまのとこは頼りなげだし、なんか守ってあげたい男の子って感じしますね」
「そんなことないよ」
そのクールなところがいい、とヨネは真顔で言った。そこで照れてしまうあたりが、自分でも子どもなんだと思う。
そのとき通路を歩いていたウェイトレスが、ふと怪訝そうに立ち止まってふり返った。よく見知った顔だった。
「あれ、晶人?」
私服に店のエプロンをしただけという格好だ。左胸には『アルバイト・小林』と名札がついている。
「なんだ、ここでバイトしてたんだ」
「うん。あ、言わなかったっけ。藤堂さんの紹介」
うれしそうにやって来る。
「あのひと、こんな店にも来てたんだ」
「こんなってどんな?」
「いや、べつに」
「それがね、なんとびっくり。葉月さんとはじめて会った思い出の店なんだって。このあいだ会ったよ。きれいなひとね」
「そうなの」
「うんうん。色白の美人。女の私から見てもあこがれちゃうなぁ」
「ほら、やっぱり白かったろう」
ずっと意識しているようだったが、いまさらのように小林はヨネのほうを向いた。
「あの。お手伝いさん……でしたよね」
するとヨネは上品な微笑をうかべながら、とても簡潔に答えた。
「はい。家の中では」
途端に小林はものすごい顔になって、そのまま立ち去ってしまった。
ヨネはなんだかとても楽しそうだった。
「やっぱりもてるんじゃないですか」
夏休みの間中、何度となくお互いの体を求めた。お互い若くて、季節が夏で、他にすることがなかったからなのか、ひまさえあればからまり交わっていた。
ヨネとこういう関係になるとは思ってもみなかった。いまでも時々違和感のようなものを感じることがあるが、そのうちあたりまえのようになるのかもしれない。
雰囲気をつくってくれるのは、いつも彼女のほうからだった。そういう欲求は充分あっても言いだしにくくて、彼女が求めてくるのを待っている部分が強い。結局自分も依存しているということなのだろう。
同じ屋根の下に父親がいるというのに、まったく気にならなかった。いてもいないようなひとだったし、第一いようがいまいが関係ない。
だからそんなある日の夕刻、自宅にいて、部屋の外から花火のあがる音が聞こえていたにもかかわらず、それが意味することも忘れて貪りあい、そうして行為を終えた後の冷静さで、ようやく今日が小林と約束した夏祭りだということに気がついたのだった。
すると、乱れたベッドに寝そべっていたヨネが、上気した顔でさらりとこう言ったのだ。
「気づきませんでした? 見られていましたよ」
そんな彼女をはじめて恐ろしく感じた。
ドアがほんのわずか開いていた。とうとう父親に見つかったんだと思った。
「あの子です。小林さん。ずっと、見てました」
背中を冷たいものが走った。
呼んでも返事がなかったので、そのままあがってきたのだろう。あわてて廊下をのぞいたが、ひとの気配はない。
「……いやな女ですね」
ヨネが小さくつぶやいた。
窓の縁にホタルが、弱々しく光っているのが見えた。
三
そして二学期になった。
昼には購買部のパンを買って食べ、最近ではたまにヨネが作ってくれた弁当を持ち、なんとなくもう小林の弁当は食べられない気がしていた。
廊下ですれ違っても目をそらすし、朝や昼休みにまとわりついてくるようなこともなくなっていた。
やがてそれも日常となった。
日常がかつての日常にとってかわり、当然のごとく新しい日常として浸透してしまう。そうした連鎖はこの世界が生まれた瞬間からずっとくり返されてきたことだし、きっとこれからも延々と続いていくはずのものだった。
そんなことを考えていたら、なんだか世のなかがつまらなくなって、なんとなく学校に行きたくなくなった。
一学期の問題のおかげか、休みがちになっても誰も気にとめるひとはいなかった。それがわかると、行かなくてもいいかな、と軽い気持ちになり、本格的に行くのをやめてしまった。
季節に秋のにおいがしだしてきた。
父の書斎は父の世界だった。そこには佐山貴史本人しか許されなかったし、それ以外は認められなかった。そうして思い描く気難しい芸術家というやつを演じているのだ。
同じ家にあって、そこは別の家だった。母が死んでからは、一度もその世界に足を踏み入れたことはない。
父は自分の書斎でしか仕事をしないし、何日だって親子は顔を合わせないですごすことができる。
それでも毎日のように運ばれるヨネの料理だけが、世界を共有する接点だった。
望んで偏屈なアーティストを気取っても、それでもやはり生物だし、生理的な欲求はあるし気分転換だってしたいだろう。
けれどもこれは、いまさらという気がした。
「……最近、どうだ」
ぼそりとこもった声でつぶやいた。息子の部屋の前に立ったまま、決して扉を開けることはない。
「なにが」
扉一枚を隔てた六畳の薄暗い和室では、ついさきほどまで情事がくりひろげられていた。
さすがにそこまでは知るはずがない。
いままさに部屋の隅では、全裸のヨネがおびえたように息をひそめている。
オーディオの時計の光がにぶく、青白く彼女の体を染めている。小さくなったヨネは大きな目をきょろきょろさせながら、なにか身をつつむものをさがしているようだった。
「学校、楽しいか」
父が入ってこないのは知っている。この部屋に鍵は必要ない。『境界』を越える勇気がないのだ。けれどヨネは不安でしょうがないらしい。
ひどく、サディスティックな気分になった。
「……どうかな」
音をたてないよう近づく。ヨネはびっくりしたようにこちらを見たが、声をだすわけにもいかないので、必死の身ぶりで抵抗の意志を伝えようとする。
「変わらないよ」
構わず小さな体を抱きかかえると、有無を言わせず、耳たぶから首筋にかけて口づけ、舌先でなぞる。
「……まだ、続いてるのか」
「なにが?」
しだいに荒くなっていく熱い息を感じ、再び興奮してきた。いじらしいヨネは、酸欠の魚のように口を開けては吐息を飲みこんでいる。押しのけようとする力もどこか遠慮がちだ。
鎖骨のくぼみはわずかに塩辛く、狂ったような心臓の音を聞いた。そこから一気に下に落とす。ついにはハぁ、と切なげな声がもれた。
「その……、嫌がらせされたり」
無意味な会話が続いていく。
「誰が? オレが? まさか」
眉根を寄せたヨネは頭を抱く力を強めてきた。やわらかな胸に押しつけられながら、指先でゆっくり腹部をなぞる。うつろな瞳のヨネは立っていることができないみたいで、もう支えきれないように脚を震わせていた。
薄い扉の向こうで、なあ晶人と呼ぶ。
「小林さんの奥さんに聞かれたんだが、最近なにかあったのか」
「……なんで」
「おまえら、仲良かったろう」
貪るように舌をからめた。二人の世界は二人のあいだにだけ存在する。唾液が細く糸を引いて切れた。
「けんかしたのならちゃんと謝っておけ」
「してないよ。知らない」
「晶人」
「なんだよ、うるさいな。いつもみたいにさっさと部屋に帰れよ。まえに藤堂さんが家に来たの、あれ、父さんが呼んだんでしょう。自分は隠れて様子うかがっててさ。そんなことすら自分でやれないくせに、いまさら父親面してなにが言いたいんだよ」
ヨネの下腹部に指を忍ばせると、ついに我慢できずに泣きだしそうなくらい高い声があがった。その瞬間、怒りにまかせてドアを蹴りつける音が響いた。
重い足音が遠ざかっていくのを聞きながら、ヨネの息づかいに頬が焼けてしまいそうだった。
四
学校に行っていない日を計算してみると、二学期の二ヵ月の間にトータルで三週間ほどだった。あのひとも気づいたから、言いかねたのかもしれない。
ある晩、津野から電話がかかってきた。
前例があるので嫌な予感がしたが、思いがけない発言があった。
津野が明日学校サボりたいから、どこかへ行かないかと誘ってきたのだ。
「どこかってどこだよ」
「遠くだよ」
得意げに津野が言った。
自転車では無理があるのは経験ずみだ。それを伝えると、車を出すと言いだすのだ。
「ドライブだドライブ」
「バカ、十六は原チャだろうが。言っとくけど、免許持ってねえぞ」
「おれも持ってねえよ。でも原チャじゃねえ、車だよクルマ。まかせとけって、心配すんな。オートマぐらいなら運転できるさ」
妙に息巻いていたので、つい乗せられてしまった。
毎日家にいるのはさすがに息苦しかったし、ヨネとはべたべたしすぎて新鮮味がなかった。そんなわけだから、たとえ津野でもうれしかったのだ。
翌朝、本当に津野は学校をサボってやってきた。白い軽ワゴンであちこち擦ったばかりの跡があった。
後悔という言葉が脳裏をよぎった。
「やっぱりやめねえか」
「なに言ってやがる。わざわざ来たんだから行こうぜ」
決して快適なドライブとは言えなかった。
やたらと脇道に入りたがるせいですっかり道に迷ってしまい、急ブレーキ急発進に急ハンドルはあたりまえなものだから、ようやく目的の砂浜に着いたときには、ほとんど命からがらという状態だった。
西の空がゆるゆると赤く染まりはじめていた。
なんで海にしたのかわからないけど、なんとなくこういうときは海じゃなければいけない気がした。
他に人影は見あたらない。防波堤の手前で車を停め、波打ち際まで歩いた。かなしげに聞こえるカモメの声。遠くに工場の鉄塔がシルエットになっている。
砂浜には空き缶だのビニール袋だのが散乱している。見慣れない国の言葉が書かれた容器もあった。
オレンジ色の波。砂浜に座り込む。ひんやりと冷たい。牡丹色にひろがる空が安いシネマのエンディングのようだった。
唸りとも叫びとも違う音で、海が寄せては返す。じっとしていると、奇妙な浮遊感に悪酔いしそうだった。
なにも考えていないはずなのになにかを考えさせられているような、からっぽになっていながらも満たされていくような空虚な充足感に気づく。
意識は押し寄せる波とともに高まり、あふれだし、そうしてどこかへ連れ去られてしまうようだった。
しだいに胸はつめたく冷え、なにかが崩れそうで苦しくなった。けれども鋭く純粋に研ぎ澄まされていくような心地よさもあった。
足許の砂をすくいあげると、指の隙間から流れ落ちる感触にその泣き声までも聞きとれるようだった。
今度はヨネと来たいと思った。その姿はきっと幸せだろう。
津野が赤い小さな箱をとりだした。途中の自販で買った煙草だった。すすめられたが無言で首をふった。鼻で笑われた。
潮のにおいがむずがゆい。
津野は火をつけようとしているらしかったが、何本かは「風が強い」とか「湿気てる」と言って投げ捨てていた。ようやく煙がでると、滑稽なほど得意そうに吸いはじめた。しかし、すぐにおおげさな咳をして吐きだす。不思議そうに首をかしげているところを見ると、想像しているのと違ったらしい。
あはははは、と誰かが笑った。
「背伸びするな、少年たち。いつかは大人になれる」
どきりとした。本当にあふれてしまいそうだった。
ふり返ると緋色の砂浜の、長く伸びた自分の影のなかに女性が立っていた。
まっすぐな目をしていた。
津野の車の横に、黄色のニュービートルが停まっている。
波の音が騒々しかった。なのに、彼女が近づいてくる足音はやけにはっきりと聞こえた。
「貸してごらん」
津野から煙草を取りあげると、彼女は小さな口にくわえた。それから「火」と短く言う。あわてたように津野が、ゲーセンで取ったという自慢のジッポをつける。
彼女はわずかに目を細め、くわえた煙草に火をともした。深く煙を吐いてから、「わかった」とたずねる。
きょとんとしている津野に、「つけるときは軽く吸うんだよ」と教えてやる。同じ失敗をした不良の話を聞いたことがあった。それを知らない木更津香織は、とても意外そうな顔をしていた。
「私のアキトが不良になった」
今度は津野がびっくりしたような顔をして、腕をひっぱった。さわるなよ。
「なっ……なんだよ、おい。佐山――し、知り合いかよ」
答えるまえに、彼女はにこにこしながら自分のあごのあたりを指した。
「わりと知り合い」
「わ、わりと? なのに私のアキト?」
津野の声がうわずっている。目を泳がせながら、聞きとれないくらい早口で小さく悪態をついている。
「アキトのお友だち?」
にっこりと微笑む木更津香織。
「わ、わりとお友だち、ですっ」
二オクターブぐらい高い声で津野は叫んだ。友人だと思ったことは一度もない。
「仲良くしてあげてね」
「は、はい」
完全に直立して、本当の棒切れみたいになってしまっている。
ふふ、と笑ってから、彼女は再びこちらを見た。
「ひさしぶり」
忘れたような罪悪感が思い出されて、しこりのようなものを残した。
なにも変わらない彼女が立っている。ひたむきなまでに真摯な目。
めまいをおぼえた。世界は鮮やかまでの朱だった。風は強く、足許がふらついた。このまま倒れてしまってもいいとさえ思った。そうして世界が終わってしまえばいいのに。
左手の人差し指と中指にはさんだ煙草が伸びてきた。口紅がついているほうを向けられる。
目を閉じて、首をふった。
「大人とか子どもとか、わからないです」
「私にもわからない。でも、私もアキトも大人じゃない」
きれいな弧を描いて、煙草は彼女のくちびるに戻る。
「まず学校へ行きなさい」
なるほど、ようやく理解できた。
「藤堂さんに言われたんですか」
「そうよ」
その後ろにはあのひとか。藤堂さんもいい迷惑だろうに。
「あなたを捨てた男に」
煙を吐きだす。
「ええ」
「どうして」
彼女はしゃがみこんで、津野が捨てた煙草を拾いはじめた。
「アキトのこと考えてるの、藤堂さんも私もおんなじだから」
「関係ないじゃないですか。オレはオレです。藤堂さんも木更津さんも、関係ない」
立ち上がって、煙草の束を津野に返す。こんなにキツイの吸うんじゃないの、と叱りながら。
「みんなアキトのこと、心配してくれてるんだよ」
「勝手に心配してるだけでしょう。オレが望んでるわけじゃない」
「他人の気持ちをそんなに迷惑がらないで。藤堂さんも私も、アキトのことが好きよ。あなたのお父さんだってそう」
もう一度煙草を目の前につきつけながら言った。長くなった灰が砂の上に落ちた。
「ねえ、アキト。誰にも期待しないし、誰の思いにも応えない、誰の力も借りない――それが強いことだって勘違いしてない?」
「知らない」
「そうやって壁をつくって閉じこもって、周囲に迷惑かけてるのに、そのくせひとりで生きてるなんて、そんなの甘えだよ」
「うるさい。死ぬことで解決しようとしたあんたに言われたくない。逃げたあんたになにがわかるってんだ。オレは逃げない」
言ってから、しまったと思った。あのときの情景がまざまざとよみがえってきたからだ。
彼女は瞳を閉じて、くちびるを固く結んだ。冷たい海風が長い髪を乱した。
「……そうね。きっとわからない」
しっかりとした口調だった。
「でも、わかってあげたいの。アキトは私だもの。なにかしてあげたい。たしかにアキトは私みたいに後ろは見てないのかもしれない。でも、前を見ているわけでもない。そう――空を見てるのね」
視界の隅で津野がぼんやり上を見た。
「自分で穴を掘って、そこが居心地いいと思い込んでる。それなのに空ばかり見て、それだけで別な場所へ行ったつもりでいる。アキトはその穴の中でなにを見てるの。 なにが見えるの。私はいる? 藤堂さんはどのくらい? お父さんやヨネはどうなの」
ヨネを知っているのにはさすがに驚いた。まえは家の電話番号まで知っていたし。藤堂さんとのつながりはないはずだったからだ。
だから訊いた。どうしてヨネを知ってるんですか、と。微笑みながらの彼女の返答は、至極明瞭だった。
「大学のお友だち」
――加志摩芸術大学。かつて父が在籍していたその大学の、彼女は建築設計科の学生なんだということはまえに聞いたはずだ。
ならヨネは?
大学生で、ちょっとは名前の知れた建築デザイナーである父の心酔者で――、ということはひょっとしたら。
「そ、それじゃあ、あのとき家の電話番号を知ってたのも」
「うん、ヨネに聞いた。これは謝らなきゃね。初対面だったけど本当はさ、アキトのこと少しは知ってたんだ」
してやったりという感じで、いたずらっ子のように笑う。興奮しているらしく、紅潮した彼女は饒舌だった。
「ヨネ子さまお気に入りのアキちゃんって、じつは有名なのよ。いっつもヨネ、ぼやいてたもん。放っとけなくて、 いますぐにでもかまってあげたくなるぐらいカワイイんだって! あはは、ゴメンねぇヨネ。あたし、アキトと添い寝したもんね。――アキトだっていやでしょう、ひと回りも歳離れてる女に好かれるのって」
「え」
きっとこのときばかりは、津野に負けないぐらいおかしな顔をしていたと思う。
「なんですって」
聞き違いだろうか。きっとそうだ。そうであってほしかった。
「ひとまわり……?」
木更津香織の目がまるくなった。
「え、なに。知らなかったの。うそ。うわ、まずかったかな。ヨネってあれでも二十八よ。万年留年の。大学じゃ超有名。教務規定とかどうなってるんだろうね。うわ、しまったな。聞いたこと忘れて。あとで本当にヨネに殺されるかもしれない」
佐山はずるい、と津野がつぶやいていた。
「あ、そうだ。ほら、私の部屋に服忘れてったでしょう。あれ、返さなきゃね。持ってくればよかったんだけど、ここでアキトに会ったのって偶然なんだよね」
津野はいまにも卒倒しそうな勢いで、「部屋に服!」と連呼していた。「て言うか、添い寝?」と詰め寄ってくる。
それを振り払って歩きだす。信じられない。ヨネが二十八歳――嘘だろう。ちゃんと歩いてるのか不安だった。直接聞かなければ信じられない。
「帰るぞ」
我に返った津野はなにか言いたそうだったが、名残惜しそうに木更津さんを二度三度見てから車の方に駆けていった。エンジンのかかりが悪いとかで、一度止めたらアイドリングが必要らしいのだ。
「ねえ、服どうするの」
後ろから声がかかる。彼女はそれが心配らしい。
「近いうちに取りに行きます。すいません」
顔を見ないように頭をさげる。エンジンはまだかからないようだ。
「無免許運転は感心しないなあ。送るから乗りなさい」
煙草は許容で無免許はいけないらしい。どういう理屈だろう。たしかに津野の運転で、これ以上寿命を縮めるのは遠慮したい。
夕日がまぶしいからだろうか。なんだか勝ち誇ったような表情をしている。
「ところで背、伸びたんじゃない?」
五
津野の車を浜辺近くのコンビニに停め、ニュービートルに乗り込んだ。あとで代行にでも運んでもらうそうだ。どうせバレるんだから、こそこそしてたらダメだよ、と他人事のように言われた。
まず津野を自宅で降ろした、親父に怒られてくるさ、と苦笑した顔はやっぱり不細工だった。最後に「今日はマジ楽しかったぜ」と鼻の穴をひろげていた。
それから約十分ほどで、四角い大きな家に着く。書斎の窓だけが明るかった。
ちゃんと学校行くんだよ、と降りるまえに彼女に言われた。
玄関の鍵をあける。
暗いキッチンにはヨネが用意してくれた夕飯が待っていた。今晩はカレーのようだった。明かりをつけると、テーブルの上に『おかえりなさい。チンして食べてくださいな』と少女変体文字のメモがあった。
不思議な感覚だった。
いつもこの時間には家にいる。そうだ、いつも夕飯は家で食べるから、それこそ毎日ということになる。
もうとっくに食事を終え、部屋で本を読んでたりテレビを見ていたりしている時間だった。
そういう日常が前提として刷り込まれているから、妙に罪悪感にも似た違和感があった。
ひょっとしたらここにいるのは佐山晶人ではないのかもしれないといった、うすら寒くも心地よい不安が首の後ろあたりをちりちり刺激する。
普段は気にもとめない、冷蔵庫のくぐもったうなり声がやけに耳につく。低く、愚鈍ゆえの存在感を誇示しているようだ。
本当の佐山晶人はいままさに自室でヨネと何事かしているのではと、恐ろしい期待に胸がときめく。ああ、そうだ。ドッペルゲンガーの片割れがなにも知らない顔で部屋にいるのだ。この廊下の角、音をたてないようこっそりとドアを開けると、そこには寝そべりながら読みかけの小説めくるもう一人の自分がいて、たまに思い出したように手許のジュースを引き寄せたりしている。そんな自分に気づかれないよう息を殺し、そっとドアを閉める。
なんという愉悦だろう!
そんなことないのに。とても恍惚だった。佐山晶人は他ならぬここにいるというのに。
でも――、でももしかしたら。
そんなことを考えたら、なんだかとてもおかしい。
怖いけど見てみたい。ありえないから見てみたい。
馬鹿げた妄想だった。
すべてが錯覚だった。
なぜそのとき、まっすぐ自分の部屋に帰って現実を確認しなかったのだろう。そうすれば、なにも知らず帰れたはずだったのに。
なぜそのとき、操られるよう誘われるようにたどり着いてしまったのだろう。戻れなくなることはわかっていたはずなのに。
そこはもう何年も閉ざされたままで、たしかに存在するのだけれど、否定も肯定もしないで残していた砦だった。誰もそこには近寄らず、父ただひとりのためだけの世界としてあるはずだった。
なのにいまは――この佐山晶人は、いや、名もなく、存在もないが究極の権利を許された透明人間が、すべての出来事を俯瞰できる神の目をもったかのように、しきりに真実を知ることを要求してきた。
――まだ、海鳴りが聞こえたのだ。
重い木の扉をわずかに押し開き、光が、声が、匂いがもれ、情景が飛び込んでもやはり、それをどう認識していいのかしばらく判断できないでいた。
だから扉を閉めた。
一瞬だけ、その世界に棲む彼女と目が合った。しばらくしてきっと、こう言うに違いない。
「気づきませんでした? 見られていましたよ」
六
門の前には、まだ黄色い車が停まっていた。エンジンもかかったまま。
なにも言わず助手席に乗り込んだ。
それでも彼女は前を向いたままだった。