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lovechair  作者: 香津宮裕介
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第二章


  第二章 



    一 


 花の数は、年を重ねるごとに一輪ずつ増やしていった。

 母が死んでから何年という明確な年を、目に見える形でおぼえておきたかった。

 ここは母が死んだ場所であり、自分が捨てられた場所でもある。

 一ヵ月前、この場所で木更津香織を見かけた。ここでなにをしていたのかはわからないけれど、奇妙な錯覚のようなものを感じた。

 あの日、母も白いワンピースを着ていたことを思い出したのは、最近になってからだ。

 それから半月後、藤堂さんの結婚式で偶然再会して、なにかあったら電話して、と連絡先を教えてくれた。

 彼女の話は、いじめられているという前提に基づいている。だから、別に相談するようなことはない。

 それからまた半月。

 心のどこかで淡い期待を抱きながら、夕暮れの雑居ビルにやってきた。

 けれど、すぐに落胆する。どうしてそんなことを望んでいるのかと、軽い自己嫌悪にすらなった。

 薄暗い廊下は、やっぱりなにかの腐敗臭が漂っていて、お世辞にも居心地のいい場所とは言えなかった。

 壁も床もところどころ剥がれていたし、扉も錆びている。ここは十年間ずっと、暗色しか存在しない空間だった。

 なのに、ぽつんと。

 鮮やかな色がひとつ、まるで別世界の忘れ物のように置いてあった。

 先月そえたはずの花が、もうとっくに枯れてしまってはいたけれど、小さなかわいらしい花瓶にしっかり生けられていたのだ。

 母の墓はちゃんと代々の墓地にあるので、ここに参るのはごく限られた人間だけだ。そうは言っても、自分以外に誰かがここに来ているのを知らない。

 一ヵ月前の彼女を除いては。

 本人はなにも言わなかったが、彼女は母とは関係のないひとだろう。偶然居合わせたという感じだったから。

 でも他に考えられなかった。



    二 


 翌朝は頭痛で目覚めた。小学生のときからそうだ。毎朝頭が痛い。

 きっと仮病をつかいやすいようにと、目に見えない誰かが気をきかせてくれているのかもしれない。低血圧なら頭は重いものだ。

 ぼんやりと時計をながめていると、玄関のほうで小林の呼ぶ声がした。

 彼女のおかしなところは、毎朝録音テープのようなお礼を聞くだけで、うれしそうに弁当を置いて走り去ることだ。

「遅刻しないようにね」

 早退の常習者ではあるが、おかげさまで遅刻は未経験だった。

 ふと、昨日の花瓶が妙に頭をちらついた。

 どこかへ行こう。漠然と思った。

 いつもと変わりのない日のはずなのに、なんだか今朝はいつもと違った。違わなければいけないような胸騒ぎがあった。きっと天気が良かったせいだろう。

 すると不思議なもので、その漠然とした目的のために行動をはじめている。どこから行きたいからの準備ではなく、どこかへ行く理由をつくるために準備をはじめる。

 パッチワークのシャツにジーンズを身に着け、小林の弁当をお気に入りの紺のデイバッグと一緒に自転車のかごにつっこんだ。

 父は書斎に閉じこもったまま、昨夜から出てこない。昨日はヨネも一緒ご飯を食べていったのだから、そんなときぐらい出てくればいいのに。

 心にもない事を思いながら、ペダルに足をかけた。クラスで原付の免許をとったやつがいて、うらやましがられている。バイクがあれば便利だろうか。

 そこにきて、ようやく問題に気がついた。どこかに行きたいが、どこへ行ったらいいのかわからなかった。普段から出不精なせいと、特別どこかへ連れてってもらったりした記憶がないからだろうか。

 どこでもいいのだけど、それならどこへ行っても同じような気もした。どこも特別ではない。

 少し考える。

 ――海の見える小さな喫茶店。ちょっと遠いけど、あそこならまた行きたいと思う。

 決まりだ。足に力を込めた。

 青い空の下、頬をなでる風がしだいにほてっていく体に心地よく感じる。胸のボタンをひとつあけた。

 このあいだの道を逆にたどればいいはずだ。とりあえず駅に向かう。そのまま線路づたいに駅を四つか、五つ。――遠いな。

 だんだん見慣れない風景が飛び込んできて、ちょっと不安になってきたけど、まだまだ行けると張りつめた腿を激励する。

 そうしてとうとう五つめの駅に着いたのは、昼の一時を少しまわったころだった。

 潮のにおいのする町だった。足は重く、全身汗びっしょりで息があがって苦しかったのに、なんだか楽しくて仕方がなかった。

 学校をサボったのも初めてだったし、こんなに遠くに来たのも初めてだった。ひとりでもここまでやれるんだという、おかしな自信と満足感、それに充実感があふれていた。

 自販機にはスリム缶しかなくて、二本買って、一本はその場で一気に飲みほした。

 煙草のにおいのこもった狭い待合室には、大きな荷物のかたわらに小柄なおばあさんがひとりだけ座っていた。眠っているようだったので、堂々と弁当を食べた。

 食後にお茶を飲んでいると、歳をとった駅員さんがおばあさんを起こしにやってきた。そうしておばあさんは、自分の倍もある大きな荷物をひょいと担いで、しっかりとした足取りでホームの電車に吸い込まれていった。

 こちらもそろそろ出発するとしよう。

 歩き出そうとして足がもつれた。ふくらはぎがぱんぱんに張っている。日頃の運動不足はこういうところにでるのだろう。

 もう少しのはずだからとなだめ、再び自転車にまたがった。たいして行かないうちに横っ腹が痛くなった。

 さらに二十分ぐらいすると町並みはまばらに途切れ、道路はアップダウンが激しくなってくる。防風林の間から白く光るものが見え隠れしだし、そうして視界が一気に開けた。

 思わずため息がこぼれた。肺が心地よく苦しんでいる。

 一度きりの記憶でよくここまで来れたものだと、他人事のように感心する。あとちょっとだ。激しい躍動感に震える心臓。気持ちよかった。

 シーサイドラインからそれる脇道は、さすがにきつくて自転車を押してのぼった。そうしてようやく白い小さな建物の全貌が見えたとき、心底「疲れた」と声をこぼしていた。

 全身の細胞という細胞が、酸素を欲して体中を駆けまわっている。座りこんだら、なかなか立ち上がることができなかった。

 心置きなく深呼吸。幾度となく深呼吸。そうして肺が潮の風で満たされると、覚悟を決めてドアに手をかけた。

 三つしかないスツールのひとつに、華奢な背中が見えた。長いきれいな黒髪が無造作にながれている。

「……こん、にちは」

 一生懸命に息を整えたつもりだったが、緊張のためつまってしまった。

 口をつけていたカップを持ったまま、緩慢な動作で礼子さんがふり返った。

「ああ」

 それだけだった。わずかながらも驚きとか、そういう感情は声にも表情にもあらわれない。

「どうぞ」

 招かれるまま、一昨日と同じ席にすわった。やっぱり他に客はいない。

 気持ちを落ち着けるように心がけながら、何気なく窓の外をながめた。たなびく海。波。波。ふと水平線の上のほうに、黒い大きな雲があるのが気になった。

「ブレンド?」

 ベージュのエプロンをつけた礼子さんが、カウンターのなかからたずねてきた。

「え、……あ、はい」

 それから改めて店内を見わたした。こぢんまりというより、窮屈な感じさえ受ける。ジュークボックスがあるのにやっぱり音楽はかかってない。

 壁にたて掛けられた古いギター。この気だるげな女店主が、手慰みに爪弾いたりするんだろうか。それはとても魅惑的な想像だった。

 音もなくテーブルにカップを置かれる。

 営業スマイルもない表情を見あげ、ひょっとしたら機嫌が悪いのではと思ってしまう。

 砂糖の瓶に伸びかけた手を止める。なぜか苦笑がもれた。

 熱いカップをのぞきこむと、ほろ苦い香ばしさが襲ってきた。コーヒーの味なんてわからないけど、なんだか心地よい気分だった。ゆっくり口許へ持っていく。

 カウンターの奥。両肘をついて開いた手のなかに、ちょこんと小さな顔をのせた礼子さんが見ていた。

「……やっぱり苦いですね」

 付け加えるとするなら熱かった。

 真顔の礼子さんは、表情を変えないで言った。

「都合のいい魔法じゃあるまいし、ブラック飲んだくらいで大人になんかならない。安心なさい。砂糖とミルクたっぷり入れないと飲めない大人だっているから」

 それから小一時間ほど話をした。

 といっても、お互いに会話の才能はないようで、二、三言で終わってしまう。だから沈黙の時間のほうが絶対的に多かった。

 礼子さんはプライベートな話はしてこなかった。当然、今日なんでここに来たのかなんて聞いてこない。サービスの紅茶クッキーがとてもおいしかった。

 雑談ではあったが、コーヒーの基礎知識みたいなものを簡単に教わった。レギュラーコーヒーとインスタントの味が違うのはわかる。漠然と旨いとは思うのだが、どう旨いのかわからない。家でも飲んでみたいと言ったのがきっかけだった。

「とりえずペーパードリップからはじめるのが妥当。豆の個性をストレートに表現してくれる。市販のコーヒーメーカーでできるし、ハンドドリッパーでもできる。比較的安価で手入れも簡単」

 コーヒー豆には種類があって、それぞれが異なる味のうえ、煎り方や挽き方によってもまったく違う風味になるのだという。

「いろいろ試してみて、自分の好みを見つけること。まずはそれからかな」

 感情をださない人だが、なんだか得意そうに見えた。本当にコーヒーが好きなんだろう。だから楽しそうですね、と言ってみた。

「楽しいよ。世界でたったひとつのコーヒーをつくるんだからね」

 言われて視線を落とす。白いカップの底には、琥珀の輪ができていた。

「残念ながら店で出すブレンドは自分の好みだけじゃだめ。豆本来の持ち味を可もなく不可もなく、上手に利用しながら、誰にでも飲めるようにしないと。一応商売だから」

「それじゃあ、礼子さんのブレンドっていうのは?」

 ほのかに、ほんの一瞬だけ笑ったような気がした。

「また今度ね」

 それから奥のドアに引っ込んだかと思うと、手動の鉛筆削り器のようなものを持ってきた。ハンドルが上に付いてるので、鉛筆削りではないだろう。木目調のボディに女性の横顔がうかんだ銅版が打ち付けてある。

「あげる。昔使ってたミル。これで豆を挽くの。刃を傷めないよう、スムーズにまわる角度でそう、ゆっくりね」

 そう言って彼女はおもむろに、非常に緩慢で、それでいて慣れた手つきでハンドルをまわしはじめた。ゆっくり、ゆっくり。

 その途端、未知の感覚が漂ってきた気がした。

 世界でたったひとつのコーヒー。自分のためだけのコーヒー。どきどきしてきた。ブレンドなんて呼ぶのはもったいない。どうせなら高級バーのカクテルみたいに、ちょっとおおげさな名前にしてみたらどうだろう。

 まだ作ってないのに、深い味わいや濃厚なコク、香りまでが思考を侵食しはじめていた。

 そうだ、小林にも飲んでもらおう。なんて言うだろう。ちょっとは見直すだろうか。

 礼子さんの手がとまった。そして、まるで心のなかを読み透かしたようにこうつないだ。

「最初から思ったようにできるわけないけどね。それと、本当は空回しは刃を痛めるからやらないように。あと逆回しも」

 さらに何種類かの豆を数量ずつくれた。缶コーヒーのCMで聞いたことのある名前もあった。風味が落ちるからと、保存方法だけは厳重に注意された。

「そろそろ帰ります」

 時計を見ると、もうすぐ四時だった。これからまた何時間も自転車をこがなきゃならないのだ。考えただけで苦痛だった。脚もカバンもぱんぱんだ。

「またいらしてね」

 今度は電車で来ようと思った。



    三 


 帰りは道を逆にたどった。その道筋しか知らなかったし、好奇心よろしく探検するような時間も気持ちの余裕もなかった。

 いつのまにかあたりが薄暗くなっているのは、時刻のせいばかりではない。さきほどまで空の片隅にあったはずの黒雲が、いまではもう何倍にも勢力を伸ばしている。

 まだ降るなよ――バッグの中身を気にしながら祈った。湿気は絶対にだめだって言われたんだ。

 けれども地元まであと一駅というところで、バケツをひっくり返したような雨に襲われた。

 ずぶ濡れになりながら紫崎駅に駆けこむ。時計を見ると七時前だ。行きとは違い、迷わなかったぶん早く着けたようだ

 待合室にはサラリーマン風の三人の男性が二組と、六十代後半と思われる痩せた白髪のおじいさんがいた。

 売店でビニール傘を買った。せっかくの豆が何袋か染みていたのには、さすがに泣きそうになった。売り子のおばさんが親切にタオルを貸してくれた。

 外はあいかわらず激しい雨。時々空が重々しく光る。もう少し落ち着いたら帰ろう。ここまで来れば家まではもう目と鼻の先だ。

 何人かが駅に入ってきたのはわかった。

「おい、あれ佐山じゃねぇか」

 その声を聞いた瞬間、反射的に体が固まってしまった。ブレザー姿の見知った顔が次々と待合室に現れた。

「おまえ、今日さぼったろう」

 にやにやと、ひどくいやらしい顔で笑っている。獲物を見つけたような飢えた嗜虐者の笑みが四つ。

 そのなかで、作ったような偽善的な表情をした男がいる。同じ顔が四つ並ぶなかで、ひとつだけ異種がある。

 ようやく彼らが電車通学だったことを思い出す。たぶんそれは後悔。

 関口一也。関口は奇術師だ。彼には顔がない。そのかわり、いくつも仮面をもっている。優等生の学級委員。聞きわけがよくて教師からも信頼され、他人を思いやることができる優しい生徒の仮面。

「どうした。みんな心配してたんだぜ」

 カツ、カツと傘の先がコンクリートの床を突くたびに、粘着質な水たまりができる。ねばねばと盛りあがってどろりと溶ける。

 カツ、カツ、カツ。五つの傘がたてる音。だんだんだんだん水たまりが増えていく。

「今日、補習のはずだったろう。また、忘れちまったのか」

 そうだったろうか。そんなこと、言ってただろうか。いや、きっとそうなんだろう。ここは嘘も真実になる世界。作りだされた密室。

 四つの笑い仮面がぐるりと取り囲んだ。離れてぬっぺらぼうがひとつ。

「ほら、行くぞ」

 肩をつかまれる。腕をつかまれる。なにも怖いことはない。なんでもないことなんだ。

 心配そうにおばさんが声をかけてくる。白髪のおじいさんは眠っている。サラリーマンたちは煙草をくわえたまま、何事もなかったように話しつづけている。

 そして関口はいつものように仮面をかぶる。空気はがらりと色を変える。

「こいつ、補習があるってのに忘れて帰っちゃったんですよ。しょうがないなぁ。俺らが一緒に先生に謝ってやるからよ。なあ?」

 取り巻きが一斉に同意する。そう言われればおばさんはなにも言えない。彼らはそれを知っている。知っているから嘘をつく。下手な嘘でも通用する。密室では彼らが法律だ。

「ほら、ちゃんとカサさせよ」

 すっかり濡れてしまったジーンズが、脚に重くへばりついている。今日一日の無理がたたったのか、痛みを訴えていた筋肉がいまは死んでしまったように動かない。

 そうして引きずられるようにして連れ込まれたのは、駅裏の無人の倉庫だった。薄暗くて、ほこりっぽい。

 突き飛ばされる。されるがままに。

 転がされる。いつものままに。

 踏む。蹴る。いつものように。

 四つの笑い仮面はより一層、無様に嗤っていた。

 なにがたのしいんだろう。なぜわらっていられるんだろう。考えるだけ無駄。理由などない。行動すべてに根拠があるわけではない。人間はそこまで理性的ではないのだ。

「生意気なんだよ」

 無数の足、脚。土ぼこりが鼻に入る。

 泥の足、革の靴。つまさき、かかと。

 投げ飛ばされたリュックを追う。これだけはだめだ。覆いかぶさる。

 ばつばつとトタン屋根をたたく雨音は騒々しいのだけど、どこか遠くで響いているようで現実味がない。まるでこの建物だけが、世界から隔離されてしまったよう。

 関口はひとり傍観していた。

 きっとそれが彼のポジションなのだろう。腕をだらりとたらしたままの凝視。けれども叫んでいるのは関口ひとりだった。他の四人は黙々と任務を遂行するだけの操り人形。

「泣け。泣いて謝れ」

 関口は全然楽しそうじゃない。弱者を蹴る特権をもらいそこねたように、あせって苦々しい顔をしている。

 踏む。蹴る。笑いながら。

「泣くんだよ、ほら」

 痛い。大丈夫。泣くもんか。苦しい。まだ大丈夫。死にはしない。

「俺がやる」

 関口が動く。はじめて自分の罪を見せつけるかのように、少しだけためらって、けれども誇らしげに。

 誰よりも強く背中に、腹に。圧迫。激痛。

「泣いて謝れ」

 些末だった躊躇は、しだいに高揚に打ち消されていく。

「泣け、泣け泣け泣け。ちくしょう。泣けって、泣くんだよ」

 見あげると恐ろしいまでに眉をつりあげた関口。こんな怖い顔は見たことがない。

「その目。その目が気に食わねぇンだよッ」

 頭を踏まれる。世界が真っ白になる。ほこりを胸いっぱいに吸いこんだ。脇腹を蹴りあげられる。酸っぱいものがこみあげる。二度目はもっと強く。息がつまる。声がでない。

「お、おい」

 誰かが不安そうな音をだす。

「やべェんじゃねぇ。もうちっと手加減しねえと死んじまうぞ」

 カッと世界がまばゆく光、大地を揺るがす轟音がとどろいた。どこかに雷が落ちたのか。

 誰かの不規則な荒々しい呼吸。窓ガラスが激しく振動していた。

「気持ち悪ィんだよ! 調子乗りやがってよ。マジでムカつく。くっそ、殺してやりてえ」

 関口は侮蔑をこめて唾を吐いた。普段の彼からは想像もつかない汚い言葉だった。

「俺は別に佐山なんかどうでもいいけどな。D組の津野のほうがおもしれぇって」

 誰かが言って、一斉に笑いだす。

「そうそう。こないだ全裸で女子トイレ押し込んだときなんかよ」

「ブリーフはマジ笑えた」

「すぐ土下座するし小遣いくれるし」

「休み時間に肩もませてんだぜ」

「それいいな。やっぱ津野は使える」

「わかる」

「それにひきかえ佐山は」

 誰かの足が頭の上にのせられた。関口だろうか。関口だろう。

「使えねぇんだよ!」

 首が折れるのではないかというほど強く蹴り飛ばされた。拍子に腹の下から、デイバッグが飛びだす。これ見よがしに音をたてて転がるバッグがうらめしかった。

「……なんだ」

 動く足音。

 やめろ――叫んだつもりだったが、雷鳴にかき消される。

「重てぇな。なに入ってんだ」

 ジッパーを引く音。絶望。ただ絶望。

「……なんだこれ」

「コーヒーじゃねえのか。コーヒー」

「学校さぼってなにしてんだよ」

「壊せよ、ンなもん」

 そのときだった。

「なにやってんの、あんたたち!」

 凛とした声が倉庫に響きわたった。

 誰かが「やべっ」と叫んだ。言うや否や、あわてて逃げていく足音たち。動転しているわりに引くのは早い。

 そして暴力のあとに取り残された。砂に汚れた手で拭うと、鼻からも口からも血がでているのがわかった。

 建物の外は騒々しい雨音と雷鳴が支配していた。

「ああ。――大丈夫」

 その人物は駆け寄り、震えた声で抱きかかえようとした。やわらかい感触とにおい。

 擦った腕や脚も痛い。彼女はあわててハンカチを取り出した。

「なんで。なんでこんなこと、アキト。ああ、アキト」

 激しい閃光で彼女の顔が一瞬、くしゃっとつぶれたように見えた。

 途端にそれまで抑えていたものが一気にあふれだし、がむしゃらになって彼女にしがみついていた。知らず、押し殺したように嗚咽している自分に気がついた。

 香りがすぐそばに、いつまでもあった。



    四 


 目覚めたのは見知らぬ部屋だった。

 全身が痛かった。腕、腹、背中、脚にそれと首。もうどこもかしこもずきずきと痛む。首筋に手をやると湿布がはげかけている。腕や脚にも貼られていた。

 ブラインドのすき間から、強い日差しがもれていた。目と鼻がひりひりする。

 首をめぐらすと、テレビやステレオがのったサイドボードが見えた。液晶は朝の六時半を表示していた。

 向かいに黄色いソファが置かれていて、テレビを見るにはちょうどよさそうだった。

 その上に、そいつがいた。

 最初はクッションかと思った。この部屋にはやたらとクッションが目立つ。部屋全体が白色系で統一してあるだけに、色とりどりのクッションはポップで存在感がある。

 けれどもそれは動いた。頭があった、尻尾もあった。そして「ナァ」と鳴く。多少太っている感じがしないでもないアメリカンショートヘアだった。首には窮屈そうに赤いリボンがうもれている。

 なにからなにまで見おぼえがなかった。

 わずかな音がすぐそばでした。ふり向くと見おぼえのある顔があった。

「……な、なんで」

 とてつもない悪寒がした。眠っている彼女は下着姿だった。そして自分もトランクス一枚というあられもない姿。

「き、木更津さん?」

 豊かな長い髪が、枕代わりのクッションに無尽に広がっている。肌は白く、わずかに上気している。規則的に上下する胸を見て、あわてて目をそらした。

「木更津さん。お、起きてください、木更津さん」

 身体にも髪にも触れないよう、必死にクッションを揺すった。

 彼女の表情に苦悶があらわれ、短くうなったあと、うっすらと瞳が開く。それがゆっくり動いて、捕らえられた。

「アキト!」

 彼女は飛び跳ねるように身体を起こした。途端に彼女の香りが飛び込んできた。

「アキト、大丈夫。ねえ、どこも痛くない」

 そのまま抱きしめられた。押し付けられた胸のやわらかさに、頭が真っ白になった。きっと目も白黒しているに違いない。

「心配したよ。すごく心配したよ。ああ、もぅ」

「ちょっ……ちょっと、木更津さん。は、離して――離れてください。お願いですから、ねえ。痛いですってば」

 本当にわけがわからなかった。関口たちに殴られたのはおぼえてる。それからどうしたんだっけ。木更津香織が来た。それから、それから――?

「ああ、ああ……ごめんね。でも、無事でよかった。ホント心配したんだから」

 ようやく離れてくれた。途端に、胸に残った熱い感触が名残惜しくさえあった。

「と、とりあえず服を着てください」

 なるべく彼女を見ないように言った。

「アキトもだよ」

 木更津香織は悪びれた様子もなく、かわいらしく笑ってみせた。

 言われるまでもない。だいたいなんで裸なんだ。しどろもどろになって服をさがすが、見あたらない。あせった。

 そのあいだに彼女はジーンズと黄色いYシャツを身に着けていた。ほんとにもうどぎまぎさせられる。このひとはいつも下着で寝てるんだろうか。

「照れた顔もかわいい。おねえさん、本気になりそうよ」

 ベッドに寝そべってからかうように言う。

「よしてください」

 まだぬくもりの消えないブランケットをひっぱって、ソファに逃げこむ。ネコはさっさとどこかへ行ってしまった。

「ぼくの服はどこです」

 つとめて低くたずねた。

「ぼく! ぼくだって、ぼく。きゃー、かわゆいわぁ」

 頬を押さえて、脚をばたばたさせてはしゃいでいる。くそ、冗談じゃない。少し頭にきた。

 すると彼女は急に真顔になった。

「そんな怖い顔しないのよ。べつに取って食おうってわけじゃないんだから。言ったでしょう、あたしは味方だよ」

 そう言うと立ちあがり、クローゼットからグレーのジャージを取りだした。

「からかったりしてごめんね。洗濯したのよ。あのままだったら風邪ひいちゃうと思って。汚れてたし」

 粘着力のなくなった湿布が、かろうじてわき腹あたりにしがみついている。

 木更津香織は微笑んで、ジャージとタオルを渡してくれた。

「シャワー浴びといで。昨夜は服脱がすので精一杯だったんだから」

 途端に顔が熱くなった。

「すみません。そのぅ……ありがとうございます」

 ふふっと笑って、彼女は目を細めた。

「いい子ね」



    五 


 シャワーから飛び出した勢いのよい湯が青くなったあざに当たるたび、こらえきれず声をもらしそうになる。つい悲鳴などあげようものなら、木更津さんのことだから飛びこんで来かねない。

 おかしなことになった。

 昨日は木更津さんに救われた。そればかりか気を失ってしまったらしく、彼女の部屋に厄介になったということか。どうやって運ばれたんだろう。自分の細い身体を見て、なんだかとても情けなかった。

 両脚が重い。これは筋肉痛だ。おかげでちょっとはたくましくなるのだろう、などと想像してみる。

 けれど、どうして彼女はあんなところに来たんだ。おかげで解放されたわけだが、なんだか出来すぎてる気もする。

 昨夜は――ベッドがひとつしかないということもあるのだろうが――添い寝されていたわけだ。湯気のなかに木更津香織の裸体を想像して、あわてて首をふった。ひどく憂鬱だった。

 そんな状況ではないとわかっていても、思春期的な思考が心情をあおる。まいった、刺激が強すぎる。

 外から声がした。

「アキトぉ。大丈夫、倒れてない?」

 あたふたと腰にタオルを巻く。

「す、すみません。い、いまあがります」

 心臓が爆発しそうだ。絶対にあのひとはわざとやってると思う。

 バスルームから出ると、入れかわりに彼女が入っていった。

「ちょっと待っててね。すぐにご飯つくるから」

 鼻歌まじりに消えた彼女の汗のにおいが、どうにもおかしな気にさせる。

 ナァとデブネコが鳴いた。ソファに戻っていて、退屈そうに尻尾をふっている。

 このまま帰ってしまうことも考えたが、それではあまりにも失礼だし、地理的にここがどこなのかさえ知らない。

 心臓も胃も、押しつぶされそうになったりねじれたようになったりで、ついにはめまいまでしてきた。動悸まで激しい。

 結局、入浴後の彼女に与えられるまま朝食をとって、身じろぎもたじろぎもせず、借りてきたネコのようにおとなしくおとなしく座っていた。

 木更津さんは黄色のプラスチック椀に頭をつっこんでるネコの体をなでながら、「おいしい? ファルア三号」と言った。どうやらそういう名前らしい。

 それから顔をあげた。

「ごめん、ちょっとタバコ吸ってもいい?」

「ああ、はい」

 彼女は照れたように小さな灰皿を引き寄せた。

「アキト、タバコ吸う女の子って苦手だったりする?」

 思い描いていた木更津香織のイメージと少し違うような気がして、それでも曖昧に首をかしげる。

 とても慣れた手つきで、彼女は煙を吐き出した。なんだか生理的に好きになれないな、という感じの甘くいがらっぽい匂いが鼻についた。

「ちょっと大きかったかな」

 灰を落としながら、彼女は目を細めた。ジャージのことを言ってるらしい。レディースということに意識してしまう。

「だ、大丈夫です」

 なぜどもる。

「ご飯、口にあった? 急いで作ったから自信なくて」

「お、おいしかったです」

「よかった」

 本当は味なんてわからなかったのだけど。

 思い出した。そろそろ小林が弁当を持ってくる時間だった。とっさにあわてたが、すぐに今日が休日だということに気づく。

 それよりも、家に電話しないと。あのひとは息子が家にいなくても気づいていないのかもしれないが。

「木更津さん。すいません、電話貸してもらえますか」

 タバコの煙はあまり好きにはなれそうになかったが、それを指にはさんでいる木更津香織の姿は、なにか映画のワンシーンを思わせるほどさまになっていた。

「香織」

「はい?」

「香織って呼びなさいって言ったでしょう。きみねぇ、通知表に『他人の話をよく聞かない』って書かれるでしょう」

 ちょっとむっとした顔をしていた。怖かった。二口吸っただけタバコは、そのまま灰皿に置かれた。

「あの、えっと香織、さん。電話を……」

「か・お・り」

 ふわりと立ちのぼった紫煙が揺れた。

「か、カオリ……家に連絡したいんで、電話を貸してください」

「できるじゃない」

 白桃がほのかにピンク色に染まる絵を想像した。頭なんかをなでられる。

「でも昨日、私が電話しといたから大丈夫だと思うよ」

 びっくりした。

「で、電話したんですか。どうやって」

 わざとらしくもう一度タバコを吸って、桃はころころ笑ってる。

「電話機を使ってに決まってるじゃない」

「そうじゃなくて。ほら、電話番号とか」

「あれ。教えてもらわなかったっけ」

「教えてませんよ」

 彼女のは教えてもらったけど。

「生徒手帳に書いてたんだ」

「そんなの持ち歩いてません」

「藤堂さんに聞いた」

「藤堂さんはアムスです」

「葉月だったかな」

「新婚旅行で一緒です。わざと言ってるでしょう」

「まぁ座りなさいって」

 彼女はにっこり笑った。どうやら教えてくれるつもりはないらしい。結構いじわるな性格なのかもしれない。

「勘弁してくださいよ。誰に言ったんです」

 時間にもよるだろうけど、昨日ならヨネもいたはずだ。リンチを受けましたなんて聞かされたら、卒倒しかねない。ヨネ以外ならひとりしかいないけど、それはちょっとどんな反応をするのか思いつかない。

「うーん。お父さんかな、たぶん。なかなか理解のあるいいお父さんじゃないの」

「うわ。なんて言ったんですか」

 なんとなく苦虫を噛みつぶしたように押しだまる姿を想像してしまう。

「えっと、『夜分遅くに失礼します。わたくし、加志摩芸術大学の建築デザイン科を専攻しております、木更津香織と申します』」

「加志摩芸大なんですか」

 そういうことには疎いのだが、その大学の名前は聞いたことがあった。

「そう、きみのお父さんと同じ大学。あたしの大先輩だね」

 なるほど、それだったか。

「父のこと、知ってたんですか」

「このあいだアキトを送ってくとき、藤堂さんにレクチャーされた。びっくり、有名人さんじゃんね」

 あのひとがどれほどの知名度があるのか考えたこともないし、知りたいとも思わなかったが、わかるひとにはわかるという程度なんだというのはなんとなく感じていた。

「だから、藤堂さんの知り合いだって話したらすぐ信じてくれたみたい。そんでね、結婚式のとき仲良くなったアキトが、自転車で私の家に遊び来てたの。でももう遅い時間だし、雨がひどくて帰すのもかわいそうだから、今日は泊めてもいいでしょうか。みたいなこと言った」

 気をきかせてくれたのだ。

「すみません、木更津さん」

 途端に彼女は、恨みにも似たじっとりとした目つきに変わった。

「あ、いや。カ、オリ……」

「今度苗字で読んだらおもいっきしパンチするわよ。ほっぺとか、ぶぅふぁッってなるからね」

 変な擬音だ。

 まだ残っていたがタバコの火を消すなり、すぐに表情を明るくして立ちあがった。

「アキト、食後にコーヒー飲むでしょう。消化作用を助ける働きがあるのよ。飲んだら送ってくよ。念のため病院行こうね。――ああ、今日はお休みか」

 思い出した。

「リュック。リュックありませんでしたか」

 あせっている自分に気づく。

「あったあった。ミルは大丈夫だよ。一応カバンも洗っといたからさ。でも、かわいいお弁当箱は割れてたなぁ」

「うそ。まいったな」

 キッチンのほうへ入っていったカオリが、心配そうに顔をのぞかせる。

「んー。万が一ってこともあるからさ、病院は行っといたほうがいいよ。もしなんだったら、休みでも診てくれそうなとこ探してあげるから」

「別に大丈夫です。すいません。やっぱり帰ります」

「え。え、あ、ちょっと。……アキト。ちょっと、コラ待ちなさい」

 玄関で強引に腕をつかまれた。

「いくらなんでも、それはないでしょう。送ってくって言ったでしょう。そんなことされたらフツー怒るよ」

「そういうわけじゃないんですが……」

「じゃあなに。ご飯まで食べて、あたしが信用できないっていうの。たすけてあげたじゃない」

 彼女は少し勘違いをしているらしい。じゃあ聞こう。

「昨日はどうしてあんなところに来たんですか」

 普通のひとが、駅裏の倉庫に用があるとは思えない。

 表情をこわばらせている彼女は、腕をつかんだまま放さない。

「礼子から電話があったのよ。店にアキトが来たんだけど、なんだか雨降りそうで心配だって。自転車で来たっていうじゃない。びっくりしちゃって。だから迎えにいったの」

「…………」

「でもアキト、道わかんないって言ってたから、きっとまた線路沿いだろうなって思って。結構さがしたつもりなんだけど、全然見つかんなくてさ。紫崎駅まで来たらアキトとかが出てきて、そのままどっか行っちゃうじゃない。なんとなく様子が変だったからついてったんだけど――でも、なんであんな……。ひどいね、ひどすぎるよね」

 予想外の展開だった。最後の方には表情が沈んで、そのまま引き寄せられる。バランスが崩れて抱きしめられた。

 彼女の体はまだ湿っているようだった。

 どッと胸の奥のほうで、いままでに感じたことのない感情がわき起こった。

「……やめてください」

 はじめはうめくような声。

「やめてください!」

 突き飛ばす。思いのほか軽かった彼女の体は、弱くよろけて壁にあたった。

「放っといてください」

「ア、キト……?」

 タオルドライしただけの髪が乱れていた。なにが起こったのか理解できないといった表情をしている。

 過失的な罪悪感に視線が泳ぐ。

「たすけてくれたことには感謝してます。でも、やめてください。関係ないでしょう。どうでもいいじゃないですか。他人じゃないですか。――同情なんてしないでくれ」

 ふっとその刹那。彼女の双眸は激情に色を変え、長くて濃いまつげは微かにわななき、次の瞬間、見開かれたままの瞳が悲壮をたたえたまま色を失くしていった。

「……信じて」

 桜色に濡れたくちびるが震えていた。

「私を信じて」

 重くなった息を吐きだす。

「どうでも――いいじゃないですか」

 彼女を見ない。見なくなる。

 どうしてこんなことになったんだろう。どこかの過程でボタンを掛け違えたかのような違和感だった。

「放っといても恨まないから。どうか構わないでください」

「そんなふうに思ってるの。私はただアキトが心配だから。ねえ、お節介? 迷惑? 押しつけがましい?」

「そこまで考えてない。考えるほど親しくもないし。あなたのことはなにも知らない」

 お節介に感じたのは事実だ。素直に受け入れられないで、わけのわからない感情に突き動かされた結果だった。すでに後の祭り。

 静かに時間がながれた。とても重く、冷たい時間だった。

 まるで氷の固まりように、抱えているだけで冷たさが痛みに変わるような、長く我慢していられるような沈黙ではなかった。

 彼女はゆっくりとその静寂をやぶった。

「私ね、一回死のうとしたことがあるの」

 くちびるの端を自虐的につりあげて、カオリは窓の方に視線を移した。

「近所にちょうどいいビルがあってね。汚くて人気がなくて。どうせ地面にぶちまけるんだったら、私にお似合いかなって」

 ソファの上からネコがじっとこちらを見つめている。

「そしたらまあなんていうかさ。おんなじこと考えてた人がいたみたいで、私が目をつけてた場所にお花があったんだな」

 彼女の視線を追って窓の外を見ると、家々の屋根の切れ目から古い六階建てのビルが見えた。

「なんか親近感わいちゃってね。どこの誰かもわかんないんだけど、どんな気持ちで逝っちゃったのかな、とか。いろいろ話したりしたわけよ。まあ、はたから見たら完全に私のひとり言になるんだろうけど。それでも死ぬまえに誰かと話したくて、誰でもいいから話を聞いてほしくて。フられちゃった彼氏のこととか、横取りした親友への恨み言だとか、もう洗いざらい。いつでも飛び出せるように非常ドアを開けてさ、その場所に座ってしゃべってたわ」

「…………」

「高校のとき、大学生のひとと付き合ってたのよ。当時ちょっといじめっていうか、学校で孤立しててさ。そんなときに会ったひと。いつでも私のこと考えててくれたから、私もなんでも打ち明けられた。このひとなら私のこと守ってくれる。このひとについていったら、きっと幸せになれるんじゃないかって。信じてみた。信じられた。私にはそのひとが必要だった。そこに私の居場所があったから。ここでなら生きていけるって、思えたんだ……。高校卒業したら結婚する約束もしたわ。お互いの親にも会ったし、結納の準備もはじめて――しあわせいっぱいでさ。世界中のどこにも居場所がなかったはずの私が、いま世界中で一番しあわせな場所にいるんだって感じたよ」

 強くくちびるを噛みしめる。彼女の瞳に映っているものが見えなかった。

「他の女に子どもができたんだって。親友だと思ってた女の子。なんにも知らないふりしてる。ずっと信じてたのに。怒ってないって言ったら嘘になるけど、怒りよりもっと悲しくて、悲しみよりずっと虚しい。なんか、つくづく自分はこういう運命なのかなって、とにかく虚しくなった。そしたら誰ともしゃべれなくなってね。ほんと言語障害っていうのかな、誰に会っても言葉がでてこないの。それに、かなり人間不信もはいってたしね」

 顔を戻す。痛々しいほどに自虐に微笑んだ姿は、けれどどこか潔さにも似て美しかった。

「そんな話してたら、何時間もたってた。もう真っ暗で、きれいな星空が見えるのよ。おかしなことに、なんだかそれですっきりしちゃってね」

 自嘲にも似た、しかし晴れやかな笑みだった。

 正面からまっすぐな瞳にとらえられた。

「アキトは昔の私だよ。友だちにも好きなひとにも裏切られて、誰も信じられなくて、誰にも打ち明けることもできなくて、なにもかも拒絶することしかできなかった私。だから力になってあげたい。私みたいに思いつめるまでになってほしくないから」

「どうしてですか」

 自分の声が震えているのを感じた。

「どうして。他人なのに……」

 カオリは悲しそうに微笑んでいた。とてもさみしそうだった。

「そうかもね。私はアキトのこともあそこで亡くなったひとのことも、なんにも知らない。たぶん私はそのことを理由にして、きっかけにしようとしてるだけなんだと思う」

「…………」

「私は――誰かに必要とされていたいのかもしれない。おまえは要るやつだって言ってもらいたいのかもね。あのひとには要らない女でも、他の誰かになら必要とされてると思っていたいんじゃないかな」

 だったらそれは、つまり誰でもいいということではないか。単に彼女の理由に、都合よく利用されようとしていただけではないか。

 ふっと、息苦しい切なさにも似た怒りがわきあがるのを感じる。

「……迷惑だよね。ごめんね」

 そんな表情を読みとったのか、ひとりでさみしそうに言ったきり、彼女は顔を伏せてしまった。

 両手にあふれんばかりの水をすくって、理不尽に手渡されたかのような感触だった。理不尽ゆえに憤りだろうか。

「結局自分が弱いから他人にすがりたいってだけかよ」

 彼女は驚いたように顔をあげた。予想だにしなかった反論だったのだろう。

「でもわかって。誰かと一緒にいることで変われる。アキトも変われるわ。私が変えてあげる」

「勝手な価値観を押しつけないでくれ。オレはあんたみたいに弱くない。死にたいなんてこれっぽっちも考えたことない。オレはいまのままでオレなんだ」

 吐きだす叫びに、彼女は激しく首をふった。

「アキトは勘違いしてる。ねぇ、不安なの。さみしいの。自分の居場所がないんだって思えてしまう。アキト。ねぇアキト。私を信じて。私は味方だよ。どんなときでも力になってあげる。アキトが誰も信じられないって言ってもいい。けど、私だけは信じて。誰かにすがりたいときってあるでしょう。泣いてるとき、誰かに隣にいてほしいことだってあるでしょう」

「アキトアキトアキト――もうなんなんですか。なれなれしく呼ばないでください。たった何時間かいただけで、オレのなにがわかるっていうんです」

「わかろうとしてるのよ。わかってあげたいの。アキトは私みたいになってほしくない」

「余計なお世話だ。オレはあんたじゃない。オレのことなんかなんにも知らないくせに。あんたになるわけないだろう。あんたのドラマに勝手に巻き込まないでくれ。死にたいとか悲劇のヒロイン気取りたいなら、ひとりで勝手に演ってろ。迷惑なんだよ」

 愕然と大きく見開いた木更津香織の瞳。負けないよう強く見つめ返す。光は不安と絶望にゆがんでいた。不意に、堰を切ったように涙がもりあがりとめどなくあふれでた。

「……かえって」

 感情を押し殺した深い声が聞こえた。

「出てって」

 両手で顔を覆ったまま、彼女は激しく叫んだ。



    六 


 どこをどう通ってきたのかおぼえてないが、家に帰り着いたころにはもうすっかり日が暮れてしまっていた。

「あれ、アキちゃん」

 玄関先でふらふらしていたヨネは、顔をくしゃくしゃにして、まくしたてるように甲高い声をあげた。

「もぅ心臓に悪い。途方もなく心配しましたよ。悪い想像するなら世界一ですからね。ほんとにもぅ、こういうことは金輪際やめてくださいね。あぁ、でもよかった。お父さまも心配なさってるんですから、今度から遅くなるときは、せめて電話の一本くらい――あれ、こんな服持ってましたっけ」

 借りたジャージ姿のままだった。リュックも服も忘れてきた。自転車は駅だ。こっちは明日の朝にでも取りに行かないと。

「ごめん、ヨネ」

 涙ぐみながら玄関のドアを開けてくれる。

「いいんですよいいんですよ。きっと心配するのも私の仕事なんです。だいたい私は重度の心配性なんですから」

 ヨネといると落ち着く。なんていうか、優しい気持ちになれる。

「寒くないですか。夕飯、すぐに食べれますからね。それともお風呂入っちゃいます? あれ、それよりほっぺの絆創膏どうしたんです」

「ヨネ」

 衝動的に抱きついていた。

「ずっと待っててくれたんでしょう。ありがとう」

 一瞬驚いたようだったが、冷たい体のヨネははにかんだように、メガネの赤い縁を押さえていた。

 それからふっと、彼女は息を吐くようにこぼした。

「それくらいしかできませんから。待つことには、でも慣れています」

 玄関から明るい家の光がこぼれている。懐かしいにおいに胸がいっぱいになった。そして鼻腔を、ヨネのにおいが満たした。

 母に接するとはこういう感じなんだろうかと想像してみる。そんなこと、実際に言ったら怒られるだろうけど。

 ヨネは好きだ。彼女は特別だ。なんとなく、ヨネだけは裏切らないでずっと味方でいてくれる気がする。その「なんとなく」が、きっと母親に近い感情なのかもしれない。無条件に信頼させられ、それを納得させるだけの安心感がある。

 姉のよう、というのとはやっぱり違う気もするのだ。ほんわかとしたイメージが、記憶のなかの懐かしい部分をそっとなでているようだった。

 書斎の父はいつもと変わらなかった。顔も見ずに、他人に迷惑をかけるな、と低く返しただけだった。予想通りなのでなにも感じない。もう慣れてしまった。

 それからヨネの作ってくれた肉じゃがを食べて、風呂に入った。それを見届けてヨネは帰っていった。もう遅いのだから泊まっていけばいいのに。でもいつも「通いですから」と断るのだ。大学生だから学校が早いということでもないとは思うのだけど。悪いことをした。彼女にはいつも世話になっている。彼女にだけは心配かけちゃいけない。

 ベッドに横になって、とりとめもないことを考えていた。

 割ってしまった小林の弁当箱。明日ちゃんと謝ろう。弁償しないと。

 それから、木更津香織。

(――昔の私だよ)

 泣かせてしまった。まさか泣くなんて思わなかった。言いすぎた。

 あのひとはしあわせだ。そしてたぶん、いいひとなのだろう。けれど、とても弱い。

(一回死のうとしたことがあるの)

 自らの弱さを押し開き、無防備にさらけだしたそれは、おそらくもっとも触れられたくない恥部であり、場合によっては致命傷になりかねない最大の弱点に違いなかった。

 けれどもその弱さを認めて打ち明けることは、とても勇気が必要なのだ。

 ただそれが突然で、重かった。どう扱っていいのかわからくて、つっぱねた。

 どうして自分なんだという気持ち。

(……自分の居場所がないんだって思えてしまう)

 彼女は他人に依存することで、居場所を求めようとしているようだった。だから裏切られると、ショックが大きいのかもしれない。

 ならばひとりで生きればいい。誰にも頼らず、誰も信じず。

 それは彼女が言うようにつらいことなのかもしれない。でも楽しみがないぶん悲しみもない。友だちを作らなければ裏切られることもないのだ。

 たしかに冷たい世界だろう。

 でも、終わりのない世界だ。

 果てのある世界でその果てを知ることと、ずっと果てにいて果てがあることを知らずにすむこと。どちらがしあわせだろう。

 知らないふりをしているのは卑怯かもしれない。生きていることを認識せずに生きているようなものだ。絶望しなければ死にたいとも思わないだろう。

(逃げちゃったけどね……)

 でも、彼女は世界にとどまった。

 だから強いのだろう。

 起きあがった。

 やっぱり謝らなきゃ――。小林より先に。

 メモ用紙をひっぱりだした。携帯電話の番号が書かれている。暗いリビングに出る。

 なんて言おう。

 なんて言われるだろう。

 ――なにも考えまい。悪いのはこっちなんだから。

 電話の脇に走り書きのメモが置いてあった。電話番号と住所、それから『晶人』と。名前は丸でかこんである。父の字だった。

 彼女の泣き顔を思いうかべながらボタンを押した。

 何度かコールしたあと、留守番電話に切り替わった。

 言うべき言葉が見あたらなかった。本当はなんとでも言えるはずなのに、どんな台詞も陳腐で浅はかに思えた。

 受話器を置く。

 そして胸になにかがつかえた。それは関口に蹴られた傷よりも痛んだ。



    七 


 次の日、小林が来るより早く家を出た。

 まだ教室には誰もいない。こんな時間に来たのは初めてで、なかなか新鮮だった。

 遠くで野球部の朝練の掛け声がする。女子が何人か教室に入ってきた。いつもは彼女たちが一番乗りなのかもしれない。

 それから問題児というレッテルをはられた茶髪が三人が入ってきた。驚いたようだった。なにしろ、これから机を逆さにしたりしなければいけないのだから。けれどもすでに席に着いていれば、おいそれと手がだせないようだった。

「ひどい顔してんな。誰にやられたんだ。俺らが仕返ししてやるよ」

 額の絆創膏を指してひとりが言った。ヨネには体育のとき転んだと偽った。他の二人がおおげさに笑った。

 だんだんひとが多くなり、しだいに教室は朝のにぎわいに満ちていく。いぶかしそうに小林が顔をのぞかせた。

「晶人、あんたねぇ」

 憮然としているようだが、いまは無視した。謝るのはいつでもできる。

 ようやく関口がやってきた。

 関口と不良グループがつるんでいるのは公然の秘密だった。秘密というより、とりたて声にだして言うようなことでもないので口にしないだけだ。知らぬは彼の善人面にだまされている、おめでたい教師連中ばかり。

「おはよう、佐山」

 深呼吸をした。胸がざわざわするのを感じる。ゆっくり立ちあがった。

 関口が近づいてくる。無表情に、一歩、一歩。不安そうに戸口で顔をしかめる小林。

「このあいだは休んだりしてどうしたんだ。心配したぜ」

 偽善の笑みをうかべた関口。一歩、一歩。

 もう一度、深呼吸。関口を見据えたまま。にぎりしめた。こぶしを固く。吐き気がする。

 左足が動いた。これは軸足。それから右足がまっすぐ、的確に関口のみぞおちをとらえた。

 一瞬なにが起こったのかわからないといった表情をした関口はのろのろと後ずさり、中腰になって苦悶の言葉を吐いた。

 周囲がまだあっけにとれているうちに、その横っ面をおもいきり殴りつけた。

 関口は顔を真っ赤にしてつかみかかってきた。背後から誰かに羽交い締めにされる。脚をばたつかせて関口の腕を蹴る。脇腹にも二発入った。ざまあみろ。別のやつに脚を押さえられる。

 悲鳴をあげる女子。

「先生、センセイ!」

 小林の姿が消えるのが見えた。

 真っ白になった。


       *


 気がついたら保健室だろうと思っていたが、予想に反して自分の部屋だった。

 どうやって帰ってきたんだろう。

 頭はくらくらし、ただただ体がしびれた。心臓があちこちにあるかのように、腕が、脚が脈打っている。痛い、という感覚とは微妙に違う。熱い、でもない。全身が悲しんでいた。

「ああ、ああ……、アキちゃん」

 ヨネがいた。ベッドのかたわらに座り込み、泣きはらしたような顔で取り乱していた。

「大丈夫ですか。手は動きますか。痛いですか。私がわかりますか。ああ、なんでアキちゃんがこんな目に――ごめんなさい、ごめんなさい。ああ、ああ、本当に」

 そっとヨネの頭をなでた。心配しなくてもいいよ。つやつやした髪が指をすべった。

「アキちゃんがいじめられてたなんて――私、ちっとも気づかなくて……ごめんなさい、ごめんなさい」

 どうしてヨネが謝るんだ。父親も教師だって知らなかったのに。

 ヨネがいじめという言葉を口にして、ようやく自分がいじめられていたことに気づく。

 クラスの連中は知ってたのに、誰もそれを声にしない。不良が怖いとかじゃなくて、関係ないから。

 いじめなんてどこにでもあるし、それがあたりまえすぎて気にとめるような要素ではないのかもしれない。

 たぶん教師たちは、なんとなくわかっていたのではないかと思う。人がいればそれなりにいさかいが起こるものだ。いじめのない学校なんてあるんだろうか。見てないから認めてない。そういうことだろう。

 願いはひとつ。いつも無口のくせに生意気な佐山くんが、とうとう反逆したと認識されること。密室は崩壊した。

 次に彼らの目に映る佐山晶人は、きっといままでとは違う佐山くんになっているはずだ。刃向かった身のほど知らずに変わるかもしれない。それでもいい。確実に変化は起こる。

「ねえ、ヨネ。ぼくは逃げてないよね」

 ヨネは細いメガネの下で、充血した丸い目をきょとんとさせて、そしてくしゃくしゃになって笑った。

「逃げたっていいんですよ。勇気を間違えないでください」

 それから一週間学校を休んだ。担任の判断だった。怪我の回復の問題もあったし、学校側もそれなりに都合があったのかもしれない。

 毎日ヨネが来てくれた。彼女に頼んで新しい弁当箱を小林に届けてもらった。

 担任も毎日来たが、会いたくなかったので部屋から出なかった。何度も父に謝る声が聞こえた。

 その七日の間に父親と三度ほど顔をあわせたが、なにをしゃべったのかおぼえてない。なにも話していないのかもしれない。

 図面さえ開いていればしあわせというひとなのだ。小学校のときから参観日をはじめとして運動会などの行事はもとより、三者面談にさえ顔を見せたことがなかった。だからいつからだったか、もうプリント類を渡すこともやめてしまった。このひととは他人なんだから。



    八 


 藤堂さんが家にやってきた。

 昼休みなのだろう。長い髪を後ろでしばり、白衣の袖をまくりあげている。ヘビースモーカーが禁煙パイポをくわえていた。

 いぶかしさを感じながら、リビングで慣れないお茶をだす。今日はヨネが遅い。

 新婚旅行のお土産を持ってきてくれたらしい。どこかで見たことのあるようなチョコレートの詰め合わせだった。

 しばらく藤堂さんはイスにも座らず、壁のクリムトの複製をながめるふりをしていたが、意を決したようにふり向いてこう言った。

「なんか、困ってることとかないか」

 悩みごととか、と続けて、相談にのろうじゃないかとようやく席に着いた。

 ゆったりと脚を組んでから、藤堂さんは片目を閉じた。口の端でパイポが上下している。

 どこかで情報がもれたらしい。心配して来てくれたらしかった。不器用なひとなので、気をつかっても裏目にでるのだ。うれしかった。

「大丈夫です」

 はっきりと言うと、そうか、と深い息が聞こえた。

「正直、聞いたときはびっくりした。もっと早く言ってほしかった。俺でも力になれたかもしれない」

 眉をひそめる。

「……力ってなんですか」

 少しきつい言い方になってたのかもしれない。

 心配そうに身をかがめる藤堂さんに、なんだかとてもさみしい気持ちになった。

「……ひとの居場所ってなんでしょう。誰かの中でしか人は生きられませんか」

 精悍な顔に、一瞬の驚きと恐れがうかんだのを見逃さなかった。

 太いため息をもらして、藤堂さんが脚をくずした。

「それと同じようなことを言った女がいた」

「ぼくは木更津さんのようにはならない」

 疲れたように彼は目を閉じた。

「……聞いたのか」

「藤堂さんの名前までは言いませんでしたけど。ぼくはぼくのやり方で居場所を作ろうとしただけです」

 とても長い時間、藤堂浩二郎は動かなかった。ようやく目を開けると、おもむろに立ちあがる。

「なら俺には、なにも言う資格はない」

 まるで目が合うのを避けるかのように、そそくさと帰り仕度をはじめる。

「すまないが、俺には理解できない。――そう伝えてくれ」

 そうして背中を向ける。学校まで負ぶってくれた力強かった大きな背中が、なんだかとても弱々しく見えた。自分は本当にこのひとになりたかったんだろうか。昔のぎらぎらしていた頃の藤堂さんがなつかしい。

 家の奥の方でドアの閉まる音がした。



    九 


 二日目に小林と一緒に津野が来た。津野はしきりに「いいな、おまえ。勇気あるよ」と言っていた。頭にきたので怒鳴って追い返した。

 それから二日後に、また津野が来た。くちびるの端に血をにじませて、ゆがんだメガネのフレームをしきりに気にしていた。やっぱりおまえはすごいよ、と笑っていた。

 そして日曜日が来て、明日から再び登校ということで、気張ったり憂鬱になったりしていると電話がかかってきた。

「……佐山か」

 陰気くさい声。すぐに津野だとわかった。口も臭いのだが、受話器ごしなのでそこまではわからない。

「おれ、明日死ぬわ」

 それだけ言い残して電話はきれた。生徒名簿なるものがあるのが非常にいまいましかった。

 いらいらした。

 死にたきゃ勝手に死ねよ。どうしてだまって死ねないんだ。

 この世には本当は誰かに止めてほしいがために自殺を公言したり、遺書とかを残さないと理解してもらえないと思い込んだりするやつがたくさんいる。

 本当に死にたきゃ、いつだってどうやってでも死ねるんだ。別にわかってもらわなくてもいいじゃないか。少なくとも、世界中で自分だけが解ってるんだから。

 解れよ。

 最後までそれしかないんだ。

 人間というやつは死ぬまで誰かに依存しないとならないのか。死んでしまえばひとりだというのに。

 そんなことを考えているうちに夜が明けて、むかむかと胃が痛くなってきた。

 制服を着て家をでたら、ばったり小林に会ってしまった。

「え、学校行くの? ご、ゴメン。今日も休むんだと思ってお弁当作ってない」

 興味ない。

「あっ……晶人」

 振り切って高校に向かう。カバンを忘れたことに気がついたが、よくよく考えればそんなもの必要ない。

 誰の視線も気にならない。

「オイ、佐山じゃねえ」

 校庭でガラの悪い声で呼び止められる。シカト。

「待てよ、佐山」

 さわるんじゃねぇ。振り切る。振り切る。

 階段をのぼる。

 長い廊下の先。

 一年D組。

「津野の机はどこだ」

 教室の入口にいた女子の集団にたずねる。あまりの剣幕に恐れをなしたのか、泣きだしそうな顔で震えながらひとつの机を指した。

 汚い机だ。

 机の上に無数の白い靴跡が付いている。幼稚な罵声がマジックで落書きされている。卑猥なマークが彫られている。よく見ると脚がやや折れ曲がっており、少しの振動でも転んでしまいそうだった。

 蹴りつける。

 豪快な音が静かな朝の教室に響く。机の中身が飛び散る。引き裂かれた教科書、濡れたのが乾いてくたくたになったノート類、まるめられたティッシュ――くだらない。

 罵声とも雄叫びとつかないものをあげながら、なおも蹴りつづけた。鉄がひしゃげて、足の感覚がなくなって、誰かに取り押さえられた。そいつも殴った。殴り返してきたので反撃した。

 そのうちにだんだん人が多くなってきて、小林、教師たち、そうしてとうとう津野も現れた。

 津野は――

 なにも言わなかった。なにかにじっと耐えるようにうつむき、人の隙間から顔をのぞかせ、ただくちびるを噛みしめたまま。

 人垣を押しのけ、津野につかみかかった。抵抗することもなく、津野の背中が窓ガラスにぶちあたる。

「さっさとやれよ。死ぬんだろう。どうすんだよ。屋上からでも飛び降りるか。やれよ。みっともない声だしてよ。みんな見ててくれるってよ。よかったじゃねぇか」

 苦しげな顔をした津野は、しかしなにも、どこも見ていなかった。それが余計アタマにきた。

「オレはテメェが死ぬことなんか興味もねえ。死にたきゃ勝手に死ねよ。でもな、オレと関係ねぇとこでやれ。オレは止めない」

 脱力したように津野は、持っていたカバンを落とした。ちゃんと閉まっていなかったのか、くすんだ分厚い封筒が飛び出した。ペン習字をすすめたくなるような字で、『遺書』と書かれていた。

 あたりは騒然となった。

 津野は座り込んだまま泣いていた。子どもみたいに大きな、みっともない声で。


 遺書には関口一也と各クラスに点在する十人ちかくの不良たちの名前と、彼らから受けた暴行や屈辱の数々が列記してあったそうだ。

 さすがにこれには教師たちも驚きを隠せなかったようで、勢いに乗じた何人かが、日頃抑制させられていたものを放出するかのように優等生の仮面を次々と剥いでいった。

 そうして関口一也は学校をやめた。一時は始終不機嫌そうだった不良グループはすぐに元に戻り、それでもいくぶんか行動を制限して学校生活を続けるようになった。

 佐山晶人には「キレると怖いやつ」という新しいレッテルが貼られてしまった。それでも関口がいなくなったからなのか、しだいにぽつりぽつりと仲の良くなりかけたクラスメイトがでてきた。

 津野はその翌日からけろりとした顔で登校してきている。クラスでは腫れ物にでもさわる扱いを受けているらしい。

 そして、それが日常になった。

 かつての日常はいつしか埋もれ――そう、ちょうどかさぶたがはげ、新しい皮膚ができるごとく、まるで何事もなかったように、人々に正しいと思い込ませることができる、退屈で冗長な日々が姿をあらわしたのだ。

 時間はゆっくり、でも確実に流れ、気づいたら夏休みを迎えるまでになっていた。

 終業式の帰り道、八月最後の週にある花火大会を小林と見る約束をした。

「小学校以来じゃない、そういえば」

 白いブラウスが日差しを浴びてまぶしかった。

「なにが」

「晶人と花火見るの。すごい楽しみ」

 別れぎわに、バイトでもしたらと言われた。

 家に帰るとヨネがいた。アルバイトのことを話したら、すぐに笑われた。

「アキちゃんが働いてるのなんて信じられませんよ。仕事なんてできるんですか? 箸より重いもの持ったことないでしょう」

 あんまりな言い方だったので、翌日からバイト探しをはじめた。しかし時期が悪かったのか探し方が悪かったのか、なかなか思うとおりにはいかなかった。二日三日そんなことをしていたが、なんだかんだであきてしまった。すると「やっぱり」とヨネが笑った。

「アキちゃんは家にいてくださいな。どこかへ行っちゃったら、また心配でたまりませんからねぇ」

 木更津香織にもレダの礼子さんにも、あれ以来会ってない。ハネムーン帰りの藤堂さんとも、お土産をもらったときに会ったきりである。 津野と遊んだ日もあったがつまらなかった。

 ごろごろしながら暑さに耐え、ときにヨネと一緒で、たまに津野がいて、やっぱりすることもなく、そんなどうしようもなく漫然とした堕落的な夏休み。そんなあたりまえだけど、生涯にただ一度きりの十六歳の夏。二度と戻ってくることのない大切でいとおしい夏の日。

 ただ夏の暑さのせいにしてしまえばすむのに、それができなくて、ただただどうしようもなく切ない夏だった。

 あの日。

 どうしてそんなふうになったのかおぼえてない。ただ隣にいただけだった。それだけだったのに。

 風鈴の音と蝉の声が耳を離れない。

 汗のにおい。やわらかな体の感触。その温度。

 ――すべては夏の夢?

 夢だとしたら、すべてなにもかもが夢だとしたら、それは日常に変わる。

「いつまでもそばにいますからね」

 メガネをとったかわいらしい素顔。はじめて見た。照れくさそうに笑っている。

「いつまでもアキちゃんのそばに……」

 じっとりとしめったふくよかな肉体。捕らえて離さない激しい誘惑。そんな彼女を見たくはなかった。

 すべては夢。

 夢ならば後悔しない。すぐに忘れるようにあきらめてしまえる。でも、それは夢であればこそ。

 まぎれもない現実だけが、心地よいうずきとともにいつまでも寄り添っていた。


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