第一章
第一章
一
午後の光も流れ込まない雑居ビルの六階の非常口の前で、そのひとはひざを抱えてうずくまっていた。
ひび割れたコンクリートの床や壁からは、カビとも腐敗臭ともつかない、しみだしてくる年月がにおいたっていた。
一階はコンビニで、二階に小さな喫茶店となにかの事務所が入っている以外は、とにかく古い賃貸マンションである。入居者も少ないと聞く。
人気もなく静まりかえっているマンションの廊下で、ひっそりと座りこんでいる姿には、一瞬心霊の類を想像してしまった。
その白い服を着たひとは、長い髪のすき間から、うかがうようにこちらを見つめていた。
ごめんなさい、と言ったように思う。長い髪をかきあげ、道をゆずるように立ち上がった。住民だと思われたのかもしれない。
「母の知り合いの方ですか」
どう見ても二十歳前の女性だったけれど、それ以外には考えられなかった。そうでなければ、こんな場所にいることは考えられないというくらい、彼女はあまりにも不釣合いな印象だったのだ。
清楚で凛、どこかさみしげでありながら、同時に力強さを感じさせる女性だった。そこに、なんとなく懐かしいというか、奇妙な印象も抱かせた。
彼女はそれからようやく手に持っていた花束の存在に気づいたらしく、ああ、と言った。
非常口の前にはひと月前に置いた花束がひからびていて、不快なにおいにひと役買っていた。
彼女は少しだけ申し訳なさそうな、日本人特有のこういうときどんな顔をしたらいいかわからないと言いたげな、複雑に曖昧な表情をうかべていた。
彼女の脇をすりぬけ、持ってきたビニール袋に花の残骸を片付ける。ここの管理人はほとんどいないも同然のようなのだ。指先でそれはかさかさとくずれた。
新しい花を添える。白い花が十本。
たのんでもいないのに、彼女は隣で手をあわせた。薄暗いなかで、肌は土気色だった。
胡乱な視線が気になったのだろう。彼女はまた曖昧に微笑むと、そそくさと逃げるように立ち去ってしまった。
ごめんなさいね、ともう一度もらして。
謝るからには、やはりやましかったのだろう。かつかつと遠ざかるヒールの音を聞きながら、そんなふうに思う。あまり目をあわそうとしなかった気もするし。
せま苦しい通路は、青っぽく沈んでいる。非常口の明かりが切れかかっていた。
非常ドアのくせに鍵がかかっている。いざというときに役に立つのだろうか。
けれども十年前、鍵が開いていたために母はここから飛び降りたのだ。遺書もなく、誰にもなにも告げず。
その日、誕生日だったひとり息子はこのドアの前に置き去られていた。無理心中の予定が、やはり子どもに罪はないと思いとどまったのか、それとも自分の死を見届けてもらおうと連れられてきたのかはわからない。
本人でさえわからないのだ。第三者の憶測などあてになるはずがない。
そのときの記憶がほとんどないのだ。ひとの死を認識するにはまだ幼かったのか。理解するには早すぎ、悲しむには時間がかかりすぎた。それだけのことなのだ。
錆びた鉄の扉を前に、無言で手をあわせる。
いつも悩むのだけど、このときどんなことを考えればいいのだろう。
十年たっているのだから、冥福を祈るというわけにもいかないし、もはや写真でしか思い出せない母親にどんな感情を抱けばいいのかもわからない。毎月、そうそう目新しい出来事が起こるほど非凡な生活を送っているわけでもないので、とりたて報告するようなことさえない。
目を閉じると、視覚以外の感覚が敏感になるそうだ。
果実の腐敗臭に似た酸っぱさが停滞するなかに、清廉な気配が漂っていた。先程の女性の残り香だと気づいたのは、それから半月後だった。
二
海にほど近い高台で、小さなチャペルが緩慢な鐘を鳴らしている。
空は工場の排煙のように濁っていて、まるで神聖で純白な空間を蹂躙しようとするかのように、重く垂れ込めていた。
祝福の言葉を投げかける数十人の友人たちに囲まれ、いつもはシニカルの藤堂さんも、照れくさそうに頭をかいてばかりいた。
不思議な気分だった。あの藤堂さんが結婚するのだ。
小学生のとき、入学したての慣れない通学路で靴擦れに悩んでいたところを、ランドセルを胸にかついで、保健室まで負ぶって行ってくれた。
それ以来、六年生の藤堂さんはずっとヒーローだった。兄とはこういう感じだろうかとさえ想像した。
下校時間が早くても、高学年が終わるのを校門の前で待っていたこともある。いつも彼を慕う何人かの男女がそばにいて、自分もそこにいたいと淡い憧れをいだくこともあった。
けれど、学年の差が彼らとの関係を明確にあらわしているようで、なんともなしにあきらめてもいた。
藤堂さんが中学に入ると、以前のように一緒に遊んだりすることもなくなってしまった。学年の差以上に学校の差というものは大きくて、別の世界へ行ってしまったんだと納得させることにした。
俗に言う不良になったという話も聞いたが、仲間のために教師を殴ったといううわさには、胸が熱くなったおぼえがある。
それから高校、大学と、まったく接点もないままだった。たまに顔を合わす機会があっても、どう接していいのかわからなかった。
きっとそれは、藤堂さんが思ってるよりずっと大人になっていて、反対に自分は小学生の気持ちのままというギャップなのかもしれない。
付き合っている女性がいないとは思わない。むしろ、いて当然だろうくらいには思っていた。けれど結婚というのは意外だった。それだけだ。過程を知らず、結果だけを知らされた。やはり自分は外部の人間なのだろう。
タキシード姿の藤堂さんの隣で、純白の衣装に身をつつんだ新婦も、顔をくしゃくしゃにしている。友人たちがはやしたてると、二人は困ったように顔を見合わせて、幸せそうにはにかむのだった。
そんな集団を遠巻きにながめながら、なんだかとてもみじめな気分だった。ぶかぶかの緑色のブレザーも、場違いさをアピールしている気がする。
集まった男女はみなスーツや礼服姿で、歳も自分より四つか五つは上のはずだった。学校の制服なんか誰も着ていない。
本当にここにいていいのだろうか。
いや、それ以前に、本当に自分は呼ばれたのだろうか。なにか手違いがあったのかもしれないという疎外的な妄想に、体をまるめさせずにはいられない。
それでも招待状が届いたときはうれしかったのだ。少なくとも、他の友人たち同様に祝福してほしい人物だと思ってくれている。疑心暗鬼は恥ずべきだ。
「アキト」
舞台の上で藤堂さんが呼んだ。見あげると、目を細めた精悍な顔が、やさしそうに微笑んでいた。
「ありがとな、来てくれて」
なんと答えていいのかわからず、いえ、とうつむきがちにつぶやく。こんな機会になっても、伝えたいはずの言葉が出てこないのがもどかしかった。
「あんなに小さかったアキトも、もう高校生なんだもんな」
感慨深そうにうなずいた藤堂さんは、ずっと昔から大きかったような気がする。藤堂浩二郎になりたいと、いまでも思う。
同性異性関係なく人気があるというのは、人間自体の魅力だ。たぶん自分があまりにも貧弱で薄弱だから、他人に頼られるような存在にあこがれるのかもしれない。
「ねえ、きみ」
不意に呼ぶ声。肩に触れられたので、自分だと気づく。藤堂さんは、反対の方へ行ってしまった。
ふり返ったところに女性が立っていた。
「藤堂さんのお友だち? アキトくんていうの」
白く細い指が腰のあたりで組まれていた。それがゆっくり胸のあたりまであがってきて、長い人差し指があごのあたりを指した。
「あたし、葉月のお友だちね」
笑っていた。大人びた雰囲気。顔の形が逆さにした桃のようだ。
「このあいだの――」
言いかけると、彼女もすぐに気がついたようで、わずかな驚きとかすかな納得をうかべた。
向こうの方で歓声があがった。友人に抱きついた新婦が笑いながら回転していた。ドレスが巨大な花のように広がった。
「高い貸衣装だって言ってたのに」
その口調が無感情なまでに素っ気なくて、なんとなく気がついた。
他の参加者たちとはどこか違う。馴染まないというか、拒絶しているような感じだろうか。
そして周囲も、まるで彼女が見えないかのようなのだ。さながら、自分と同じ境遇に思えた。
彼女は居心地悪そうに肩をすくめて見せた。
それから、ふと怪訝そうに上を向いた。つられて空を仰ぐ。頬にわずかな水滴があたった。
「降ってくるかな」
独り言かもしれないので、微妙に首をかしげてみせる。
「アキトくん。カサ持ってきた?」
落ちてきた視線を反射的に避ける。
「バスで来たんで」
今度は鼻の頭に、少し大きめの水滴があたった。
藤堂さんも気づいたらしい。にごった空を見あげ、それからふり向いて同じことを言った。
「オマエ、カサ持ってきたか」
首を振る。
「これから二次会なんだけどどうする?」
また首を振る。
すると藤堂さんは視線を移して、すばやく言った。
「すみませんけどコイツ、家まで送ってやってくれませんか。……えっと、木更津さん」
それからまたたくまに雨がやってきて、せっかくのジューンブライドはフェードアウトしてしまった。
そもそも本場の国では、六月は天候がいいからだと聞いたことがある。梅雨前線停滞中でも欧米文化にあやかろうという精神が、悲しいぐらいにジャパニーズスピリットを感じる。
もっとも、ショットガンを突きつけられるような結婚式にはお似合いの幕引きかもしれない。
三
外車だった。知識がないので、判別の手段はハンドルの向きくらいである。
妙に丸い。かわいいと言えばオモチャのような愛らしさはあるのだが、ミニカーを等倍率で拡大しすぎたのではないかというくらい、不相応に大きかった。
ボンネットに貼られた若葉マークと、車体の鮮やかな黄色が見事にマッチしていた。
「濡れるわよ。早く乗って」
見とれていると声が飛んできた。
彼女が運転席側のドアを開けたので、あわてて助手席に乗り込む。やわらかくて甘い、不思議なにおいがした。
低くエンジンがかかる。
大降りというほどではなかったが、駐車場に着くまでほどほどにたたかれてしまった。
カーステレオからは、聞きなれない女性の歌声がながれてきた。
「なにアキトくん?」
後部座席に頭をつっこみながら彼女が言った。意味がわからなかった。生温かい滴が頬をつたう。
「苗字。教えて」
タオルをふたつ持っていた。
「佐山です」
お礼を言って顔を拭く。
「佐藤のサに、山登りのヤマ? アキトはどんな字?」
「水晶のショウにヒトで晶人」
どうしてそんなことを聞くんだろう。
「ああ。日をみっつ書くやつね」
視線に気づいたのか、彼女は髪を拭いていた手を休める。
「あたしね、漢字じゃないと名前おぼえられないの」
前を向く。雨はまだおさまる様子はない。やっぱりタオルは洗って返したほうがいいんだろうか。
首をかしげて踊ってるみたいなワイパーがおもしろくて、少しだけながめていた。
「香織」
彼女もワイパーがおもしろいのか、ちょっとだけ笑っていた。
「木更津香織っていうの」
どうやら自分の名前らしい。
「佐山晶人です」
ちょっとだけ目を細めて、くちびるをゆがめた。無邪気な嘲りのような笑みだった。
「知ってるよ」
窓ガラスには、ななめに走った細かい跡が無数についていた。先のチャペルがかすんで見える。キリスト教じゃなくても教会で結婚式挙げられるんだから、日本人ってのはとことん立派な精神だと思う。
「ちゃんとシートベルトしめるんだよ」
ゆっくり景色が動きだす。
ながれる音楽にあわせて、木更津香織はハミングした。きれいな声だった。
足許を見ると、真新しい下敷きが濡れていた。靴の底で汚れを消そうとしたが、染みは広がるばかりだった。
ふと視線をあげると、カーステレオの脇に小指ほどの大きさの小瓶がぶらさがっていた。水色の液体が半分ほど入っていて、それが気になっていた香りの元らしい。彼女からするものと同じだったから、きっと香水なのだろう。
ハミングは聞こえるか聞こえないほどの、ほとんど存在のないものになっていた。オーディオも聴き入るほどの音楽でもなく、かすれたような声で女性は歌い続けていた。
なにか話さないといけないような気まずさだった。
いや、決して気まずくなどないのだろうが、どうも気をつかってしまう。初対面の相手になにを話したらいいのかわからなかった。
彼女も同じだったのか、おもむろにぽつぽつとたずねてきた。
藤堂さんのことからはじまって、無難に学校の話題にとどまる。ほとんど相槌のような返答にも、彼女はおおげさに驚いたり笑ったりした。
「お昼食べた?」
信号のない交差点に進入するタイミングを見はからいながらたずねてきた。時計を見ると二時半をすぎたところだった。
「私まだなのよ。ちょっと食べてかない」
もちろんおごるから、と付け加えた。
食事はまだだったが食欲もなかった。断るのも悪いようなので曖昧にうなずく。
彼女は二次会に行けば、ちょっとした食事はできたはずである。きっと行かないだろうな、という感じはあったけれど。
シーサイドラインに出ると、なんの予告もなく視界いっぱいの海が姿をあらわした。
小さな感動に、張りつくように窓の外を見つめていた。きっとめずらしかったんだと思う。
それからすぐに細い脇道に入り、エンジンがうなりをあげる急勾配をのぼった先に、小さな白い木造の建物がたっていた。
雨はずいぶん小ぶりになっており、カサなしでも大丈夫そうだった。
ワイパーが動きをとめ、車が停まる。
彼女に続いて降りると、湿り気を帯びた冷たい風が顔にあたった。
酸っぱいような懐かしい刺激が鼻腔をついた。そして、なにかをかき乱すように荒く打ち寄せる音が迫ってきて、鼓膜の奥でうなりをあげた。
「波の音がする……」
思ってたより騒がしくて驚いた。
「海なんだから」
彼女は当たり前のように笑っていた。
建物の前には、申し訳程度の小さい看板があって、ちょっとおしゃれな文字が踊っていた。
喫茶店レダ。
たしか、なにかの神話にでてきた女神だかニンフの名前だった気がする。
白い格子のガラス戸には、こちらはなんだかあまりやる気を感じない手描きで、『営業中』と札がぶらさがっている。
せまい店だった。カウンター席が三つ。四人掛けと二人掛けのテーブル席がひとつずつ。たったの九人しか座れない。
決して新しくない板張りの床や壁は、ウェスタン風のカフェを感じさせないでもない。よく言えば素朴。質素と言うより簡素だ。
「ハイ、礼子」
木更津さんが軽く手をあげると、カウンター席でぼんやり窓の外をながめていた女性が、ひと呼吸おいて緩慢そうに顔をあげた。
思わず息をのんだ。きれいな女性だった。
淡い色のブラウスを着た、病的なほど白い肌。無造作にながれる長い黒髪との絶妙なコントラスト。眉のあたりで切りそろえられた前髪の下、切れ長で黒曜石の輝きにも似た瞳が、感情を宿さないままかすかに動いた。
「おひさしぶり」
ほとんど抑揚のない声だった。下手な役者が台本を棒読みするより無感情。
礼子と呼ばれた女性は、まるで催眠術にでもかかっているかのように、ふらりと立ちあがる。
「ブレンドでよかったかしら」
「食べるのもあるとうれしいかな。お昼になりそうなやつ」
カウンターの中に入っていく姿は、まるで幽霊のようだ。なんというか。頭が動かない。動いているとき。歩いているとき。
どうやらこの店の主人らしい。他に店員らしき姿もないし、客もいない。音楽すらかかってない、とても静かな喫茶店だった。店の奥には古いジュークボックスがあって、鳴っていないそれが、それがなんだかとてもこの雰囲気にはあっていた。
窓際の二人掛けテーブルに着いた。高台のおかげで、窓一面に海が見渡せる。
まだかわききってない髪の毛を、彼女はしきりに気にしているようだった。
「すみません、ごちそうさまです」
笑顔が返ってくる。
「気にしないで。誘ったのは私なんだから。ここね、こんな感じだけど結構いけるんだ」
まもなくしてコーヒーが運ばれてきた。
「砂糖とミルク入れる? 入れたげるよ、何個?」
インスタントならたまに家で飲むが、こういうところでちゃんとしたのを飲むのは初めてだ。牛乳を飲むとお腹をこわす体質なので、ミルクは遠慮する。とりあえず角砂糖を一個入れてもらった。ひと口飲んで、もうひとつ自分で追加した。
「コーヒーの苦さがわかると大人なんだなあ。通はやっぱりブラックでね」
木更津さんは得意げに語って、カップに口をつける。
「んー。まあ、私も最初は苦くて飲めなかったな。大人ぶって飲むようにしてたら、自然と飲めるようになってたっけ」
思い出話に目を細める。
「最近のお気に入りはね、起きたてに飲む熱くて濃いやつ。最高よ。なんかもう、全身の細胞に染みわたるって感じ」
砂糖のおかげで飲みやすくなったが、甘味料の甘さが強くて、味わえるほどのうまさを感じれなかった。
木更津さんはさらに続けた。
「私ね、アイスコーヒーって邪道だと思うのよ。なんか、別の飲みものって気がしない? だから、夏でも汗かきながら熱いの飲んでるの。おかしいでしょう」
そこへ大きな皿を持ってきた礼子さんが、無表情で言った。
「本当のコーヒー通は、その豆の種類に応じてもっとも自分にあった飲み方を知っているものよ。ブラックが好きなら好きでいいけど、ストレートやブラックを飲むことが通の条件だみたいに言わないでちょうだい。それとホットも」
皿の上で焼きたてのクラブサンドが香ばしい湯気をたてている。
「だそうです」
悪びれた様子もなく、舌をだす木更津香織。
ぶしつけに礼子さんが、やや骨ばった長い指を突きつけてきた。
「新しい彼氏?」
「にしようとしてるところ」
にっこり笑って皿に手を伸ばす。
感情のない目を投げかけ、礼子さんは「趣味変わったわね」とつぶやいた。
不思議な女性だった。
なにを考えているのかさっぱりわからない。無口で無表情なのに、妙に存在感がある。けれど隙がなくて近寄りがたい。結局礼子さんとはひと言も交わさなかった。
店を出るとき、またいらしてね、と言われた。月並みな「ありがとうございました」よりも、不思議とまた来ようかなという気になる。クラブサンドがおいしかった。
雨はあがっていて、水たまりが光を反射している。
木更津さんは財布をしまうところだった。あわててお礼を言ったら、自信たっぷりに胸を張られた。
「いいのいいの。だって仲良しじゃない」
にこにこしたまま車のドアを開ける。
「今度からアキトって呼んでもいい? カオリって呼び捨てでいいからさ」
彼女は三つ年上の大学生なんだそうだ。さすがにそりゃまずいだろう。
今度はなるべく靴の泥を落としてから乗り込む。視線を感じてふり向くと、とてもほほえましいものを見るような顔をしていた。
彼女は紫崎までの道を知らなかった。電車とバスで来たので、道順を聞かれても答えられない。とりあえず最寄の駅まで行って、そこから線路沿いを走ることになった。
西の空が茜色に染まりつつある。
けだるげなカーステレオ、軽い満腹感と心地よい振動、車内に漂うやわらかな香り。コーヒーを飲んだはずなのに眠気を誘う。海はとっくに見えなくなっていた。
信号待ちのとき、それまで静かだった彼女が不意にたずねてきた。
「彼女とかいるんでしょう」
ゆっくり目を向ける。ちょっと得意げに口許をゆがめた横顔。視線だけがこちらを向く。
「いませんよ」
あわてて顔を戻す。さっき礼子さんと言っていた冗談を思い出す。
前の黒い軽自動車に、若い男女らしき後ろ頭が見えた。黄色い車が物めずらしいらしく、男の方がルームミラー越しにこちらを見ているのがわかった。
「どうして」
どうして彼女がいないのか、という質問だろうか。
それこそ、どうして、だ。
クラスでも彼女がいるやつなんて、二、三人ぐらいしか思いあたらない。噂になっているやつだけだから、本当は知らないだけでもっといるのかもしれないけれど。
きっと木更津さんのまわりは、あたりまえのように男と女はカップルなのだろう。だからきっと、大人の男と女は、付き合っているのが当然という概念があるのかもしれない。
木更津さんだって付き合ってる人はいるんだろう。彼女はいい人だと思う。優しいと思うし、美人だとも思う。
他に話題がないということもあるんだろう。前の車のブレーキランプが消え、再び景色が動きだす。
「これ、なんてクルマですか」
いきなり話題が変わったので、彼女はびっくりしたようだった。
「え、なに。クルマ。ああ、ビートルよ。フォルクスワーゲン・ニュービートル。燃費悪いのが玉に瑕だけど、まぁかわいい子には金がかかるってことよ。気に入った?」
さすがに「黄色いカブトムシなんて不気味ですよね」とは言えないので、いいですね、と答えた。
「でもね、クルマ好きな人には評判悪いのよ、これ。無駄が多いって」
「へぇ」
「無駄なんて考える生き物、きっと人間だけよ。だからある意味、人間らしいってことじゃない。――ところで、好きな子とかいるんじゃないの」
かなり強引に話題を戻そうとしている。からかい足りないのか。
「いませんよ」
「女友だちとかさ。かわいいなぁって思ってる子とかいるでしょ」
「友だちいないんですよ。いじめられてるんで」
ちょっとだけ不可解な視線を、彼女は向けた。
「笑えない冗談だね」
線路沿いの道は閑散としていた。町外れの道路脇には雑草が伸び放題で、濃い緑に視界がせまくなる。
「藤堂さんとかに言わないでくださいね」
「本気で言ってるの」
「なにがですか」
「いじめられてるの」
「冗談ですよ」
ため息をつく。
しかし彼女はなにかを感じたらしく、あわれみにも似た目を向けてくる。なにも答えないでいたのを、肯定ととったようだ。とても嫌だった。
「さっきもさ、学校の話になるとあんまり楽しそうじゃなかったから」
どの話も楽しそうに受け答えした記憶はない。
「私もさ、いじめられてたんだよね」
静かなつぶやき。彼女は前を向いていた。
「逃げちゃったけど」
それきりなにも言わなかった。
別れぎわに、走り書きしたメモをくれた。
「なんかあったら電話して。なんにもしてあげられないかもしれないけど、話なら聞いてあげられる。大丈夫、私は味方だよ」
わざと顔を見なかった。
「他人がどうかできることじゃないかもしれないけど、誰かに話して救われることだってあるんだから」
おおきなお世話だ。
四
シャワーを浴びた。
頭から熱いお湯をかけると、うなじのあたりがずきずきした。しばらくそうしていたが、やがて思い出したように深い息がもれた。
くもった鏡を拭く。
鋭い顔と目があらわれた。自分で言うのもなんだが、怖い顔だと思う。腺病質な肌に濡れて乱れた長めの髪。そこからのぞく鋭い目つきが、痩せっぽちの身体とは不釣り合いに、深く冷たく、ぎらぎらと自己主張している。どんなに身を縮めても、その目は冷徹な表情を変えることはない。
かわいげのない、と親が洩らすほどだ。よく言うよ。この目は芸術家かぶれのアンタにそっくりだ。
少しだけ笑う。自虐を込めて。
またシャワーをかぶった。
バスルームを出ると父親がいた。
「――遅かったかな」
腹の底でうなるような声をだす。きれいに刈りあげられた後頭部は微動だにしない。
このひとはいつも背中を向けている。いつからか子どもに顔を見せることをやめてしまったのだ。
口をききたくなかったので、まっすぐ部屋に向かう。
「浩二郎くん、どうだった」
後ろから遠慮がちに問われる。
もうずっと以前から、書斎に篭もるようになり、よほど快適とみえてとうとうそこから出てこなくなった。
たまにトイレなどに行くときに見かけるが、会話を交わすことなどない。同じ家で暮らしていても、他人のようなひとだから。
「黒い服着てたよ」
藤堂さんがよく使う、シニカルなジョークを真似てみた。反応がない。
さっさと自室に逃げ込んで、ドアを閉める。鍵もかけたかったが、あいにく付いていない。
うす暗い六畳間。濡れた髪のままベッドに倒れこむ。
目をとじた。
――深呼吸。
二回。
そして息を止める。
聞こえるのは静寂。それを許さない時計の音。一定の速度で動く秒針。そのためだけに生きている。とても器用だ。でも、ちっともうらやましくない。
(大丈夫、私は味方だよ)
木更津香織の声がしたような気がして、呼吸が意識を取り戻した。
見飽きた天井には木目がぼやけている。不気味にうごめいて見えるのは、光が足りないせいだろうか。夜中にベートーベンの目が動いたりするのと同じことだろう。
また目をとじる。
(私もさ、いじめられてたんだよね)
いじめられる側にもなにかしらの責任があるという。どこかで無責任なテレビコメンテータの口から洩れていた。
(逃げちゃったけど)
どういう意味だろう。
眠くなってきた。
五
環境とは日常が作り出すものである。そして日常とは、つねに無意識な環境の影響を受けながら進行していくものである。
たとえば毎朝、自分の机だけ前後逆に向けられていたり、チョークで落書きしてあったり、イスにはほどよく牛乳の染みこんだ雑巾が無造作に置いてあったりしても、それが日常にまで進展してしまっていたのなら、もはや手遅れなのだ。
体育の授業が球技なら必ず狙われるポジションになることも、監督教師の目をぬすんで靴を踏まれ、また転んだのかと笑われることも、それが日常ならあきらめもつく。
埋没していくものだからだ。
いつ発生したのかわからない。でも、いつかは終わるのだ。
そういうものなのだろう。
たとえば背が小さいとか足が遅いとか。肉体的な劣等で、生物的に弱いという認識。目つきが怖い。友だちがいなくてしゃべらない。暗い性格というレッテルを貼られる。
それらに第三者の感情が加わって、イメージが形成される。
勉強ができるやつより運動できるやつのほうが強いという等式が彼らのなかにあるのだとしたら、体育祭の戦力にならないクラスメイトは、むしろ足をひっぱるだけの邪魔な存在ということになりはしないだろうか。
教室の隅で奇抜な髪の色と制服の形をした、やたらと自意識を主張したがる連中が固まって、こちらをながめている。
低次元なやつらで、毎日律儀に机をひっくり返すようなことしかできない。不満と暴力でなんとかなると思っている。
胸クソ悪くなる。
けれど、いちいち気にすることもない。毎朝机や椅子を掃除することも、日課だと思ってしまえばなんてことはないのだ。
別に誰が手伝ってくれるわけでもないし、こちらから求めることもない。
そういえば、いつからだろう。ひとと関わるのが嫌で、ひとりのほうがどんなに気が楽かと思うようになったのは。他人を信用しなくなったのは、はたしていつからだったろう。
過去にこういうことがあって、という都合のいい思い出があるようでもない。
しいてあげるなら、「違う」という認識だろうか。
そう、自尊心というか意固地なプライドが、いつもどこかにあるのだ。それが好んで「境界」を作りたがっている気がする。
やつらとは違うのだから、一緒にはいれない。同じように思われなくないと。
たしかに原因は自分にあるのかもしれない。
けれども、それは認められないのだ。
わかっている。
集団とは自分たちと同じものだけを認め、それ以外を排除したがる性質をもっている。
いじめられる側はいじめられる原因をなくせばいじめられなくなるという。詭弁どころか死刑の宣告みたいだ。
容姿や性格、意志などそれぞれが重なって個人が形成されている。それらをなくしたら自分はなんだろう。存在を否定されて、なんになれるだろう。
少なくともそれは佐山晶人ではない。
だからそれに適応するため、こっちも身の振り方を考えた。難しいことではない。自分の領分を維持させるだけでいい。自分という個性を一定値以上ださなければいいのだ。
すべてのひとから同じ評価をもらえれば、誰に対しても特別な感情をいだかなくなる。好きでも嫌いでもなく、みんなそれぞれ顔が違うだけ。
とても楽だ。
とはいえ、机というのは学校でのその人の居場所みたいなもので、それを痛めつけられるのはやはり精神的につらかった。
胸がつまりそうになるのを気取られないように、深く息を吐いた。
こんなの、どこにでもあることだ。D組のやつは、机そのものを隠されたりすると聞く。それに比べたらマシだろう。
「おはよう」
嫌味なほどさわやかな声がした。
声同様にすがすがしい笑顔で、関口一也がまっすぐやってきた。
「ちょっと雑巾とってくれるか」
ためらいなく関口はクラスメイトに言った。にやにや笑ったまま、鮮やかな髪色のひとりが雑巾を放る。
無言でそれを受け取ると、関口は落書きされた机を拭きだした。
関口は学級委員で、模範的な優等生というレッテルが貼られている。入学早々、自己紹介の場で生徒会長になるのが目標だと公言していた。中学から一緒だったが、何事もそつなくこなせ、いたる場面でリーダーシップを発揮してくれる。
こういう手合いは好き嫌いがはっきりわかれる。統計的に女と教師に好かれ、同僚に嫌われるタイプ。口がうまく、ずる賢く腹黒いのも特徴だ。
実際、こうして隣で落書きを消している姿を見ても、ポイント稼ぎだろうと疑わずにはいられない。
なにしろ、不良グループと裏でつながっていて、いやがらせを影で先導しているというのは、わりと有名な話なんだそうだ。
それを教えてくれたのは、保育園から一緒の小林だった。小林は隣のクラスだったが、そこまで広まってるということだろうか。
関口の知り合いの先輩だかが大層な不良だったらしく、不良グループは関口ではなく、その先輩からヨロシク言われているらしい。
死んだ母親と小林の母親は、学生時代からの友人だったそうで、それが関係あるのか知らないが、昔からやたらとありがた迷惑なお節介をやいてくる。
特に問題なのが、高校に入ってからは毎日のように弁当を作ってきてくれることだろう。
クラスのやつらに知れたら、間違いなく中傷の的になる。毎朝わざわざ自宅まで届けてくれるのは、彼女なりの気遣いだろう。父親からは昼食代を含めた小遣いをもらっているので、それを理由に二度三度断ったのだが効果はなかった。
昼はその弁当を持って、実験棟の屋上で食べる。
屋上へ出る扉は固く閉ざされている。何年か前、ここから飛び降りた生徒がいたらしい。なぜか教室棟の屋上の方は開放されており、昼休みや放課後には人気が集中した。おかげでこちらに寄りつかないでありがたい。
火災報知器のランプが毒々しく光っている。その下が定位置だ。
ピンクの花柄の弁当箱だということも、ひとりになりたくなる理由のひとつだった。
しかし中身には結構気をつかってくれているようで、ちょっと手の込んだものが入ってたりすると、軽い感動をおぼえてしまう。味とか見ためとかじゃなくて、なんというか努力を感じるのだ。
ごちそうさま、と空の弁当箱を返すとき、小林はとてもうれしそうな顔をする。わりと偏食なのだが、うかつにもその表情が思い出されて、どうしても午後の授業は睡魔と戦わなければならなくなる。
自慢じゃないが、食べるのは早いほうだと思う。いつもヨネにはよく噛んで食べろと注意される。
まだブレザーがにおった。昨日の雨のせいだ。品質表示を見ると、どうもこの「毛」というのが怪しい。濡れるとなかなか乾かないうえに、水を吸って重くなる。なんですえたようなにおいがするのかわからないが、クリーニングに出したほうがいいだろう。教室では着ないでおこう。
あとご飯がひと口というところで、誰かがやって来る足音がした。あわてて弁当箱をしまう。
階段特有の反響音が近づいてくる。三階で消えてくれることを願ったが、どうやらかなわない。確実にこちらに向かってきていた。
こんなところに用のあるやつなんて、誰だろう。生徒か教師か。どっちにしてもなにか言われる。面倒だ。
観念して手すりからこっそりうかがうと、そいつと目があってしまった。
奇妙な男だった。
がりがりの身体に、不衛生そうな天然パーマの逆三角形の頭が、危ういバランスを保つように乗っている。ぶ厚いメガネのせいなのか、離れぎみの目がぎょろりと大きかった。
おびえたようにそいつは、「ひィ」と声をあげた。その反動で一段足をすべらせた。転げ落ちそうになるのを、必死に手すりにしがみついている。
それから急に顔色を変えると、ガラスを引っかくような音で、「し、知ってるぞ」と指をさしながらどんどんのぼってくる。動きがどこか昆虫を思わせた。
「え、A組の佐山だな」
面識はないはずだった。なにしろ一度見たら忘れそうにない。けれど答える気もなかった。
カバンを持って階段をおりる。
「ちょちょ、ちょっと待てよ」
錆びた金属音のような声がしたが、無視。
「オマエ、いつもこんなとこでメシ食ってんのかよ」
嫌気のするやつだ。関係ないだろう。
「D組の津野ってんだ。おれも……ここで食っていいか」
ゆっくり顧みる。
ひきつった笑みを浮かべていた。メガネのレンズがやたらと汚い。脂っぽい指紋で汚れている。コンビニの弁当をぶらさげていることに、ようやく気づいた。
そのとき、タイミング悪く小林がやってきた。同じ緑色のブレザーに赤いチェックのスカート。弁当を取りに来てくれたのだ。これも彼女の昼休みの日課だった。軽やかに階段を駆けのぼってくると、まっさきに津野を見つけてこう言った。
「びっくりした」
ストレートだ。
「ひとりで食べてんじゃないんだね」
勘違いされているが、説明する気も起きなかった。いつものようにごちそうさまと言って弁当箱を返す。すると小林は軽く振って、残ってるじゃないと眉をしかめる。ご飯ひと口分だぞ。なんでわかるんだ。
「お腹いっぱいなんだ」
「……明日からは、ちょっと減らしたらいいかな」
不満そうに口許をとがらせながら、ちらりと視線を泳がせた。
呆然とした顔で津野が立ちつくしていた。誤解されることを察したのか、「あ、あとでね」と早口に告げた。
小林の足音が聞こえなくなってから、ずっと突っ立ったままの津野が暗い声でつぶやいた。
「……彼女か」
「違う」
こっちも勘違いしているようだった。
「弁当作ってもらってるんだろう」
「ああ」
「毎日か」
「……ああ」
「彼女じゃないか」
「違う」
突然うずくまる津野。
「ちくしょう。なんだよ、てっきりおれと一緒だと思ってたのに。オマエもいじめられてんだろう。ちくしょう、前から話してみたいと思ってたんだ。なんで彼女いんだよ」
言ってる意味がわからない。だからいじめられるんだろう。
そういや、見るからにいじめられっ子という印象を受ける。うじうじしていて、いらいらする。このときばかりは加害者の気持ちもわからないではなかった。
こういうタイプはやはり、どこか変わらないといけないのだろう。いじめられる原因をなくせば、というのもやはり必要なのかとさえ思えてくる。
本来、他人に合わせて自分を変える必要なんてないだろうに、周囲は理不尽にも変わることを要求してくる。朱に交われと言う。自分の色を周囲に溶け込ませろと言うのだ。するともう自分なんて見えなくなる。偽善者は優しい顔で、それが本当の自分なんだと洗脳してくるのだ。
たしかにそれもひとつの方法だろう。けれど、そうやって変わることのできる環境を、周囲はあたえてくれるだろうか。
結局、ひとはひとりなのだ。
図書室に行くことにした。
六
途中、関口に会った。
「よぅ佐山。どこ行くんだ」
生徒会室か職員室へ営業に行く途中らしい。そつがないとはいえ、立派とは思わない。
「たまには一緒にバスケでもしようぜ」
一見あたりさわりのない言葉をかわして、関口は職員室に入っていった。笑顔をつくってたが、目は笑っていなかった。
中学のときは特に気にならなかったが、高校に入ってからどうもあからさまに嫌われている節がある。心あたりはないが、別にこちらも好きなわけではないので願ったりだった。
図書室は教室棟四階のどん詰まりにある。授業教室ふたつほどの広さで、蔵書もそう多くない。学校の近くに市営図書館があって、そちらの方が勝手は良い。
利用者は六人ほどだった。だいたいいつもこのくらいだ。
読みたい本や調べたいことがあって来たわけじゃない。ここではおとなしくしてさえいれば、誰も干渉してこないという暗黙の盟約がある。すごしやすかった。
窓際の席は特等席だ。昼時にはちょうどいいぐらいに日向ができて、うたた寝にはもってこいである。いまだこの席に座っている人間を見たことがないのは、きっと直射日光と真っ白なページが織りなす絶妙なバランスのせいだろう。
窓の外には第一体育館が見える。入学式の翌日に塗りかえていたので、かまぼこは鮮やかなスカイブルーをしていた。それが南中高度の太陽のせいで、痛いばかりの輝きを放っていた。
しばらくそうしていると、待ち構えていたかのように睡魔がやってきた。
あらがわずに身をゆだねると、腕が誰かに触れた。びっくりして跳ね起きると、いつのまにか隣に小林が座っていた。
「どうだった」
「……なにが」
「藤堂さんの結婚式、行ってきたんでしょう。雨降ったんじゃない、大丈夫だった?」
小林も藤堂さんの世話になったことがある。彼女にとってもあこがれの先輩だということは知っている。
「どうだった、藤堂さん」
「黒い服着てた」
あくびを噛み殺して、父親に使ったのと同じジョークを言う。さすがに小林は慣れたものらしく、すぐにきり返してきた。
「そっかあ、白じゃなくて黒を着てたんだ。あのひと、黒似合うもんねえ。カッコよかったでしょ。それで、花嫁さんは?」
「うん、白いドレス――」
言いかけたところでこづかれた。
「わざと言ってるでしょう」
「わりと」
「きれいだった、って聞いてんの」
「わりと」
「わりとなによ」
「白かった」
また叩かれた。
「おこるわよ」
正直なことを言えば、初対面の花嫁の顔はあまりおぼえていない。だいいち、きれいというのがどういうものかわからなかった。
きれいなのはドレスなのか化粧をした花嫁なのか。あんなおおげさな格好してたら、素顔なんてわからない。それでもきれいと言いきれるとしたら、ドレスを着て化粧をすれば誰でもきれいということになるのではないか。
「私だって女の子だよ。もうちょっと夢のあること言ってくれてもいいじゃん」
小林は得意げな顔をしている。
「女の子ってのはね、小さいときから花嫁さんにあこがれるものなの。保育園のときとかさ、大きくなったらなになりたいですかって質問。だいたいみんながお嫁さーんて」
「そう答えたの。おぼえてないけど」
「うるさいなあ。とにかく、そういうものなの。わかった?」
「わかった」
本当はあまりわかってなかったが、どうでもいい。
「それより、ウェディングドレスが白い理由って知ってる? 純白っていうぐらいだからさ、もう最上級よね。ほら、白ってどんな色にもなるでしょう。だからね、アナタ色に染まりますって意味なんだって。ロマンティックよねえ」
ひとり真っ赤になってのたまってる。
場違いな騒々しさに、何人かがいらだたしげに顔をあげてにらんでいた。居心地が悪くなってきた。
「あれ。どこ行くの」
女の白が染まるためにある色なら、男は染めるためにあるのだろうか。だとしたら男は染まってはいけないのだろう。変わってはいけないのだろう。
それならば自分は、藤堂さんと同じ黒が似合うのだと思った。
午後の授業は出る気にならなかった。
七
家に帰るとヨネがいた。
「あれ。なんだか早いですねェ」
小さなまるい頭に赤いバンダナをかぶって、ハタキを持っている。
数ヵ月前から家に通っているお手伝いさんだ。リビングの掃除中だったらしい。
本業は大学生なのだが、自分の好きな時間に来て働けるフレックスタイム制度というやつで、とてもありがたがっている。
彼女の仕事は、男ふたり暮しでおろそかになる家事全般である。この家の男ときたら、着る物食べる物さして頓着しない。管理できる人間がいないと、あっというまにすさんでいくだろうことは本人たちにもわかっているようだった。
少しまえまでは近所のおばさんに来てもらっていたのだが、体をこわしてしまったそうで彼女が紹介された。
丸顔におしゃれな赤い縁のメガネをかけていて、笑うと口の端がにゅうっと左右に伸びる。小柄でちょこちょこ動きまわるせいか、愛嬌のある子犬を思わせる。変わったしゃべり方をするけれど、気は利くし根はしっかりしたひとだ。
「運動部の大会があるらしくてさ、その激励会みたいなのやるんだって。つまらなそうだったから、さぼってきちゃった」
さぼったことは否定しないで、数日前に終わった行事でとりつくろう。上手な嘘つきは、肝心なところだけを隠すものらしい。
涙袋がぷっくりふくれた目をちょっとだけ細め、ヨネはあきれたように笑っていた。
「だめですよォ、一年生のうちからそんな堂々としてちゃ。でもまァ、それも大物の器ってことですかねェ」
ヨネは父の心酔者だ。ちょっと名の知れた建築デザイナー佐山貴史にあこがれて、飛びつくようにこのバイトをはじめたんだという。
「こんなんでお金をいただけるなんて、本当は悪いような気がするんですけどねェ」
などと、わけのわからないことをたまに言う。
「ヨネ、今日は何時?」
「五時前にはあがらせていただこうかと思ってたところです」
ということは、ついさっき来たばかりということらしい。
ヨネ、というのは本名ではない。本名も聞いたのだが忘れてしまった。こう呼んでくれ、と言われたのでずっとヨネだ。でもたしか、本名にはヨネなんて呼べる字はなかったような気がする。
「お風呂は洗っておきましたから、入っても結構ですよ。洗濯物はもぅありませんか」
「うん、ありがとう。夕飯は?」
「まだ二時ですよ。お腹すいたんですか。あらま、お昼食べなかったんですかねェ」
「ううん。ひまだからなにか手伝おうかなって」
ヨネは口を真一文字にして笑った。彼女の笑顔はとても独特だ。
「いいですよォ。アキちゃんにそんなことさせられません。いつものように温めるだけ、冷蔵庫からだすだけのにしときますから、心配しないでくださいな」
「ありがとう」
ヨネはまだ笑っている。
「もぅびっくりしましたよ。お腹すいてるなら、すぐになにか作りますからね。アキちゃん、いっぱい食べれるようになったんだなァって、ちょっとうれしいんですけど」
つられて微笑みかえす。
「あたしなんかアキちゃんぐらいのときには、もぅそれこそなんでも、いつでも食べてたような気がしますねぇ。そのわりにちっとも大きくなりませんでしたけど」
学校じゃ一番のチビなのに、並ぶとヨネのほうがちょっとだけ小さい。だから余計、ヨネはかわいいと思う。ときどき彼女が年上だなんて思えなくなる。
ころころと、彼女はずっと笑ったままだった。
「今日は用事があってあれですけど、明日はちゃんとアキちゃんとお夕飯食べれるようにしますからねェ」
「い、いいよ。べつにそんな意味で言ったんじゃないからさ」
「でもご飯は、やっぱり誰かと食べるのが一番おいしいものです」
一瞬だけ、数時間前の津野の顔が思い出された。とっさに話題を変える。
「ねぇ、アムステルダムってどんなとこ?」
まんまるな目をさらに丸くしてから、ヨネはメガネを軽く指で押しあげた。
「なんですか、いきなり。オランダの首都ですよ、たしか。それ以上のことは知りませんヨ。外国のことは興味ないです」
「藤堂さん、新婚旅行がアムスなんだって」
「はァ。あのお医者さんとこの。それなら大層なところなんでしょうねェ」
「ヨネも行ってみたい?」
からかうように言うと、すぐにめっそうもないと激しく首を振られた。
「だって外国ですよ。歩いたり自転車に乗ったりするのとはわけが違うんですよ。生まれてこのかた外国なんて……。恐ろしいじゃないですか」
本当に怖いのだろう。乗り物恐怖症の彼女は笑わなくなった。自動車免許もとらないと決めたんだそうだ。
「新婚旅行でも?」
「もちろんですよ。だいたいなんです、あの飛行機! あんな鉄のかたまりが空を飛ぶんですよ? 鉄ですよ? 船だって。なんで浮かぶんです。沈んだらどうするんです。あたしァ泳げないんですよ。溺れたら死んでしまいます。あァ恐ろしい。飛行機も船も車も電車も――あんな狭いとこに何時間もじっとしてたら気が変になってしまいますヨ」
そんなヨネは本当にかわいらしい。
「ヨネは怖がりだよね」
「……それって、シャレですか」
八
翌朝、いつものように小林が弁当を届けに来た。残さないでよ、としっかり忠告されてしまった。
走り去った彼女が見えなくなってから外に出る。
朝は憂鬱だ。たまには不良ぶってみたいのだが、あいにく簡単にスイッチを切り替えれるほど大きな気持ちは持ち合わせていない。
油を注せという見えざる意志か、知らないところで痛められているからなのか、自転車はこぐたびに不自然な音がする。
学校までは十数分で着く。クラスメイトと一緒に歩いている小林を、無言で追い抜いた。女子の自転車通学は認められていなかった。ただし、ジャージ着用なら可とある。なにかの拍子に下着が見えたら体裁が悪いから、とはっきりと書かないところが伝統ある校風といったところだろう。
今日の机は黒板消しで拭かれているようだった。見ると椅子もうっすらと白くなっている。よくもまあこうも毎日くだらないことを思いつくものだと、最近では感心さえできる。
掃除用具の入ったロッカーを開ける。いつもはあるはずの雑巾が見あたらない。不良グループが三人ほどかたまって、にやにやしていた。仕方ないのでハンカチを濡らしてくる。
いつもとなんら変わらない日常だった。
クラスメイトは蚊帳の外。またか、というような、あきれともあわれみともとれる目を向けている。
行動のない関心は、憐憫と嘲笑の視線と相まって、とても痛かった。
あわれみを受けるのはとてもみじめだ。心臓がきりきりと音をたてている。背景と同化してしまいたかった。無視してくれたほうがどれだけ気が楽だろうか。
関口一也がやってきた。いつものように優等生のスマイルで。
「どうした、佐山。また誰かにいたずらされたのか。おい、誰だこんなことするのは」
関口が黒幕だとかいうのも、あながち根も葉もない噂という気はしない。台詞も動作も、なんだか芝居がかって見えて、なんだか無性に腹がたった。
だからといって、ここで怒ってどうなるわけでもない。
無駄なのだ。
怒る行為が、ではない。怒る存在が。佐山晶人が無駄なのである。
ここでは、その存在はないに等しい。
たとえ被害を主張したところで、加害者側が違うと言い張ればそれまでだ。
集団は恐ろしい。口をそろえて隠蔽されたら、ちっぽけな正義や犠牲など、はじめからなかったことにしてしまえる。
それは同時に彼らにとって、都合の良い正義を構築できることにつながる。集団という名の密室だ。
だから向こうがそう思わないかぎり、こちらもこれがいじめだなんて思わないようにしている。無駄だからだ。
結局――、考え方ひとつなのだ。
けれど、本当はやっぱり怖いのかもしれない。いじめられていると思いたくないのだろう。弱いことを認めることになるから。
誰かが笑っている。低い声で。
誰だろう。
誰かが低く笑っている。関口かもしれない。低く。低く。誰かも笑っている。あざけるように。誰もが笑っている。取り囲んで笑っている。取り囲まれて笑われている。
ここではひとりだ。
わかっていた。
わかっていた。
誰も信じてはいけない。誰にも頼ることができない。まわりが白でも自分は黒だから、ここでは唯一の異端。
これが日常――
(私もさ、いじめられてたんだよね)
どうしてだろう。
(逃げちゃったけど)
少しだけわかる気がした。