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小さなカフェで

作者: issei

いつの間にか羽織るようになっていた薄手のジャケットを木製の椅子に掛ける。椅子と同じ木製のテーブルにはこの店のメニューとガラスの器のなかで灯る蝋燭が揺れている。愛想良く笑いかける男性の店員にブレンドコーヒーを注文した志木祐司は窓際のこの席から望むことが出来る海岸線に目を向けた。テーブルの上で踊る蝋燭の炎と同じ色をした大輪の夕陽が徐々にその姿を地平線の彼方に沈めていく。水面に反射する光の帯はオレンジの皮を敷き詰めた様に眩い。海岸線を走りぬける車の駆動音すらこの風景に溶け込んで見える。この店を選んで良かった、運ばれてきたアイスコーヒーを一口啜った志木は体を椅子に預ける。

国道134号線の外れに位置するこの店を見つけたのは一週間前だった。雨のツーリングから逃げ込むように訪れたその日に志木は、景色を眺める余裕さえなくただひたすらに降りしきる雨粒の音を聞いていた。だからだろう、翌週の週末に…今日の夕方、この景色を眺めるためだけにバイクを走らせたのは。

「今日は晴れて良かったですね」

窓辺から声のするほうに視線を移すと、この店のコンセプトであるアロハを着こんだ男性が目を細めていた。薄らと目尻に浮かぶ皺には、志木よりも長い人生を歩んできた生き様が印されているようで。

「突然にすみません、お客様が先週来店された時、外は雨だったので」

朗らかに笑いかける男性に、志木は背筋を僅かに正した。飲食業の鉄則は来店したお客を逐一記憶しておくこと…だったか。それは都内の一企業で総務を務める志木には持ちえない記憶力だった。例え来社した人間と名刺を交換したとしても、昨晩の夕飯の献立よりも早く忘れてしまう。

「そうですね、この窓際の席が今日だけで好きになりそうです」

志木の返答に頬笑みを浮かべた男性はアロハの胸元から名刺に似た紙切れを取りだすとテーブルに滑らせる。

「ありがとうございます、そう言って頂けるだけで今日この店を開いていて良かったと思えます」

紙切れに視線を落とすと、そこにはこの男性の直筆だろうか≪渚Cafe Close 01/10/11≫と達筆な文字が書かれている。紙切れに掻かれた日付は昨日のものだ。読み終えた志木があたりを見回すと昨日の名残だろうか、店内を装飾していた飾りのようなものが終われた小さな段ボールが目に入る。そして、客の姿は、志木を残してほかにない。

「何となく、です」

止まりかけた時間を動かした男性は、窓辺に視線を留めたままで口を動かす。

「昨日は一日中この店を好んでくれていたお客様や従業員、さまざまな方が盛大にこの店を訪れてくださり、一杯のコーヒーを飲んでは昔話に花を咲かせて下さりました」

そこで店内の記憶を探る様に視線を動かした男性は、次に志木を見つめた。その瞳に映っているのはいまの景観ではなく、幾日もこの店とともに育んできた≪消えない記憶≫なのだと志木は悟った。

「今日はこの店と私がお別れする最後の日だったんです」


時刻は夕方というには遅すぎる18:30、夏のそれとは違いその時間になればあたりは相応に暗くなり始めている。大切な日にすみません、そう言葉を濁した志木に男性は柔和な笑顔を浮かべた。

「そんなつもりでお話をしたわけではありません、それに今日はお客様が来店してくださるような、そんな気がしていたんです」

それはどうして、と問い掛けた志木に男性は窓辺の席から外れたカウンターの上の写真に目を向けた。そこにはハワイのオアフ島で作られたような木彫りの人形に囲まれた写真立てと、そこに収まる一枚の写真。夕陽が霞むような、あどけない笑顔の青年の姿が映しこまれている。

「失礼にあたるかもしれませんが、息子に、渚にお客様が瓜二つだったもので」

一層深く刻まれた目尻の皺に、志木はつい話しかけていた。

「このお店の名前は息子さんの?」

その皺に流れゆく涙に気が付いた時、この店を包み込んでいる暖かさが、それは雨の日に飲んだブレンドコーヒーのそれとは違う、昔志木も父親からもらっていた≪愛情≫なのだと、気が付いた。そして、その≪彼≫がもうこの世にいない、ということも。

「あなたのバイク、あれはバルカンですね」

店先に止められた志木の愛車を見つめながら、男性は呟く。

「私も昔はバイク乗りだったんですよ、正直に言いますとあなたが息子の面影を持っていたことと、あの懐かしい排気音に、一度しか来店されていないはずのあなたの記憶が残っていた、という事です」

失恋後の雨を見上げているような、物悲しさをわざとはぐらかすように男性は肩を竦めた。

それが無理をしているように見えなかったのは、それこそ飲食業で勤め上げた人間のなせる業なのだろうか。志木の思案を止めるように、男性は言葉をつづけた。

「せっかくのお時間を私の話で曇らせてしまいまして…」

僅かに頭を垂れた男性にそんな事は無い、そう言いたかった志木だったがなぜか言葉が出なかった。どんな言葉も、この場には似つかわしくない、そう感じていた。海岸線を流れるテールランプの群れは季節外れの蛍の大群。長い余韻の光を路面に残しては消えていく。

だから志木は財布のなかから、一枚の名刺を取り出していた。それを紙切れの横に滑らせる。

「よろしければ今度はツーリングに行きませんか」

先ほどの男性の言葉からいまはもうバイクに乗っていないことは分かっている。それでも今日という日に、この店で、この窓際の席に座り、一杯のコーヒーを飲んだ事実は、一期一会という古語に准えなくとも、一種の、それは陳腐な言い回しに違いないが、運命なのだろう。テーブルに置かれた名刺を手に取った男性は、今日初めての営業用に拵えた笑顔ではない表情で、「ぜひ、ご一緒に」と一言だけ呟いた。


スロットルに手を掛ける。

一時間の休憩を終えたバイクは大あくびでもするかのように、エンジンを唸らせる。財布にしまわれた男性の名刺には、達筆な文字で名前が書かれていた。これから走る134号線の景色は夕陽には染まっていないだろう。男性が志木に連絡をしてくるのかは分からない。

それでも、と志木は思った。あの男性の名前、そして今日見たあの夕陽の眩さだけは、一生忘れることはないだろう、と。

右ウィンカーを出し、蛍の大群に走り込む。

徐々に遠くなっていくあの店の看板をバックミラーで見つめていた志木は、遠い昔、いつも隣で笑ってくれていた父の面影を思い出していた。

この道はどこまでも続いて行くのだろう。


お読みいただきありがとうございます。

なにかお思いになることがあれば書き残してくださると幸いです。


これは私の経験したことに多少の脚色を加えた物語ですが、誰もしも一瞬の忘れられない記憶はあると思います。

そんな日常に思うのは、なんでしょうか。

また、どこかでそんな記憶と出会えたなら、それはきっと幸せなことなのでしょう。

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