3つの選択肢
目を開くと、30cm角の自発光パネルと白いセラミックパネルの一松模様が視界に広がっていた。
あぁ、この光景には見覚えがある。
タチバナ波動物理研究所厚生棟2Fにある診療室だ。
「気が付いたようね。ひと晩で戻って来るなんて思わなかったわ」
メゾソプラノ。聞き覚えのある声だった。
「あぁ、吉川先生。俺は……、どうしてここに?」
「食堂で倒れて運び込まれたのよ。調子はどう?」
そうだ。食堂で倒れたんだ。
頭痛も不快感も残ってはいない。
どちらかといえば、すっきりした感覚だ。
そうか。これは、例のリセットってヤツだよな。
「かえってスッキリしてる気がします」
「それは良かったわ。それじゃ、どこまで覚えてる?」
どこまで?
「食事しながら話をしていて……。ここにいる」
「もう。ざっくりし過ぎ。誰と何の話をしてたのか覚えてる?」
「中西さんと……、あれ? 中西さんは?」
「売店に行ってるわよ。もうすぐ帰ってくるから、続けて」
「朝からずっと俺がボーッとしてたもんで、中西さんが心配して昼食に誘ってくれたんです。昨夜見た夢の話をしていたら、強制リセットされたらしい」
「どんな夢の話をしたの?」
「ちょっとややこしいので、最初っから話ますね」
裏路地での銃撃、倒れていた俺、そして、その夢の元凶になったであろうオールドネットの記事、写真のことを順を追って説明する間、吉川先生は、頷きながら何も言わずに聞いてくれている。
俺の話が始まって少ししてから誰かが部屋に入ってきたが、中西さんだろうと、そのまま続けた。
「どう? 中西さん、合ってる?」
「あ、はい。聞いてた範囲では。でも、倒れる直前にしていた話は……」
「他にも、まだ何か言ってたっけ? 記憶があやふやでさ。あ、クラファン探偵がどうのとか」
「えっと……。それもあるけど、本名が……」
「ストップ、ストップ。いったんここで終了。だいたい状況は把握出来たわ。坂崎君、中西さんを借りるわね。ちょっと待ってて」
吉川は椅子を立ち、中西を手招きしている。
「はい? あ、ちょっと行ってくるね」
「あぁ、了解」
「さ、中西さん、手伝って。それから坂崎くん、ちょっとベッドで待っててね。その後はお姉さんと……ね」
「よ、吉川さん! 何言ってるんですか!」
「あら、中西さん。大人の関係が気になっちゃったのかな?」
「違いますよーっ!」
ダメだ。
このペース、ついていけない……。
「お待たせ」
10分ほど経っただろうか。
2人が戻って来た。
吉川の後ろからついてくる中西は、少しうな垂れているように見える。
「いい機会だから、2人に状況説明しておくわね」
中西さんは、まだ目を伏せたままだが、いったい何を吹き込まれたんだ?
「坂崎んくんは、強度の記憶障害を患っています。中西さんは、元カウンセラーだけど、私の患者である坂崎くんの個人情報を無闇に伝えることは出来ません。ですので、この研究所内での仕事、生活、その他に問題が無い範囲でのみ伝えました。チームメンバーとしてお付き合いする上での注意点とかね」
吉川がチラッと中西を見る。
「注意点?」
「私としては、記憶を掘り起こして欲しいんだけど、一気に掘り起こすと、さっきみたいに倒れちゃうでしょ。安全上の注意ってことよ。研究所内なら診療室まで搬送してもらえばいいんだけど、プライベートで街の中だとそうもいかないでしょ」
「たしかに。気絶するほどのショックってことは命に危険が及ぶってことなんですよね?」
「そうよ。入浴中だとか、階段を降りてる時、運転中、食事中なんてのも思った以上に危険ね。でもね、これからする注意は、方向性がちょっと違うの。肉体ではなく、心。精神の安全に……」
「吉川先生!」
ピンと張り詰めた声で中西が話を遮った。
「わたし、やります。さっきのお話、引き受けさせて下さい!」
真っ直ぐに吉川を見つめ、口を引き結んだ。
さっきのお話だって?
「中西さん、とても大変なことよ。場合によっては危険だってあるかもしれない。そして、途中でやめられないし引き返せない。相当な覚悟が必要よ」
中西は視線を逸らさない。
吉川は数秒のにらみ合いで理解したようで、優しく微笑みながら肩の力を抜いた。
「そう。分かったわ。では、最初からやり直しね」
人差し指を立てた。
「坂崎くんには3つの選択肢があるの。1つ目は、何も考えず、今を受け入れること。過去の探求や記憶を取り戻そうとしなければ、リセットは発生しないし、今の生活をそのまま続けられる。真実に近付きそうになったら、何も見なかったことにして回避するだけ。最も優しく、そして残酷な選択」
真実?
次いで中指。
「2つ目は、今の生活を続けながら、自力で真実を見つけていくこと。しばらくは今の生活も続けられるけど、その先は本人次第。私たちが導いていこうと考えていたのは、この案。介入を最小限にして、治療も最小限。安定状態になったら過去の記憶を強制的に定着させる処置を進めて、過去の坂崎くんへとソフトランディングさせる。時間はかかるけど最も危険が少ない選択」
過去の俺?
危険?
次は、指を立てること無く、顔を軽く左右に振りながら手を下ろした。
「3つ目は、全てを知らせること。過去の坂崎くんにハードランディングさせるから、たぶん、今の生活は続けられなくなるし、結果的に命の危険だってあるかもしれない。そして最も恐ろしいのは、精神が耐えられなくなること。どんなに意思が強い人間でも己のアイデンティティを疑い始めたらどうなるか分からない。最もオススメしない選択」
何を言ってるんだ?
吉川先生は、俺と中西さんを交互に眺めながら続ける。
「この場で方針を決める必要は無いから、ゆっくり考えてね。決まるまでは現状維持よ」
中西の肩に手を置きながら、さらに声をかける。
「中西さんは、どう考えてる? 意識合わせが出来ていないと先々後悔することになるわ。坂崎くんとじっくり話し合って決めてちょうだい。ここから先の話は、その後で」
過去の俺?
俺のことなのに、皆が知っていて俺だけが知らないなんて。
これで何度目だろう。
「吉川先生。先生は、何を知ってるんですか?」
声が少し《《しゃがれて》》いた。
「まだ話せないわ。でも、1つだけ言えるのは、私も全てを知っているわけじゃないってこと」
一部は知ってる?
胃が少しムカムカする。
「では、誰が全てを?」
「気付いてるでしょ? そして、言えなかった理由も分かってるんでしょ?」
皆が黙っていた。
皆で隠していた。
過去の俺……。
「所長ですね」
吉川は意味ありげに微笑んで応えた。
「方針が決まったら、所長を含めた皆でお話しましょ」
ずっと不思議だったんだ。
ただの絵描きに巨大企業のトップが、こんなにもフレンドリーに接してくることに。
仕事を与え、治療にも協力するのは、どういう理由だろうか。
俺は、いったい何だというんだ?




