所長の想い
いつものように子供部屋に入ると、橘所長がベビーベッドに屈み込んでミューキーを撫でていた。
ここで会うかもしれないとは思ってはいたが、実際に会ったのは初めてだ。
「こんにちは。ミューキーちゃん、所長に撫でられてうれしそうですね。それでは、また出直して来ます」
「ちょ、ちょっと待ちたまえ。まったく。せっかちだな、君は」
俺だって親子水入らずの時間を邪魔したくないという人並みの神経はあるつもりだから、踵を返して廊下に出ようとしたところを呼び止められたのは、少し意外だった。
所長はベビーベッドの向こう側から手招きしながら続けた。
「いつもミューキーと遊んでくれてありがとう。想定以上の成果を上げているとチームから報告を受けたぞ」
「成果といいますと? 子猫と遊んでることも実験の一環なんですか? それとも白痴化治療が上手く進んでるっていう?」
「利根川から聞いてなかったかな。美雪とミューキーには深い絆があることを。君がミューキーと遊んでくれているおかげで、美雪の治療に想定以上の成果が出ているんだよ。この調子なら君にボーナスを出せるかもな」
意味ありげにニヤリとした口角が目に入ったが、この話は本気なんだろうか?
「子猫と毎日遊べるだけでボーナスをもらってるみたいなもんですが、頂けるのでしたら遠慮無く」
「もちろんRinの成果も聞いている。十分に活躍出来ているようで何よりだ」
「所長は最初っから俺をRinにアサインしたくてGATE技術の説明をしてくださったんですよね?」
「まぁ、そういうことだ。君の絵は心象風景だと聞いていたし、その他の事情も加味して、この上ない人材だと判断したまでだ。これからも期待してるぞ」
ずっと撫でられていたミューキーが気持ちよさそうにあくびをしている。
「まったく強引ですね。ところで、もう1つだけ聞いてもよろしいですか?」
「まぁ、察しはつく。美雪のことか」
ベビーベッドに向けられた俺の視線から汲み取ってくれたようだ。
「はい」
「グリーンフリーダムを知ってるか? 環境保護団体を隠れ蓑にしたテロリスト集団でGATE技術を目の敵にしている。新たな病気が発見されるのも、富裕層と貧困層の格差が拡大したのも、少子化傾向も全て、異次元の研究を行っている当研究所のせいだと考える連中だ。やつらも最初は研究所を取り囲みデモ行進を繰り返すだけだったのだが、いつの頃からかデータベースに侵入を試みるようになり、通用門に手製ロケット弾を打ち込むようになり、研究員宅に送りつけるモノが手紙から爆弾になったのだ」
ふぅと息を吐いて、壁に掛けた美雪とミューキーがにこやかに頬を寄せ合っている『姉妹』を眺めながら続けた。
「ある日、妻と娘が乗る長コムが事故に巻き込まれた。フェイルセーフをOFFにした大型トラックに側面から衝突されてレーンからはじき出され、オフィスビルの1階に突っ込んだのだ。実行犯は、グリーンフリーダムの中で最も過激な実行部隊『トゥルー』。世界の真実を明らかするために武力闘争もうんたらかんたら。よくある犯罪者の妄言テンプレだよ」
視線の先にあったのは、絵の下に掛けられたシルバーのキャプションだった。
『姉妹 2083 坂崎翔画』と刻印されている。
わずか数秒だが、沈黙が続くと空気がズンと重く感じる。
しかし、グリーンフリーダムとは? 初耳だ。
質問を差し挟もうとしたが、コンマ数秒早く所長が話を続けた。
「卑劣なテロで妻は助からなかった。そして美雪はこんな状態に。突っ込まれたオフィスでも3人が犠牲になり、10名以上の通行人が負傷した」
もう一度、壁に掛けた絵を見つめる目には、寂しさよりも強い意志が湛えられているようだった。
「そして、君に依頼しているのは、最終的に美雪を助けることになる研究だ。今までは超えられない壁があったのだが、"森"での一件が突破口になりつつあるんだ。だから先ほどのボーナスだって冗談で言ってるわけじゃ無いんだ」
「ホームノイドに故人のAPを搭載する研究というのは奥さんを……。あ、すみません。軽々しく言って良いことではありませんでした」
「それはもう過ぎた話だ。気にするな。君も事故で奥さんを無くしてるんだろ。私と一緒だな」
所長は腕時計をチラッと見て立ち上がった。
「さて、今日はここまでだ。実は、もう次の会議が始まって5分過ぎてるんだ。捜索隊長がここに来る前に立ち去らなくてはならん。また、後で昼飯でもどうだ? かわいい彼女が許してくれるならな」
そう言うと足早に部屋を出て行ってしまった。
「そんな、彼女って!」という抗議の言葉を背中に浴びせてはみたが、はたして耳に届いただろうか。
入れ違いに利根川が入って来たが、全く慌てていないように見える。
「あら、坂崎様。所長を見かけませんでした?」
「ちょうど今、戻られましたよ。もしかして捜索隊長ですか?」
「まったく所長ったら、そんなことを坂崎様にまで」
呆れたような表情をしつつも口元がほころんでいるところを見る限り、この追いかけっこはいつものことらしい。
ミューキーは相変わらず鉛筆のような細い尻尾を長々と伸ばし、美雪の隣で寝入っている。
俺もそろそろプロジェクトルームに戻るとしよう。




