研究者生活
仕事に慣れて来ると、やっと日常に目が行くようになるものだ。
最初の数日こそ下手な絵は描けないというプレッシャーはあったものの、特に追い立てられるような忙しさも無く、休憩時間に余裕があり、気を遣うことと言えば人間関係だけだと気付いた今は研究所ライフを満喫出来ている。
朝9:45過ぎ、東門の従業員ゲートをくぐってトンネルに入り、行きと帰り2本のオートウォークに挟まれるように設置された歩道を歩いて出勤している。
オートウォークを使わない理由は、もちろん運動不足解消のためである。
トンネルは幅10m、天井までは3mほどで100mくらいの長さがある。
天井に照明があるのに加え、左右の壁に設置された大型自発光パネルが常に映像を流しており、夜の繁華街に引けを取らない煌びやかさがある。
流れている映像は最新ニュースなのだが、研究者は自分の研究以外に無頓着な人が多いらしく、目を向けているのはごく少数。たぶん俺のような外部委託者だけだろう。
中間付近にあるセンターゲートをくぐると出勤扱いになる。
センターゲートにはスキャナーが組み込まれており、ゲートを通過するだけで顔を認識、認証するため、文字通り顔パスである。
だが、こんなゆるい認証で大丈夫なんだろうかと疑問に思っていたら、眼鏡をしたりマスクをしたり、何なら覆面していても個人判別が可能だという。
いったいどんな仕組みで個人を特定しているんだろうか。
トンネルは管理棟の真下にある円形のホールまで続いている。
ホールは、1から12まで数字が振られた通路に連絡しており、それぞれ目的の棟へと伸びている。
総務のある管理棟は12番、レストランや医務室などがある厚生棟は1番、それ以外は全て研究棟で、俺が向かうのは応用研究棟に続く8番通路だ。
通路の先はエレベーターホールとロッカールーム、シャワー室、地上への階段がある。
俺はロッカーをあてがわれているものの、白衣や作業衣に着替える必要が無いため、そのまま素通りして階段を登っている。
Rinのプロジェクトルームは階段で2階まで登ってすぐ右の扉だ。
今日もいつものように、社員カードをかざしてドアを開けた。
研究室には、大きな机が4つ背中合わせに配置されており、部屋の奥が前島、その左隣が中西、手前のドア寄りが俺の席、隣は空席と言いたいが前島の物置になっている。
中央にある丸いミーティングテーブルは立ったまま使うようになっており、ミーティング時間短縮に一役買っているという。
「おはようございます。前島さん、今日のスケッチは午前中で良いんですよね?」
10時にはチーム全員がすでに出勤していることが多いため、俺は挨拶を交わしながら当日の予定を確認するのが日課になっている。
「はい。予定通り、変わらずでお願いします。午後は14時からミーティングね。でもねぇ。まーた、スケジュール入れてない人がいて突発で何かあるかもしれないから、その時はよろしくね」
世話好きなのは佐藤に対してだけではなく、俺に対しても随所に細やかなフォローを入れてくる。
ここまで来ると上司というより教育担当といった風情だが、それもそのはず小学校の教師経験者だそうだ。
「あぁ、またですか。了解しました。14時までに戻れるよう、午後イチから別件対応で離席しますね」
「分かったわ。ところでね、今朝も定例ミーティングすっぽかされて、問い詰めたら『あぁ、今日が木曜だったのか。まだ先だと思ってたよ』だって。ほんっとにもう、自分の研究テーマ以外全く気にしないなんて、あんなダメ人間になっちゃだめだからね」
ペースに乗せられたらしばらく離れられないため、俺も中西直伝の『愛想笑いで逃げる』を実践している。
しかし、佐藤のようにあちこちにメモ紙をちりばめていたり、スケジューラーを全く見もしないとか、最先端の研究を行っている人間の中にあって本当に異質なんだと実感した。
たいてい10時半からスケッチが始まり、ディスカッション含めて昼で終了する。
その流れで中西と昼食に出るのだが、いつも朗らかで明るいと思っていた中西は、実は闇が深く腹黒でダメ出しも容赦がないことに気付くまで、そう時間はかからなかった。
「リーダーは佐藤主任をかまい過ぎなんだよ。あぁいうの、爺ガキっていうんだけど知ってる?」
ランチのチキンをフォークで刺しながら、まくし立てる佐藤バッシングはこれで2度目だ。
「じーがき? 何だいそれは?」
「そうねぇ。じじいのくせに、他人に面倒見てもらいたがるガキってことになるかな。厄介だし面倒だしカッコ悪い上に気持ち悪い」
言い終わると、付け合わせの人参グラッセをパクッと、ひと口に放り込んだ。
「まぁ、言われてみれば、そう見えなくも無い……かな。でも、遠慮無しにボロクソ言うなぁ」
笑いながら焼き魚をほぐしていたが、チラッと中西を見ると目尻が少し下がっている気がする。
「あの爺ガキはさぁ、坂崎さん来てから悪化してるんだよ。リーダーに放置されそうになって我が儘で目立とうとしてるっつーか、手間掛けさせて視線を集めておきったいっつーか。まさにって感じね」
ここ1週間というもの、前島はデスクでパンをかじって昼食を済ませているらしく、中西は誰かに愚痴りたかったのかもしれない。
人と相対し、細やかに気を遣わなくてはならない仕事だからストレスも多いのだろう。
「手厳しいね。次に佐藤主任の顔を見たら、今までと同じ態度は出来そうも無いよ。それにもし、万が一にも真面目なシーンで吹き出しちゃったら責任取ってもらうからな」
「大丈夫よ。この中西美桜様は、いかなる試練にも堪えてみせるから」
「この裏切り者め」
2人の笑い声が静かなレストランで多少目立つくらいに響いていたが、チラッと見やったのは、ごく一部の外部業者だけだった。
「でも普通の大人は、どんなに忙しくっても、あぁはなんないんだよね」
中西は最後まで弄んでいたチキンの皮とパセリをプレートの片隅にササッと移動させながら、最後は軽いため息で締めくくった。
そして、少し遠い目をしていたのを俺は見逃さなかった。
午後もいつも通りだ。
別件を済ませて研究室に戻ると、夕方までミーティングとAIが作成した画像との比較、スケッチを端末から取り込んで俺の業務は終了だ。
念のため、急ぎの仕事が無いか確認することにしているが、呼び止められたことは1度としてない。
「お先失礼します」と、声だけかけて退室しようとすると、中西がニコッと微笑んで手を振ってくれた。
こういう反応があるとチームに認められた気がして、手を上げて答えつつも思わず頬が緩んでしまう。
帰りは、まっすぐに地下まで降りても良いんだが、遠回りして厚生棟地下の売店に立ち寄るのが日課になりつつある。
広々とした空間でゆったりと買い物が出来、棚に無いものは、絵の具でも何でも取り寄せられるし、研究室まで配送だって受けてくれる。
何なら自宅で受けとることだって出来てしまう。
その上、全商品、市場の2割引というメリットもあって立ち寄らない手は無い。
おかげで、ここ2週間近く近くの複合商業施設 ——バイランドという名前があからさま過ぎて嫌だ—— には行かずに済んでいる。
帰宅してすぐ、下地だけ作ったキャンバスを取り出した。
今なら、止まっていた制作を再スタートするだけのモチベーションがある。
この機を逃してたまるかと、パレットの用意を始めた。
それにしても、この2週間というもの、俺にとってポジティブな出来事ばかりだ。
爺さんの元寝室を整理して梱包箱を片付けたり、発掘したタブレット端末をレストアに出したり、今まで手を出せなかった雑用をかなり片付けることも出来るなんて、少し前の俺には想像も出来なかったろう。
「全て中西さんのおかげかな」
そのまま、あっという間に研究所での1ヶ月が過ぎ去っていった。




