葛藤。そして
真っ直ぐ帰る気分にはならず、研究所近くのコーヒーショップでボーッと過ごしていた。
機密プロジェクトとは何だろうか?
所長自ら、あんなに時間をかけて高度な技術説明をしてくれることなんて、普通は無いんじゃないか?
わざわざ時間を取ってくれたのは、礼が言いたいためではなく、最初から何かやらせたいことがあったということなんだろうか。
コーヒーとスイーツが混ざった甘ったるい香りが充満した空間には、主婦連中のたわいもない雑談、投影形キーボードを打つ疑似打鍵音、打合せの声、微かな電子音、そして、ホームノイドの疑似ボイスが響いている。
コーヒーも合成だし、香ばしい芳香のシナモンも代替品だ。
主婦たちは仮面を被り、ビジネスマンは腹の探り合いを繰り返し、目にする物、耳にする音、世の中にはありとあらゆる"疑似"というノイズに溢れているのだが、このぐるぐると巡り続ける思考に適度な割り込みを挟んでくれるのは、そんなノイズたちでもある。
ウィンドウスクリーン越しに、乗ろうと思っていた循交が走り去って行くのが見える。
150人ほどの人がゆったりと乗れて、進行方向によって淡いグリーンか淡いオレンジの2種類があり、不格好な直方体をした外観を普段はまじまじと眺めることなんて無いのだが、今日は瞼の裏に焼き付くほどに眺め、見送った気がする。
手元のカップをゆっくりと揺らすと、時折、天井のライトを濃厚な液体が反射してキラッと光り、まだ飲み終わってないぞと主張しているように見える。
ノイズまみれの世の中にあって、内容も説明出来ないような研究に素人が参加する意味って何だろうか。
白痴化の治験をしたいから協力者が欲しいという話だとしても、治験を公に出来ない理由なんて非人道的な実験をしたい以外は考えられない。
だけど、それならGATE技術の説明は不要なはずだし、金で釣れば良いだけだろう。
そういえば、人の心を救う研究とか言ってたな。
治験以外の研究とも言っていた。
GATE技術を使って人の心を救えるんだろうか。
俺は何をそんなに悩んでるんだろう?
治療しなければ、早晩、人生は終わる。
命が残ったとしても人生が終わるのが白痴化だ。
世間では、いまだ不治の病と言われていて、原因も不明なら治療法も無い。
セカンドオピニオンなど存在せず、あったとしても貧乏画家には治療費を支払うことも出来ないだろう。
それなのに悩む理由があるんだろうか?
「あぁ、分からん」
ボソッと呟いた声が大きかったつもりはないのだが、雑談に興じていた隣のテーブルの主婦がちらっとこちらを見た視線を感じる。
気付かないふりをして、カップに半分ほど残った冷めたコーヒーをグッとひと息に飲み干すと、無意識のうちに眉間に皺が寄った。
ここのコーヒーは中浅煎りで香りは好きだが、冷めると苦手な酸味が前面に出て来る。
普段は美味しいうちに飲みきって2杯目を楽しんでいるはずなのに、いつの間にこんなに冷めたのだろう。
悩む?
いや、違う。そうじゃない。
最初から全ての外堀を埋められて、討ち死か無条件降伏かの2択を迫られてるから素直に従えないだけだ。
何が『持ち帰って悩むといい』だ。
俺に残されているのは『提案を受け入れて機密プロジェクトに参加する』一択だ。
「帰るか」
考えても分からないものは分からないし、他の選択肢も逃げ道も無いことだけは理解出来た。
今は、それで十分だ。
時計を見ると、もう15時半過ぎか。
席を立つ時に、チラッと横目で隣の席を見たが、主婦たちはすでにいなかった。
またか。
最近は知らない間に時間が過ぎ去ってるように感じる。
周囲が早く動いている感覚はないのだが、気付くと1時間、2時間と過ぎていることもある。
心の病か何かで最初におかしくなるのは時間感覚だと誰かが言っていた。
いや、昔の映画で見たんだったろうか。
あれはアブダクションの話だったか。
そんなことはどうでもいい。
トレイを返却口に突っ込んで、どことなく重い足取りでコーヒーショップを出た。
今夜、承諾の連絡を入れよう。
現時点では、治療するにはそれしかないのだから。
こうして、俺の研究所通いが始まったのだった。




