提案
「予定より少し話込んでしまったが、場所を変えようか」
そう言うと、橘所長はゆっくりと立ち上がり、座り疲れたのか、身体を伸ばすように胸を張った。
応接室に入ってきた時に気付かなかったのが、身長が180cmはあるように見える。
それなのに、今さら気付いたのは、ずっと猫背気味だったかららしい。
「次はどちらへ?」
ドアに向かって歩きながら訪ねた。
「波動物理学、量子力学、宇宙物理学の基礎、時空間連続性の意図的破断と再接続、必要エネルギー量とエネルギーコストの削減法。これらは普通に理解しようとしたら1テーマで何年もかかるような難易度の高い学問なんだよ。だからそんな話をすると脳がカロリーを要求するのさ。今、何時か気付いてるかね?」
時計を見ると、あと数分で12時だった。
「お話が面白くて、全く気付きませんでしたよ」
「では、当研究所自慢の3つ星レストランへ行こうか」
笑いながらの提案だったが、本当に3つ星レストランだったとしても全く驚きはしなかっただろう。
橘所長と並んで廊下を歩いて行くと、すれ違う研究員が皆、会釈でもするかと思っていたが、全くのスルーだとは思わなかった。
見た目もそうだが、全く偉ぶるところが無い橘は所長らしくないから目立たないのかもしれない。
廊下の角をいくつか曲がった先に、中庭に面した明るいテラスと、2階まで吹き抜けになったホールを備えたレストランが見えてきた。
造りは簡素だが、幾何学的な曲線を多用した今風の造りの真っ白なテーブルと椅子を備えた席が50くらいあるだろうか。
まだ12時前ということもあり、空席が目立っている。
ぽつぽつと埋まっている席は、運送業の制服を着ていたり、スーツ姿だったりと、多くが外部の業者のようで、食事をしたり、コーヒーだけで歓談していたりと、平日昼前とは思えない自由さだ。
奥にはカウンターとオープンキッチンが見える。
ガラス張りの厨房に、時折、パッとオレンジ色の炎が上がるのは、ステーキをフランベしているからだろうか。
目の前でシェフが調理する様を見ながら摂る食事は雰囲気も良く、本当に有名な3つ星レストランのようだ。
目を奪われている俺に橘所長は、驚くべき事実をそっと耳打ちした。
「どうだね、自発光ホログラムを見た感想は。あのガラスの後ろはただの壁で、調理はホームノイドが担当してるんだよ。少しだけ高級なレトルトカートリッジを使ってね。皿に盛り付けただけで、皆、喜んでくれるんだから、なかなかお手軽なサービスだろ」
「えっ。それ、食べた後に言って欲しかったですよ」
「ハハハ。 過大な評価を口にしてしまった後に事実を聞かされたら、穴に入りたくなってしまうかもしれないじゃないか」
「全く、所長は人が悪いですね」
「すまんな。で、ランチプレートで良いかな」
「はい、もちろんです」
社員カードをメニューにかざして馴れた手順でピピッと操作し、横目でキッチンを見ながら受け取り口に向かう。
どう見ても本物としか思えない調理人が数人がかりで手際よく調理し、盛り付ける様がガラス越しに見えているのだが、これがホログラムとは。
5分と経たないうちにランチプレートが受け取り口に用意された。
目を皿のようにして調理の様子を最初から画像の切れ目や繰り返し収録部分を探していたのに、かすかな違和感すら見つけることが出来なかった。
本当は本物のシェフが調理したんじゃないか、ホログラムというのが冗談なのではないかと怪しんで口に運んだランチは、たわいも無い雑談をしながら食事をしたのが久しぶりだったからだろうか、見た目も味もワンランク上に感じられた。
「次は中庭に行こうか」
返却口にトレーを戻して中庭に向かうと、襟までパリッと糊の利いた淡いブルーのブラウス、OLのような黒のタイトスカートに黒いパンプスというお馴染みの出で立ちでエリカ利根川がベンチのそばに立ち、我々を待っていた。
そして、俺がベンチに腰掛けるのを待って橘所長は予想外の話を唐突に切り出して来た。
「時に坂崎君。君は白痴化を発症してるね?」
「えっ……。どうしてそれを? まさか神経科医の片山から?」
「片山? いや、そんな違法な手段で個人情報を得たわけじゃないさ。この研究所で使っているセキュリティスキャナーが、訪問者の行動や言語応答の遅れなどを複合的に判断して安全確認をしているんだが、たまに危険度判定不能なタイプが引っかかるようになってね。分析の結果、それが初期の白痴化発症者だと分かったんだよ。そして君も、危険度判定不能だった」
「……。もしかして、納品時にお会い出来なかった理由って危険人物の疑いがあったからですか?」
「あぁ、あの時は本当に別件だよ。それはともかく、ここでは白痴化治療の研究も行っていてね。どうかな。治療を受けてみる気は無いかね?」
「治療って……。治療出来るんですか? 片山には長くて7〜8年だと」
「まだ研究途中ではあるんだが、完治する可能性はゼロじゃない。どうかね?」
「……。どうと言われても。利根川さんには話したんですが、俺は貧乏画家なんですよ。治療費なんて支払える自信はないですよ」
「そういうことか。それなら、我々のプロジェクトに協力してもらうというのはどうかな?」
「白痴化研究のモルモット的な?」
「おいおい、性質の悪い表現はやめてもらえるかな。白痴化研究の治験に協力してもらう以外にも、とある機密プロジェクトに参加してもらいたいのだよ」
「すいません。そんなつもりでは。 え? 機密プロジェクト?」
「まだ詳細は言えないが、多くの人の心を救うことになるプロジェクトだ。承諾してもらえるなら治療費は無料、プロジェクトの内容は説明する。拒否なら治療の実費は頂く。どちらを選んでも治療は出来るから、君にとって損は無いはずだ」
チラッと利根川を見ると、優しそうな眼差しで軽く頷いている。
「……。えっと」
悩む必要は無いのかもしれないのだが、貧乏画家では高額な治療費は支払えるはずもない。
それを知っての提案なら、俺が採れる選択肢は、全てを忘れて数年だけ生きるか、機密に足を突っ込んで画家ではない道を歩むかの二択だ。
「まぁ、返事はそんなに急がなくてもいいぞ。急変する病気ではないしな。持ち帰って少し悩んでみるといい。あ、そうそう。ちゃんと報酬は出すぞ。もちろん成果が出れば、それに見合った額にもなる。それに……」
橘所長の目線が急に険しくなり、指を耳に当てて黙り込んだ。
利根川を見ると、やはり同じでインカムか何かで連絡を受けているようだ。
「すまんな。また侵入者だ」
「所長!」
すかさず、利根川が声をかけて制止した。
「今のは聞かなかったことにしてくれ。それから先ほどの件、あとで利根川に返事を伝えてもらえるかな。では、利根川。お見送りを」
また今回も慌ただしく帰ることになるとは、全くついてない。




