ep9.真相
「待ってくれ、ルナ!」
鋼のような決意を胸に、ルナがニルスの家を飛び出した直後だった。
背後から切羽詰まった声が追いかけてくる。振り返るよりも早く、腕を強く掴まれた。ニルスだった。
彼の顔は血の気を失い、その瞳は悲痛な色を浮かべて懇願していた。
「行かないでくれ。そんな危険なこと、君にさせられるわけがない!」
彼の指が、食い込むようにルナの腕を掴む。その痛み以上に、彼の心の叫びがルナの胸を締め付けた。
「依頼主を殺すなんて、そんなことをすれば君はギルドだけじゃない、全ての組織を敵に回すことになる! それこそ、本当に逃げ場がなくなってしまうんだ!」
「でも、こうしている間にも時間は過ぎていくの!」
ルナは、彼の腕を振り払おうともがいた。
「ギルドが定めた期限は、もうすぐそこまで来ている。私が動かなければ、私たちはどちらにせよ破滅するだけよ。他に道はないの!」
「道なら僕が作る! 君を巻き込むわけにはいかない! これは、僕が始めたことなんだから!」
「違う! 私の家族が始めたことでもある! 私にも責任がある!」
二人は、家の前で激しく言い争った。
互いを想うが故に、その主張は決して交わらない。ニルスはルナを危険から遠ざけようとし、ルナはニルスを守るために危険に飛び込もうとしている。どちらも一歩も引くことはできなかった。
焦りが募る。
早く宿に戻り、準備を整えなければならない。
依頼主の居場所は、ギルドの特殊な伝達経路を辿れば突き止められるはずだ。
だが、ニルスが離してくれない。彼の必死な形相を見ていると、心が揺らぎそうになる。
その時だった。
「お前たち、一体何を揉めているんだ。」
不意に、第三者の声が二人の間に割り込んできた。ハッとしてそちらを見ると、そこには、険しい顔つきの雑貨屋の主人が立っていた。
彼は、腕を組んで仁王立ちになり、訝しげな眼差しで二人を交互に見比べている。
「昼間から、村の往来でみっともないぞ。何かあったのか。」
主人の問いに、二人は言葉を詰まらせた。この複雑な事情を、どう説明すればいいのか。どこから話せばいいのか。
沈黙する二人を見て、主人の疑念はさらに深まったようだった。
彼の視線が、ルナに鋭く突き刺さる。
「おい、ニルス。この娘は、一体何者なんだ。昨日から、お前の周りを嗅ぎ回っているようだが。まさか、お前がやっている『商売』の新しい仲間じゃあるまいな。」
その言葉に、ニルスはハッとしたように顔を上げた。彼は、何かを決意したように、主人の目をまっすぐに見つめ返した。
「……違う。この子は、仲間なんかじゃない。この子は……ルナだ。」
「ルナ? それがこの娘の名前か。だから、何なんだ。」
「10年前、この村で火事で死んだとされていた、あの家族の娘だ。生きていたんだ。」
ニルスの言葉は、静かだったが、その場にいた全員の動きを止めるには十分すぎるほどの衝撃を持っていた。
主人の顔が、みるみるうちに青ざめていく。
その目は大きく見開かれ、信じられないものを見るかのようにルナを見つめている。
唇がわなわなと震え、何かを言おうとしているが、言葉にならない。その狼狽ぶりは、尋常ではなかった。
「どういうことだ……」
ニルスが、主人の異常な様子に気づき、訝しげに眉をひそめた。
「あなたは、ルナの両親と親しかったはずだ。彼女が生きていたことを、喜んでくれてもいいんじゃないのか。なぜ、そんなに動揺しているんだ。」
ニルスの問いかけが、引き金になった。主人は、がくりと膝から崩れ落ちそうになり、近くの塀に手をついてかろうじて身体を支えた。その顔は、もはや恐怖と絶望の色に染まっていた。
そして、彼の口から、誰もが予想だにしなかった、恐ろしい真実が語られ始めた。
「……わしが……わしが、火をつけたんだ。」
絞り出すような、か細い声だった。だが、その言葉は雷鳴のように、ルナとニルスの脳天を撃ち抜いた。
主人は、うわごとのように、震える声で告白を続けた。
「わしは、この村で唯一、ルナの父さんと母さんと親しくしておった。二人が、ただの村人ではなく、薬の専門家だということも知っていた。だから、わしが付き合いのあった首都の商人たちに、二人を紹介したんじゃ……最初は、ただの薬草や珍しい薬の取引だった。だが、いつからか、商人たちが要求してくる薬が、どんどんおかしくなっていった。人の心を狂わせる、違法な薬物じゃと気づいた時には、もう手遅れじゃった。」
主人は、顔を覆い、嗚咽を漏らした。
「わしは、ルナの父さんにもうやめろと問い詰めた。だが、あいつはまるで人が変わってしもうていた。『これは金儲けの絶好の機会だ』と言って、わしの言うことなど聞き入れんかった。それどころか、『販路を広げるために、村に新しく引っ越してきた医者の家族にも話を持ちかけた』と、嬉しそうに語りおったんじゃ。」
主人の視線が、ニルスに向けられる。
「あんたの親父さんは、立派な人じゃった。ルナの父さんの誘いを、きっぱりと断ったそうじゃ。それを知って、わしはもう一度、ルナの父さんを説得しようとした。じゃが……」
そこで、主人の言葉が途切れた。
彼の脳裏に、あの日の惨劇が蘇っているのだろう。
「あいつと揉み合いになった。金に目が眩み、人としての道を外れてしまった親友を、殴ってでも止めようとした。じゃが、その争いの中で……わしは、あいつを……殺してしもうたんじゃ。」
絶望的な告白。ルナは、自分の両親の、そして父親の、知られざる闇の姿に、言葉を失っていた。
「わしは、気が動転してしもうた。この殺人を、どうにかして無かったことにしなければと……それで、家に火をつけた。母さんと、まだ幼かったあんたごと、家族諸共燃えてしまえば、事故として処理され、証拠は何も残らんと思うた。じゃが……」
主人の視線が、再びルナを捉えた。その瞳には、後悔と恐怖が渦巻いていた。
「あんたが、ニルスに助け出されてしもうた。このままでは、いつかあんたが何かを思い出すかもしれん。わしは、恐ろしくてたまらなくなった。だから……ニルスが、助けを呼びにその場を離れた、ほんの僅かな隙に……わしは、あんたの後ろから、鈍器で……」
その言葉に、ルナは無意識に自分の後頭部に手をやっていた。そこには、今も微かに、古い傷跡が残っている。記憶を失った原因。それは、この男の一撃だったのだ。
「血を流しておったあんたを、人知れぬ街道まで運び、置き去りにした。まだ幼い子供じゃ。助かるはずはあるまい、と……そう、思うておった。じゃが、まさか、こうして生きて、目の前に現れるとは……。」
全てを話し終えた主人は、その場に崩れ落ちると、ルナの前に這いつくばるようにして土下座をした。
「すまん……すまん、ルナ……! わしが、あんたの人生の全てを狂わせてしもうた! どんな罰でも受ける! だから、どうか……!」
地面に額をこすりつけ、許しを乞う男。
ルナは、ただ黙って、その姿を見下ろしていた。
胸の中で、様々な感情が嵐のように吹き荒れていた。
両親への失望、父親を殺したこの男への憎しみ、そして、自分の人生をここまで歪めた元凶に対する、燃えるような怒り。
今すぐにでも腰の短剣を抜き、この男の心臓を貫いてやりたい。その衝動に、何度も駆られた。
だが、できなかった。
ギルドの掟が、彼女を縛っていた。
『契約対象者以外の殺害は、これを禁ずる』。
それは、暗殺者として彼女の身体に深く刻み込まれた、絶対の戒律だった。この男は自分の標的ではない。
そして、何よりもこんな男を殺したところで、自分の過去が戻ってくるわけではない。失われた時間は、二度と返ってはこないのだ。
憎い。
心の底から、この男が許せない。
だが、彼を殺すことは、自分の流儀に反する。
ルナは、唇を強く噛み締めた。血の味が、口の中に広がる。彼女は、地面にひれ伏す男に向かって、氷のように冷たい声で言い放った。
「……顔を上げろ。」
主人は、おずおずと顔を上げた。その顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。
「あなたのことは一生許さない。でも、殺しもしない。それが、私のルールだ。」
ルナは、男から視線を逸らし、空を仰いだ。
「だから、今すぐこの村から消えろ。二度と、私たちの前に姿を見せるな。もし、次に会うことがあれば、その時は……容赦しない。」
それは、最大限の慈悲であり、そして最後通告だった。
主人は、何度も、何度も頭を地面にこすりつけると、よろめくように立ち上がり、一度も振り返ることなく、村の外へと続く道を走り去っていった。
その後ろ姿を、ルナはただ黙って見送っていた。
ニルスがそっと彼女の隣に立ち、その肩に手を置いた。
彼の温もりが、冷え切ったルナの心を、わずかに温める。
全ての元凶が、明らかになった。だが、それによって、何かが解決したわけではない。
むしろ、事態はより複雑になり、そして、どうしようもない現実だけが、重くのしかかってくる。
ルナは、やり場のない怒りと、どうすることもできない世の無情さに、ただ唇を強く噛み締めることしかできなかった。
空は、皮肉なほどに青く澄み渡っていた。
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