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ep7.葛藤

夜明け前の静寂が、部屋を支配していた。

窓から差し込む青白い光が、ベッドの上で身を起こしたルナの横顔をぼんやりと照らし出す。

彼女は眠れずにいた。

目を閉じれば、光あふれる草原で笑い合う、幼い自分と少年の姿が鮮やかに蘇る。


あの夢は、ただの夢ではない。

そう確信していた。

記憶にはないはずの光景なのに、胸の奥がじんわりと温かくなり、どうしようもなく懐かしい気持ちが込み上げてくる。

あの少年の手の温もり、照れたようにメガネを直す仕草、そして「ルナ」と呼んだ優しい声。

全てが、失われた自分の過去の一部なのだと、魂が告げている。


ニルス・グウェル。

彼は、あの夢の中の少年なのだろうか。

昨日、彼と対峙した時の、ほんの一瞬見せた動揺。それは、自分の名も知らぬ旅の娘に対するものではなかった。

もっと深く、個人的な感情の揺らぎ。

もし、彼が本当に「お兄ちゃん」だったとしたら。


「……殺せない。」


無意識に、言葉が漏れた。

暗殺者として、任務の対象に私情を挟むことは死を意味する。

そう叩き込まれてきた。

感情は弱さであり、弱さは破滅を招く。

だから、彼女は心を殺し、鉄の仮面を被って生きてきた。

だが、その仮面に、今、はっきりと亀裂が入っている。

ニルスが自分の記憶の中にいる少年ならば、彼に刃を向けることなど、到底できそうにない。

それどころか、聞きたいことが山ほどあった。


あなたは誰なのか。

私は誰なのか。

あの火事の夜、何があったのか。

私たちは、どんな関係だったのか。


真実を知りたい。その欲求が、暗殺者としての使命感を、今や凌駕しようとしていた。


決意は、夜明けの光と共に、彼女の心の中で固まった。

もう、探るのはやめよう。ただ、まっすぐに、彼に問いただすのだ。

ルナはベッドから降りると、手早く旅装束に着替えた。

鏡に映る自分の瞳には、もう迷いはなかった。

そこにあるのは、真実を求める者だけが持つ、強く、澄んだ光だった。


階下の食堂で、パンとスープだけの簡単な朝食を済ませる。

いつもなら機械的に口に運ぶだけの食事が、今日に限っては、決戦前の儀式のように厳かに感じられた。

宿を出ると、朝の冷たい空気が肌を引き締める。

ルナは、迷うことなくニルスの家へと向かった。


診療所の扉を叩くと、中から「どうぞ」という穏やかな声が聞こえた。

ルナが中に入ると、ニルスは薬草をすり潰す手を止め、少し驚いたように彼女を見つめた。


「やあ、君か。どうしたんだい、こんな朝早くに。どこか具合でも?」


彼の態度は、昨日と変わらず穏やかだ。だが、その瞳の奥に、隠しきれない警戒の色が滲んでいるのをルナは見逃さなかった。

ルナは、無言で彼の前に進み出た。

そして、深く息を吸い込むと、用意してきた言葉を、一つ一つ確かめるように紡いだ。


「私の名前は、ルナ、です。」


自分の名前を口にした瞬間、ニルスの肩が微かに震えた。


「あなたに、聞きたいことがあります。あなたは……私のことを、知っていますか?」


真っ直ぐに、彼の目を見つめて問いかける。

もう、駆け引きも、芝居もいらない。ただ、真実が欲しかった。


ルナの言葉を聞いたニルスの顔から、すっと表情が消えた。

完璧だったはずの柔和な仮面が、音を立てて崩れ落ちていく。

彼の瞳は大きく見開かれ、信じられないものを見るかのように、ただルナの顔を凝視していた。

唇が、かすかに震えている。

長い、息の詰まるような沈黙。やがて、彼は絞り出すような、か細い声で呟いた。


「……ルナ。本当に、君なのか……?」


その声は、驚きと、歓喜と、そして長年の苦しみが入り混じった、複雑な響きを持っていた。


「ずっと、探していたんだ。君が生きているなんて……今まで、一体どこで、どうしていたんだい?」


ニルスは、カウンターから飛び出すようにしてルナの元へ駆け寄ると、衝動的に彼女の肩を掴んだ。その手は、強く、そして熱く震えていた。

その切実な問いに、ルナは静かに首を振った。


「私には、過去の記憶がありません。物心ついた時から、一人で……生きてきました。」


暗殺者であること、組織に拾われたこと。

その部分は巧みに隠しながら、彼女はこれまでの人生を断片的に語った。

感情を失い、ただ生きるためだけに技術を磨いてきたこと。

自分が何者なのかも知らずに、ただ日々を過ごしてきたこと。

ルナの話を聞き終えたニルスは、その瞳に深い悲しみの色を浮かべ、そして、それ以上に強い喜びの光を宿した。


「そうだったのか……辛かっただろう。だが、それでも生きていてくれた。本当に、良かった……!」


彼は、感極まったようにルナを強く抱きしめた。

その腕の中から、彼の心臓の激しい鼓動が伝わってくる。

ルナは、なされるがままになっていた。

人の温もりに、こんなにも安心感を覚えたのは、生まれて初めてのことだった。


「ルナ、来てほしい場所があるんだ。」


ニルスは腕を解くと、彼女の手を強く握った。その瞳は、何かを決意したように、力強く輝いている。


ニルスに手を引かれるまま、ルナは村の外れへと向かった。

彼が連れてきてくれたのは、村から少し離れた、なだらかな丘の上に広がる草原だった。

朝露に濡れた若草が、太陽の光を浴びてきらきらと輝いている。色とりどりの野花が咲き乱れ、心地よい風が二人の髪を優しく揺らす。

その光景を見た瞬間、ルナの心臓が大きく跳ねた。

夢で見た場所だ。

あの、幸せに満ちた夢の中で、少年と二人で走り回った、思い出の草原。


「ここを……覚えているかい?」


ニルスが、囁くように尋ねた。

ルナは、こくりと頷いた。


「夢で見ました。あなたと私が、ここで……遊んでいる夢を。」

「そうか……」


ニルスは、どこか安堵したように微笑んだ。

彼はルナの手を引いて、草原の中ほどにある、一本の大きな樫の木の下まで歩いていく。


「僕たちは、いつもここで遊んでいたんだ。君は、隣の家に住んでいた、僕の2つ年下の、まるで妹のような存在だった。そして……僕の、初恋の人だった。」


彼は、遠い過去を慈しむように語り始めた。

その言葉の一つ一つが、ルナの心に温かく染み込んでいく。


「あの日も僕たちはここで遊んでいた。夕方になって、君を家まで送っていったんだ。それが、君と話した最後の記憶になるなんて、思ってもいなかった。」


彼の表情が、一転して苦痛に歪む。


「その夜、君の家が火事になった。僕は、両親の制止を振り切って、燃え盛る家の中に飛び込んだんだ。奥の部屋で、君は倒れていた。僕は必死で君を抱えて、家の外まで運び出した。君は意識がなかったけれど、確かに息をしていたんだ。」


ニルスの言葉が、悪夢の光景と重なり合う。

煙に巻かれ、炎に焼かれながら、自分を抱き起こしてくれた少年の姿。あれは、やはり彼だったのだ。


「でも、その後、君は突然いなくなってしまった。僕の両親が村の大人たちと協力して、必死に探したけれど、どこにもいなかった。誰もが、君は火事で亡くなったんだと思った。でも、僕は信じていた。君は絶対に生きている、って。だから……」


彼は一度言葉を切り、ルナの瞳を真っ直ぐに見つめた。


「だから僕は医者になったんだ。いつか君と再会できた時、どんな怪我や病気でも治せるように。君を守れるだけの力が欲しくて、必死で勉強した。君を、もう二度と失いたくなかったから。」


彼の告白は、熱い奔流となってルナの胸に流れ込んできた。16年間、ただひたすらに自分を想い続けてくれた人がいた。

その事実が、彼女の凍てついていた心を、根底から溶かしていく。


「ルナ。僕は今でも君のことが好きだ。16年前と、何も変わらない。」


その言葉と共に、彼はそっとルナの身体を引き寄せた。


「この村に残って、僕と一緒に生きてはくれないか?」


それは、プロポーズだった。

暗殺者として生きてきた彼女が、およそ受け取ることなどないと思っていた、温かく、そして真摯な愛の告白。


ルナの胸が、激しく高鳴った。


嬉しい。

心の底から、そう思う。

この人の隣でなら、失われた過去を取り戻し、新しい人生を歩めるかもしれない。

暗く冷たい世界から抜け出して、陽の当たる場所で生きていけるかもしれない。


だが、同時に、もう一人の自分が冷たく囁く。


『お前は暗殺者だ。この男は、お前の標的だぞ』

『この温かい世界は、お前のような血塗られた人間がいるべき場所ではない』


組織の掟が脳裏をよぎる。

任務を放棄すれば、自分は追われる身となる。

そして、ニルスもまた、危険に晒すことになるだろう。

受け入れたいと叫ぶ心と、拒絶しなければならないと警告する理性が、彼女の中で激しくぶつかり合った。


「……少し、時間をください。」


かろうじて、そう答えるのが精一杯だった。

ニルスは、彼女の葛藤を察したのか、何も言わずに優しく頷いた。


二人は、無言のまま彼の家に戻った。

気まずい沈黙が流れる中、ニルスは「お昼にしよう。何か作るよ」と言って、キッチンに立った。

手際よく野菜を切り、鍋でスープを煮込む彼の背中を、ルナはただぼんやりと眺めていた。

その何気ない日常の光景が、ひどく眩しく見える。

やがて、温かいスープと焼きたてのパンがテーブルに並べられた。


「さあ、食べて。」


そう言って微笑むニルスの顔が、ふと、夢の中の少年の顔と重なった。

―――その瞬間。

ルナの頭の中に、いくつもの映像が、閃光のように駆け巡った。


『お兄ちゃん、これあげる!』


小さな手で、白い花を差し出す自分。


『ありがとう、ルナ。きれいだね』


優しく頭を撫でてくれる、少年の大きな手。


『大きくなったら、お兄ちゃんのおよめさんになるんだ!』

『はは、そうなったら嬉しいな』


照れくさそうに笑う、メガネの奥の優しい瞳。

断片的で、しかし鮮烈な記憶のフラッシュバック。それは、ニルスの何気ない優しさが引き金となって、固く閉ざされていた記憶の扉を、こじ開けたかのようだった。

スプーンが、カチャン、と音を立てて床に落ちた。


「ルナ? どうしたんだい?」


心配そうに覗き込むニルスの顔が、滲んで見える。嬉しいはずなのに、涙が止まらない。温かいはずなのに、身体が震える。

暗殺者としての自分。

記憶の中の、幸せだった自分。

そして、目の前で愛を告げてくれた、たった一人の大切な人。

自分は、どうすればいいのか。どの道を選べば、正解なのか。

ルナは、溢れ出る涙の中で、ただ途方に暮れていた。

生まれて初めて、自分の意志で未来を選ばなければならないという、あまりにも重い現実に、完全に飲み込まれてしまっていた。

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