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ep6.夢の続き

吹き抜ける風が、戦闘の高揚感で火照った頬を冷ましていく。

ルナは息を整えながら、男が消えていった建物の出口を睨みつけた。

床に残された数滴の血痕が、先ほどの死闘が現実であったことを生々しく物語っている。


あの男は何者だ? ニルス・グウェルの仲間か、それとも彼を監視する別の組織の人間か。

その動きは、紛れもなく暗殺や護衛といった裏の仕事に精通した者のそれだった。

そして、彼は自分を殺す寸前で撤退を選んだ。

それは、自分の実力を認め、これ以上の戦闘は不利だと判断したからに他ならない。


ルナは急いで建物を後にした。

長居は無用だ。

あの男が仲間を連れて戻ってくる可能性もある。

白日の下に身を晒すと、先ほどまでの閉鎖空間での緊張が嘘のように、村の穏やかな空気が彼女を包んだ。

だが、その平和な風景はもはや、彼女の目には薄っぺらな張りぼてのようにしか映らなかった。

この静かな村の地下では、確実に何かが蠢いている。


どうする? 一度引くべきか。

いや、違う。

敵が姿を現した今こそ、攻勢に出る好機だ。

蛇の巣を突いたのなら、蛇そのものが姿を見せるまで突き続けなければ意味がない。


ルナの足は、自然と村の中心にある広場へと向かっていた。

ニルス・グウェル。全ての謎の中心にいる男。

彼に直接会って、その仮面を剥がしてやる。

危険な賭けであることは承知の上だ。

だが、もはやこの任務は、単なる暗殺ではなく、自分の失われた過去を取り戻すための闘いへと変貌していた。

その闘いから、逃げることは許されない。


夕暮れ前の陽光が、広場の石畳を暖かな橙色に染めていた。

井戸の周りでは、子供たちが歓声を上げながら走り回り、ベンチに腰掛けた老人たちが、穏やかな顔でその様子を眺めている。

平和そのものの光景。その中心に、彼はいた。


ニルスが、数人の村人たちと談笑していた。

身振り手振りを交え、にこやかに話すその姿は、誰もが理想とするような、善良で献身的な青年医師そのものだ。

昨日、彼の家で見た澄んだ瞳、そして今、村人たちに向ける温かい笑顔。

その光景と、彼の背後にちらつく闇、そして彼を守るために人を殺すことも厭わないであろう謎の男の存在が、ルナの頭の中で激しく衝突する。

どちらが、本当の彼なのか。


ルナは決意を固め、ゆっくりと彼らの輪に近づいていった。

彼女の存在に気づいた村人たちが、訝しげな視線を向ける。

旅の娘が、村の人気者である医師に何の用か、とでも言いたげな顔だ。

ニルスもまた、ルナの姿を認めると、会話を中断して彼女の方を向いた。


「やあ、こんにちは。確か、昨日の……」


彼の声は、昨日と変わらず穏やかで、その笑みには一点の曇りもないように見えた。完璧な仮面だ。


「こんにちは、ニルス先生。少し村を散策していたんです。」


ルナは、人懐っこい旅の娘を完璧に演じきりながら、当たり障りのない挨拶を返した。

そして、まるで今気づいたかのように、例の建物を指差した。


「あちらに、とても新しくて立派な建物がありますよね。この村では少し珍しいなと思って。どなたか有力者の方のお屋敷か何かですか?」


純粋な好奇心を装った、計算された一撃。

その瞬間だった。

ニルスの表情が、ほんのわずかに変わった。

彼の瞳の奥で、穏やかだった光が一瞬だけ鋭く揺らめき、完璧なカーブを描いていた唇の端が、ミリ単位で硬直した。

それは、瞬き一つする間に消え去り、常人であれば決して気づくことのない、静かな水面に落ちた小石が描く、ごく微細な波紋のような変化だった。

だが、ルナの目はそれを見逃さなかった。


「ああ、あの建物のことかい。」


ニルスは、すぐにいつもの柔和な笑みに戻ると、少し困ったように頬を掻いた。


「お恥ずかしい話だけれど、あれは僕が建てたんだ。村の若い人たちや、君のような旅の方が、少しでも安く住める場所があればいいなと思ってね。ただ、見ての通り、この村はあまり人も増えないから、まだ借り手が見つからなくて、ほとんど空き家になってしまっているんだよ。」


滑らかで、淀みない説明。

同情を誘うような、はにかんだ笑顔。

全てが完璧に計算され尽くしている。

だが、その言葉を聞いて、ルナの中の違和感は確信へと変わった。


なぜ、村人が寄り付かないあの「忌み地」に?

なぜ、誰も住んでいない空き家を、あれほど綺麗に維持し、そして、手練れの護衛までつけて守っているのか?


彼の説明は、あまりにも出来過ぎていた。

まるで、いつか誰かにこう質問されることを見越して、あらかじめ用意しておいた台本を読み上げているかのようだった。

その流暢さが、かえって彼の嘘を雄弁に物語っている。


「そうだったんですね。先生は、本当に村のことを考えていらっしゃるんですね。素敵です。」


ルナは、感心したように微笑んでみせた。

腹の底では、冷たい怒りのようなものが燃え上がっていたが、その感情は完璧に押し殺す。


「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいよ。」


ニルスもまた、穏やかに微笑み返した。

二人の間には、穏やかな会話が交わされている。

しかし、その水面下では、互いの本心を探り合う、見えない刃が激しく交差していた。


「では、お邪魔しました。」


ルナは軽く頭を下げ、その場を離れた。

背中に、ニルスの探るような視線が突き刺さるのを感じたが、彼女は一度も振り返らなかった。


時刻は、既に夕闇が村を包み始める頃となっていた。

ルナは宿に戻ると、まっすぐに食堂へ向かった。

今日の出来事が、頭の中で激しく駆け巡っている。

ニルスとの対話で得た、決定的な確信。彼は何かを隠している。

そして、その隠し事は、自分の過去と深く繋がっている可能性が極めて高い。

食堂のテーブルに着くと、昨日と同じ煮込み料理を注文した。

昨日、無味乾燥に感じたはずの料理が、今日はいやに美味しく感じられた。

それは、謎の核心に一歩近づいたという高揚感が、彼女の五感を刺激しているからかもしれない。

食事を終えると、ルナはすぐに部屋に戻った。

肉体的な疲労と、一日中張り詰めていた精神的な疲労が、どっと押し寄せてくる。

彼女は服もそのままに、ベッドへと倒れ込んだ。

思考が、徐々に曖昧になっていく。

ニルスの仮面、謎の男の刃、雑貨屋の店主の恐怖に歪んだ顔……

様々な光景が脳裏をよぎりながら、彼女の意識は深い眠りの底へと沈んでいった。


そして、ルナは夢を見た。


そこは、陽光が燦々と降り注ぐ、緑の草原だった。昨夜の悪夢のような、燃え盛る炎も、息苦しい煙もない。ただ、若草の匂いを乗せた、心地よい風が吹き渡っている。

自分は、幼い少女の姿をしていた。

小さな手は、自分より少しだけ背の高い、一人の少年に引かれている。


「待って、お兄ちゃん!」


幼い自分の声が、鈴が鳴るように草原に響く。

少年は振り返り、悪戯っぽく笑った。

丸いメガネの奥の瞳が、太陽の光を反射してきらきらと輝いている。その顔は、紛れもなく、ニルスによく似ていた。

二人は、飽きることなく走り回った。

蝶を追いかけ、花を摘み、疲れると大きな木の根元に腰を下ろして、空を流れる雲を眺めた。

全てが暖かく、穏やかで、幸せに満ちた時間。

ふと、少年が真面目な顔で尋ねてきた。


「ねえ、ルナ。君は、大きくなったら何になりたいんだい?」


少女の姿の自分は、少しも迷うことなく、満面の笑みで答えた。


「わたし、お兄ちゃんのおよめさんになりたい!」


屈託のない、純粋な言葉。

それを聞いた少年は、一瞬、驚いたように目を見開いた。

そして、次の瞬間、彼の頬がぽっと赤く染まり、はにかむように俯いた。

だが、その口元には、抑えきれない喜びが浮かんでいる。


「そっか。……そうなったら、嬉しいな。」


少年は、照れを隠すかのように、指でくいっとメガネの位置を直した。その何気ない仕草が、やけに鮮明にルナの目に焼き付く。


「約束だよ!」

「うん、約束だ。」


少年は優しく微笑むと、再び少女の手を取った。


「さあ、あそこの丘まで競争だ!」


二人はまた、笑い声を上げながら、光あふれる草原を駆け出していく。

その幸せな光景が、ゆっくりと白い光の中に溶けていくところで、ルナの意識は浮上した。


目を覚ますと、窓の外はまだ薄暗い夜明け前だった。

ルナは、ゆっくりと身体を起こした。

夢の内容を思い出す。

胸の奥から、じんわりと温かいものが込み上げてくるのを、彼女ははっきりと感じた。

それは、これまでの人生で一度も味わったことのない、甘く、そして少しだけ切ない感情だった。


「……懐かしい。」


思わず、声が漏れた。

記憶にはないはずの光景。

知らないはずの会話。

それなのに、なぜだろう。酷く、酷く懐かしい。

あの少年の手の温もりも、嬉しそうに笑った顔も、メガネを直す癖も。

全てが、まるで昨日体験した出来事のように、リアルに思い出せる。

昨夜の、全てを焼き尽くす悪夢。

そして、今見た、全てを祝福するような幸せな夢。

両極端な二つの夢は、しかし、同じ「少年」を軸にして、確かに繋がっていた。


ニルス・グウェル。

彼は、自分の命の恩人かもしれない。

そして、かつて自分が「お兄ちゃん」と呼び、心の底から慕っていた、かけがえのない存在だったのかもしれない。

その認識は、巨大な波のようにルナの心を激しく揺さぶった。

自分は、そんな相手を殺さなければならないのか?

暗殺者としての任務と、芽生え始めた温かい感情。その二つの間で、彼女の鉄のようだった決意が、初めて大きく、そして確かに揺らぎ始めていた。


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