ep5.刺客
老人から聞いた話は、重い錨のようにルナの心に沈み込んだ。
忌み地、謎の火事、一家全滅、そしてそこに建てられたニルス・グウェルの建物。
断片的な情報が頭の中で渦を巻き、彼女の冷静な思考をかき乱す。
空を見上げると、陽は既に中天に差し掛かっていた。
腹の虫が、空腹を告げて小さく鳴る。
一度宿に戻って体勢を立て直すか?
いや、止まってはいけない。思考を止めれば、感情という名の沼に足を取られる。
ルナは無意識に足を速め、思考を振り払うように村の中心部、自分が滞在している宿の食堂へと直接向かった。
喧騒と温かい料理の匂いが、彼女の張り詰めた神経をわずかに和らげる。
昼食時を少し過ぎていたため、食堂は空いていた。壁際のテーブル席に腰を下ろし、メニューも見ずに「本日の煮込み料理」を注文する。
給仕の娘が注文を受けて去っていくと、再び静寂がルナを包んだ。
だが、それは外的な静寂に過ぎない。彼女の頭の中は、情報の嵐が吹き荒れていた。
料理が運ばれてくるまでの短い時間。ルナは目を閉じ、情報の断片を整理し、再構築し始めた。
標的はニルス・グウェル。
村で唯一の医師であり、村人からの信頼も厚い。
16年前に、同じく医師であった両親と共にこの村へ移住。
首都ルーヴァンの全寮制の学校で学び、正式な医者の資格を得て帰郷した。
完璧な善人を絵に描いたような経歴。
しかし、その裏にはいくつもの影がちらつく。
村の外れにある怪しげな魔法の店で、用途不明の薬を購入していること。
そして、二年前、村人が恐れる忌み地に、自らの資金で三階建ての建物を建設したこと。
その忌み地では、10年近く前に謎の火災が発生し、一家全員が死亡している。
そして、最も大きな謎は、昨夜見た夢だ。
燃え盛る家。自分がその場に倒れていたという確信にも似た感覚。
そして、自分を助け起こした、幼い日のニルス・グウェルによく似た少年。
もし、あの夢が自分の失われた記憶の一部だとしたら?
あの火事で死んだとされる一家の娘が、自分で、何らかの理由で生き延び、ニルスに助けられたのだとしたら?
「……ありえない。」
ルナは無意識に呟いていた。
あまりにも突飛で、物語じみている。
だが、心のどこかで、それが真実なのではないかと囁く声が聞こえる。
自分の年齢と、ニルスが村に来た時期、そして火事が起きた時期。全てが奇妙に符合する。
もしそうだとしたら、ニルスは自分の命の恩人ということになる。
そんな相手を、自分は殺そうとしているのか?
依頼主は、なぜ彼を?
そして彼は、なぜ暗殺の対象となるようなことをしているのか。
「お待たせしました。本日の煮込み料理です。」
給仕の娘の声に、ルナははっと我に返った。
目の前に、湯気の立つシチュー皿が置かれる。
思考の迷路は、出口を見せるどころか、ますます複雑に絡み合っていく。
ルナはスプーンを手に取った。
これ以上一人で考えていても埒が明かない。もっと情報が必要だ。
ニルスの暗部、その核心に触れるための情報が。
ニルスの周辺で、彼に不満を持つ者、あるいは彼を疑っている者はいないだろうか。
村人たちの話では、彼は完璧な善人として描かれている。だが、どんな人間にも敵はいるものだ。
その時、ふと脳裏に一人の人物が浮かんだ。
昨日、立ち寄った雑貨店の、愛想の悪い店主。
彼はニルスと揉めていたという話があった。
もしかしたら、彼は何かを知っているのかもしれない。
ルナは、煮込み料理を機械的に口に運びながら、次の行動を決めた。
食事を終えたら、もう一度、あの雑貨屋へ行ってみよう。そして踏み込んだ質問をしてみるのだ。
食事を終えたルナは、足早に雑貨屋へと向かった。埃っぽい品々が雑然と並ぶ店の前に立つと、一度深呼吸をする。
店主は、カウンターの奥で帳簿らしきものに何かを書き込んでいた。
「こんにちは。」
ルナが声をかけると、店主は顔を上げ、あからさまに面倒くさそうな表情を浮かべた。
「……あんたか。また何か用かい。」
「ええ、少し。昨日、お話を伺ったニルス先生のことなんですけど。」
その名前を出した瞬間、店主の眉間の皺が一段と深くなった。
やはり、何かある。
ルナは確信を強め、言葉を続けた。
「村の皆さんは、先生のことをとても褒めていらっしゃいますけど、店主さんは少し違うように見受けられたので。何か、先生と揉め事でもあったんですか?」
探るような、しかしあくまで無邪気さを装った問いかけ。
それに、店主はこれまで以上の敵意を剥き出しにした。
「……余計なことを嗅ぎ回るんじゃねえ!」
突然の怒声に、ルナは一瞬身を固くした。
店主は勢いよく立ち上がると、カウンターを回り込み、ルナの腕を乱暴に掴んだ。
「あんた、一体何者だ! ニルスの差し金か、それとも奴に恨みでも持ってる連中か!? どっちにしろ、この村のことに首を突っ込むな! とっとと出ていけ!」
その剣幕は、尋常ではなかった。
顔は怒りで真っ赤になり、目には恐怖の色すら浮かんでいる。
彼は、ニルスという存在に、ただならぬ感情を抱いている。
それは単なる個人的な揉め事のレベルではない。もっと根深い、恐怖に近い何かだ。
店主はルナを店の外まで突き飛ばすと、バタン、と大きな音を立てて扉を閉めてしまった。
路上に一人残されたルナは、掴まれた腕を見下ろした。
痛みはない。だが、店主の激しい拒絶は、ルナの心に新たな疑問と確信を刻み付けた。
ニルスにはやはり何かがある。
そして、それは村の一部の人間にとっては、触れてはならない禁忌なのだ。
雑貨屋で手掛かりを得ることはできなかったが、収穫はあった。
ニルスの闇は、確実に存在する。ルナは再び、あの忌み地に建てられた三階建ての建物へと足を向けた。
もう一度、あの建物を自分の目で確かめたかった。何か見落としていることがあるかもしれない。
建物は、先ほどと変わらず、静かにそこに佇んでいた。
白い壁が、周囲の古い家々を見下しているかのようだ。
ルナは建物の周りをゆっくりと一周する。
特に変わった様子はない。
裏手には小さな庭があったが、手入れはされておらず、雑草が生い茂っていた。
諦めて帰ろうとした、その時だった。
建物の正面玄関の扉が、わずかに開いていることに気がついた。
朝に来た時は、固く閉ざされていたはずだ。誰かが中に入ったのか、あるいは出た後なのか。
ルナの胸が、とくん、と高鳴った。
これは、千載一遇の機会かもしれない。中の様子を、直接探ることができる。
彼女は周囲に人の気配がないことを慎重に確認すると、音を立てないように、そっと扉の隙間から中へと滑り込んだ。
建物の中は、外観の印象通り、ひんやりとしていて無機質だった。
がらんとしたエントランスホールには、郵便受けがいくつか並んでいるだけだ。
人の住んでいる気配が全くしない。
壁も床も真新しく、掃除も行き届いている。だが、それがかえって不気味さを際立たせていた。
まるでモデルルームか、あるいは誰も訪れることのない記念碑のようだ。
耳を澄ますが、物音一つ聞こえない。
ルナは短剣の柄にそっと手をかけながら、慎重に奥へと進んだ。
一階には幾つか部屋の扉が並んでいたが、全て固く閉ざされている。
階段を上がり、二階へ。
そこも同じように、静寂に包まれていた。
三階へと続く階段を上り始めた、その時だった。
「――そこで何をしている。」
背後から、低く鋭い声が投げかけられた。
ルナは心臓が跳ね上がるのを感じながら、素早く振り返った。
いつの間に現れたのか、階段の下に一人の男が立っていた。
痩身だが、しなやかな筋肉を思わせる体つき。
顔には深いフードを被っていて表情は窺えないが、その全身からは、獣のような鋭い警戒心と敵意が発せられていた。
「ニルスを探っているのは、お前か。」
男は問い詰めるように言った。その声には、疑いの色が濃く滲んでいる。
ルナは瞬時に、無知な旅人を演じることに決めた。
「ニルス? 人違いじゃありませんか? 私はただ、部屋を借りられないかと思って、中を見せてもらっていただけです。扉が開いていたので。」
「惚けるな。」
男はルナの嘘を、一刀両断に切り捨てた。
「昨日から、お前が村で何を嗅ぎ回っていたかは知っている。雑貨屋の店主を脅したそうだな。お前のような小娘が、一体何のためにニルスを調べる?」
男は一歩、また一歩と、ゆっくり階段を上がってくる。その右手は、腰に差した鞘へと伸びていた。
もはや、誤魔化しは通用しない。ルナは臨戦態勢に入りながら、相手の出方を窺った。
「答える気はないか。ならば、力尽くで吐かせるまでだ。」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、男は腰からダガーを抜き放ち、弾丸のような速さでルナに襲いかかってきた。
キンッ!
鋭い金属音が、静まり返った建物の中に響き渡った。
ルナは男の突きを、腰の短剣で辛うじて弾いていた。
腕に痺れるような衝撃が走る。速い、そして重い一撃。この男、手練れだ。
「ほう、やるな。」
男は感心したように呟き、再びダガーを構え直す。ルナもまた、即座にもう一本の短剣を抜き放ち、二刀を構えた。
「お前こそ、何者だ。ニルス・グウェルの番犬か?」
挑発するルナに、男は答えなかった。ただ、フードの奥の瞳が、冷たくギラリと光る。
次の瞬間、二人の姿は目にも留まらぬ速さで交錯した。
火花が散り、金属音が連続して鳴り響く。
男の攻撃は、無駄がなく、的確に急所を狙ってくる。
その動きは、明らかに人を殺すための訓練を受けた者のものだ。
ルナは、持ち前の俊敏さと二刀流の利点を活かし、攻撃を受け流しながら反撃の機会を窺う。
狭い階段という地形は、大振りの攻撃ができない分、細かい技術の応酬となる。一瞬の判断ミスが、即、死に繋がる。
男のダガーが、ルナの頬をかすめる。
数本の髪がはらりと舞い落ちた。同時に、ルナの短剣が男の腕を浅く切り裂く。
「くっ……!」
男は小さく呻き、素早く距離を取った。腕からは、じわりと血が滲み出ている。
勝負は、拮抗していた。だが、長く続けば体格で勝る男が有利になるだろう。
ルナは、短期決戦に持ち込むべく、一瞬の隙を突いて男の懐に飛び込んだ。
螺旋を描くように回転しながら放たれる、二本の短剣による連続攻撃。それは、彼女の師から叩き込まれた、必殺の剣技だった。
男は驚愕に目を見開き、後方へと大きく跳躍してそれを避ける。
その顔には、焦りの色が浮かんでいた。
彼は、目の前の小柄な少女が、自分と互角、あるいはそれ以上の実力者であると、ようやく悟ったのだ。
「ちっ……!」
男は忌々しげに舌打ちすると、それ以上戦うことを選ばなかった。
彼は身を翻し、驚くべき速さで階段を駆け下り、あっという間に建物の外へと走り去っていった。
後に残されたのは、張り詰めた静寂と、床に落ちた数滴の血痕だけだった。
ルナは、激しい鼓動を抑えながら、男が消えていった方向を睨みつけた。
あの男は、一体何者なのか。
ニルス・グウェルの仲間か、それとも別の組織の人間か。
どちらにせよ、確かなことが一つだけある。
ニルス・グウェルには、間違いなく何かがある。
彼を守るために、これほどの手練れを配下に置くほどの、重大な秘密が。
もはや、これは単なる暗殺任務ではない。
自分の過去と、標的の秘密が複雑に絡み合った、危険なゲームだ。
そして、自分はそのゲームの盤上に、既に乗せられてしまっている。
ルナは、二本の短剣を鞘に収めると、静かに建物を後にした。
彼女の瞳には、先ほどまでの迷いは消え、獲物を前にした狩人のような、冷たく鋭い光が宿っていた。
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