ep4.調査
窓から差し込む朝の光は、昨夜の悪夢の残滓を容赦なく白日の下に晒した。
ルナはベッドの上で身を起こし、しばし呆然と壁の一点を見つめていた。
脳裏に焼き付いて離れない。
燃え盛る家、天を焦がす炎、そして、その中で自分を抱き起こした少年の、哀しみを湛えた優しい瞳。
あれは、一体何だったのだろう。
自分の記憶には、火事に関する断片すら存在しない。
両親の顔も、その死の状況も、全ては厚い霧の向こう側だ。
「組織」に拾われる前の記憶は、ほとんどが抜け落ちている。
それなのに、昨夜の夢は、まるで実際に体験したかのように生々しい手触りを残していた。
肌を焼く熱風、肺を苛む煙、そして絶望的な無力感。
それが単なる夢だとは、どうしても思えなかった。
そして、あのメガネの少年。
彼の面影は、昨日会ったばかりの標的、ニルス・グウェルに驚くほど酷似していた。
なぜ、暗殺すべき相手が、自分の失われた過去と思しき光景に現れるのか。
偶然か、それとも何らかの因果が二人を結びつけているのか。
考えれば考えるほど、思考は迷宮の奥深くへと迷い込んでいく。
ルナは頭を振って、まとわりつく混乱を振り払った。
感傷や個人的な謎は、任務の遂行において最も危険な毒だ。
自分は暗殺者。依頼主の望む通りに標的を排除し、報酬を得る。それ以上でも、それ以下でもない。
過去がどうであれ、ニルスとの間に何があろうと、それは変わらないはずだ。
「……関係ない。」
誰に言うでもなく呟き、彼女はベッドから降りた。冷たい床の感触が、思考を現実へと引き戻す。
彼女は手早く旅装束に着替えると、髪をきつく結い上げ、腰に愛用の短剣を差し込んだ。
鏡に映る自分は、いつもの冷徹な暗殺者「ルナ」の顔をしている。
それでいい。それでなくてはならない。
だが、その瞳の奥に、昨夜の夢が落とした小さな波紋が、静かに揺らめいていることに、彼女自身はまだ気づいていなかった。
宿を出たルナは、再び村の散策を始めた。
しかし、昨日のような漠然としたものではない。
明確な目的を持って、彼女は人々の生活の中心へと足を向けた。
標的、ニルス・グウェルという人間を、もっと深く知るために。
村の中心にある井戸の周りでは、数人の主婦たちが楽しげに洗濯板を動かしながら、噂話に花を咲かせていた。
村の情報を得るには、これ以上ない場所だ。
ルナは旅の途中で水を分けてもらいに来た娘を装い、人懐っこい笑みを浮かべて彼女たちに近づいた。
「すみません、少しお水を頂いてもよろしいですか?」
「あらあら、旅のお嬢さんかい? いいとも、好きなだけ持ってお行き。」
一番年嵩の女性が、快く桶を貸してくれた。
ルナは礼を言って水を汲みながら、さりげなく会話の輪に加わる。
当たり障りのない世間話から始め、徐々に本題へと切り込んでいった。
「この村は、とても穏やかで良い所ですね。何か困ったことがあっても、皆さん親切で助かります」
「そうかい? 何もないのが取り柄みたいな村だけどねえ。まあ、ニルス先生がいらっしゃるから、病気や怪我の心配がないのは有り難いことさ」
待っていた言葉が出た。ルナはすかさず相槌を打つ。
「ニルス先生? ああ、お医者様がいらっしゃるんですね」
「そうだよ。腕は確かだし、とても親切な先生さ。夜中に子供が熱を出した時も、嫌な顔一つせず駆けつけてくださってね。先代のお父様の頃から、うちの家族はずっとお世話になってるんだよ。」
別の女性が、誇らしげに付け加えた。先代、という言葉にルナは微かに反応する。
「お父様も、この村でお医者様を?」
「そうさ。ニルス先生がまだ小さな坊やの頃に、ご家族でこの村に越してこられたんだ。もう、ずいぶん昔の話になるねえ。」
「へえ……。どれくらい前になるんですか?」
「さあて、どれくらいだったかねえ……。うちの息子が生まれたのと同じくらいの年だったから……ああ、そうだ。もう十六年になるかねえ。」
十六年前。
その言葉が、ルナの心に小さな石つぶてのように投げ込まれた。
波紋が広がり、昨夜の夢の光景と重なり合う。
自分の年齢と、記憶を失ったとされる時期。
曖昧だった過去の輪郭が、不意に一つの時間軸と結びつこうとしていた。
主婦たちに礼を言ってその場を離れたルナは、村の外れにある畑へと向かった。
そこでは、一人の農夫が黙々と土を耕している。
彼女は道に迷ったふりをして農夫に話しかけ、再びニルスの話題を振った。
腰を伸ばした農夫は、額の汗を手の甲で拭いながら、ぶっきらぼうだが実直な口調で語ってくれた。
「ニルスの坊主か。ああ、あいつは偉いやつだ。親父さんも立派な医者だったが、あいつはそれを超えるために、わざわざ首都ルーヴァンの学校まで行ったんだからな」
「首都に? 全寮制の、難しい学校だったんでしょう?」
「らしいな。何年も村を離れて、勉学に励んで、見事医者の資格を取って帰ってきた。金持ちの貴族や商人の子弟に混じって、田舎者のあいつがどれだけ苦労したか。俺には想像もつかん。」
農夫は、どこか眩しそうに遠くの山々を見つめた。
首都ルーヴァン。
ニルスは、あの巨大な都市のどこで、何を学び、何を見てきたのだろうか。
農夫の言う通り、裕福とは言えない村の医者の息子が、首都の格式高い学校で学ぶのは並大抵のことではなかったはずだ。
もしかしたら、彼を暗殺の標的に追いやった「何か」は、その首都での生活の中に隠されているのかもしれない。
ルナは農夫に別れを告げ、あてもなく村の小道を歩き始めた。
頭の中では、集めた情報が複雑に絡み合い、一つの人物像を形作りつつあった。
十六年前に両親と村へ来た少年。
偉大な父の背を追い、首都で医学を修めた努力家。そして村人から深く信頼される、善良な青年医師。
しかし、その光り輝く経歴の裏には、怪しげな魔法の店で薬を求める姿や、暗殺の対象となるだけの、深い闇が隠されているはずだった。
光が強ければ強いほど、その影もまた濃くなる。
思考の海に沈みながら歩いているうちに、ルナは不意に足を止めた。
目の前に、それまでの古びた村の風景とは全く不釣り合いな、一棟の建物が建っていたからだ。
三階建ての、比較的新しいその建物は、白い漆喰の壁が陽光を反射して眩しいほどだった。
窓枠はきれいに整えられ、屋根には赤褐色の瓦が整然と並んでいる。
清潔で、堅牢で、機能的。
しかし、周囲の、何十年という歳月をその身に刻み込んできた家々の中にぽつんと存在するそれは、まるで風景画に貼り付けられた異質な切り絵のように、ひどく浮いて見えた。
生命感が希薄で、どこか無機質な印象を与える。
ルナは、まるで何かに引き寄せられるように、その建物の前に立ち尽くし、ただ黙って見上げていた。その時だった。
「お嬢ちゃん、部屋を探しておるのかね?」
しわがれた声に振り返ると、近くの木陰のベンチに座っていた一人の老人が、穏やかな眼差しでこちらを見ていた。
「いえ、そういうわけでは……。ただ、この村には似合わない、立派な建物だなと思いまして。」
ルナがそう答えると、老人は満足げに頷いた。
「そうじゃろう、そうじゃろう。この村じゃ一番の新築じゃからのう。」
「どうして、こんなに新しい建物がここに? 建て替えか何かですか?」
「いやいや。この建物は、2年前にニルス先生がお建てになったもんじゃよ。余っている部屋を、村の若い衆や、たまに来る旅人に安く貸しておるんじゃ。」
またしても、ニルスの名前。彼が、この建物の持ち主だというのか。
「ニルス先生が……。そうだったんですね。」
ルナが相槌を打つと、老人はふと声を潜め、意味ありげな表情で続けた。
「じゃがな、お嬢ちゃん。わしらのような年寄りは、今でもこの場所に長居はせんのじゃ。ニルス先生がこの建物を建てるまで、ここは誰も寄り付かん、村の者から恐れられておった場所でのう。」
「恐れられていた……? どうしてですか?」
老人の言葉に、ルナの胸がざわついた。
この清潔で真新しい建物の下に、何か暗い過去が眠っている。直感がそう告げていた。
ルナの真剣な問いに、老人は少し躊躇うように視線を彷徨わせた後、遠い昔を懐かしむような、あるいは禁忌に触れることを恐れるような、複雑な眼差しでゆっくりと口を開いた。
「もう、10年近くも前の話になるかのう……ここにはな、今のような立派な建物じゃない、小さな一軒家が建っておったんじゃ。」
老人は一度言葉を切り、乾いた唇を舐めた。
「ある晩のことじゃった。夜空が真っ赤に染まって、何事かと思ったら、その家が燃えておった。見たこともないような、凄まじい火の勢いでな。村中の男たちが総出で水をかけたが、とてもじゃないが消せるような火事ではなかった。家はあっという間に焼け落ちて……そして、その家に住んでおった家族は……幼い娘さんまで含めて、全員が亡くなったんじゃよ。」
その言葉は、まるで現実の出来事のようにルナの鼓膜を打った。
昨夜の夢で見た、燃え盛る家。あれは、この場所の光景だったというのか。
「……火事の原因は?」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほどにかすれていた。
「それが、分からずじまいでの。失火か、放火か……結局、謎のままじゃ。それからというもの、ここは祟られた土地じゃと言われるようになってな。夜になると、焼け死んだ家族の啜り泣きが聞こえるとか、白い人魂が浮いているのを見たとか、そんな噂が絶えんかった。」
「その亡くなったご家族は、どんな方たちだったんですか?」
「さあてな。村の者とはあまり付き合いがなかったからのう。わしらが知る限りでは、ごく普通の、どこにでもいるような家族じゃった。ご主人がどんな仕事をしていたのか、奥方がどこの生まれなのか、詳しいことを知る者は、今となってはもうおらん。ただ、あの悲劇を知っておる古い村の者は皆、今でもこの土地を気味悪がって、進んで近づこうとはせんのじゃよ。」
老人は、それだけ言うと、深く長い溜息をついた。
ルナは、返す言葉が見つからなかった。
頭の中で、バラバラだったパズルのピースが、恐ろしい絵を描きながら嵌っていく。
10年近く前に、この場所で起きた謎の火事。一家全員が死亡した悲劇。
そして、その悲劇の土地に、2年前に建物を建てたニルス。
ルナは老人に丁重に礼を言い、その場を離れた。
足は自然と、自分の宿へと向かっていたが、意識は完全に別の場所にあった。
ニルスがこの村に来たのは、16年前。
火事が起きたのは、その後だ。
彼がこの土地の忌まわしい過去を知らないはずがない。
村人から恐れられ、避けられてきた土地。
なぜ彼は、敢えてそんな場所を選んで、新しい建物を建てたのか。
悲劇の記憶を、その白い壁で覆い隠し、塗りつぶすかのように。
それは、過去への贖罪か。それとも、何かを隠蔽するための偽装か。
そして、何よりも大きな謎。
昨夜の夢。燃える家、助けてくれた少年。
もし、あの夢が自分の失われた記憶の一部だとしたら?
もし、あの燃えていた家が、この土地にかつて建っていた家だとしたら? もし、焼け死んだとされる「幼い娘」が、自分だったとしたら……?
そして、その地獄の中から自分を救い出したのが、本当に、幼い日のニルスだったとしたら……?
ありえない。だが、そう考えると、全ての辻褄が合ってしまう。
依頼主が語らなかった暗殺の理由。ニルスの不可解な行動。そして、自分の空白の過去。
全てが、この忌み地で起きた火事を基点として、一つの線で結ばれる。
任務は、もはや単なる仕事ではなくなっていた。
それは、ルナ自身の過去と存在理由を解き明かすための、避けることのできない旅路へと変貌していた。
ニルス・グウェル。あなたは一体、何者なのか。
そして、私とあなたの間には、一体何があったのか。
謎は、迷宮のように深く、暗い螺旋を描きながら、ルナをその中心へと容赦なく引きずり込んでいくのだった。
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