ep3.夢
木漏れ日がまだらに落ちる小道を抜け、標的であるニルスの家を後にしたルナの胸中には、任務の確実性と、微かな違和感が混在していた。
穏やかな笑みを浮かべたあの青年医師が、なぜ暗殺の対象となるのか。
依頼主は理由を語らない。
それがこの世界の常であり、ルナもまた、それを問うような無粋な真似はしない。
ただ、引き受けた仕事を完遂する。
しかし、あのニルスの澄んだ瞳が、任務の無機質な輪郭をわずかに揺さぶっていた。
思考を振り払うように、ルナは村の散策を再開した。
ニルスという人間をより深く知るため、そしてこの村の空気を肌で感じるために。
村は、旅の途中で通り過ぎてきた数多の集落と同じく、慎ましく静かだった。
石畳というにはあまりに不揃いな道、家々の壁から覗く生活の匂い。
全てが穏やかな時の流れに包まれている。
商業活動の中心と思しき小さな広場には、店と呼べる建物がわずかに三店舗、肩を寄せ合うように建っていた。
一つは、土の匂いが漂ってきそうな農作物の店。
籠に盛られた色とりどりの野菜や果物は、太陽の光をたっぷりと浴びて瑞々しく輝いている。
その隣は、あらゆる生活必需品が雑多に並べられた雑貨店だ。
錆びついた釘から、色褪せたリボン、使い古しの革袋まで、店の内外に商品が溢れかえっている。
そして三つ目。
ルナの足を止めさせたのは、その異質な店だった。
他の二店のような開けっぴろげな雰囲気は一切ない。
固く閉ざされた古びた木の扉。
その入り口に、一枚の小さなタペストリーが掲げられている。
黒い布地に銀糸で刺繍された、複雑で幾何学的な紋様。
それは紛れもなく、何らかの魔術的な意味を持つ魔法陣だった。こんな鄙びた村にはあまりに不釣り合いな存在感を放っている。
ルナの胸の奥で、好奇心という名の小さな獣が目を覚ました。
彼女は軋む音を立てて、その重い扉を押し開いた。
店内に足を踏み入れた瞬間、外の世界とは完全に隔絶された。
窓一つなく、昼間だというのに昼光は一切届かない。代わりに、天井から吊るされた幾つものランタンが、頼りない橙色の光を投げかけている。その光に照らし出されるのは、常人の理解を遥かに超えた品々の陳列だった。
壁一面に設えられた棚には、得体の知れない器具や薬瓶が、まるで古代遺跡の出土品のようにずらりと並んでいる。
干からびたトカゲの尻尾、瓶詰めにされて青白い光を放つ苔、用途不明の歯車が絡み合った機械の残骸、動物のものらしい真っ白な頭蓋骨。
空気は埃っぽく、薬草の苦い匂いと、古書の黴臭さ、そして微かに金属が錆びるような匂いが混じり合い、ルナの鼻腔をくすぐった。
魔法に関する知識が皆無のルナにとって、ここに並ぶ品々はまさにガラクタの山だ。
埃を被った水晶玉に付けられた法外な値札、一見ただの石ころにしか見えない鉱物に添えられた「魔力増幅」の効能書き。
なぜこのような物がこれほどの値段で取引されるのか、皆目見当もつかない。
彼女は、異世界の博物館に迷い込んだような心持ちで、ゆっくりと店内を見て回った。
店の最も奥まった薄闇の中に、簡素な木のカウンターがあった。
その向こうで、一人の老婆が椅子に深く腰掛け、じっとルナの姿を観察している。
無数の深い皺が刻まれた顔、しかしその瞳は濁っておらず、まるで全てを見透かすかのように鋭い光を宿していた。
「お嬢ちゃん、この村の人間じゃないね。そんな子がこのお店に何の用だい?」
不意に投げかけられた声は、歳月を経て乾ききってはいたが、不思議なほどよく通った。
ルナは少し驚いて振り返る。老婆は身じろぎもせず、ただこちらを見つめている。
「いえ、ごめんなさい。外に掛かっていたタペストリーが気になって、つい入ってみたんです。それより、私がこの村の者じゃないって、どうして分かるんですか?」
ルナは努めて無邪気な口調で返した。
老婆は鼻でふっと笑う。
「そりゃあ、その恰好を見れば一目瞭然さ。上等な革を使ったブーツに、動きやすさを計算された仕立ての良い旅装束。おまけに、あんたから漂うのはこの村の土の匂いじゃない。街道の埃と、鉄の匂いだ。どう見ても旅人だね。」
ぞくり、とルナの背筋に冷たいものが走った。
服装だけでなく、纏う匂いまで見抜かれている。
この老婆、ただ者ではない。ルナは無意識のうちに身体をこわばらせ、いつでも動けるように警戒態勢を強めた。
その微細な変化を、老婆は見逃さなかった。
「そんなに警戒しないでも大丈夫だよ。年寄りの戯言さ。別にあんたに何かしようなんて思っちゃいないからね。」
老婆はそう言うと、口の端を歪めて笑った。その表情は、やはりどこか底が知れない。
「……すごいですね。私が警戒していることまでお見通しなんですか?」
ルナは警戒を完全には解かずに問いかけた。
「伊達に長く生きて、色んな人間を見てきたわけじゃないんでね。あんたが何を考え、何に怯えているか、おぼろげながら分かるもんさ。それぐらいはね。……例えば、あんたが魔法についてはまったくのド素人だろうなって事もね。」
核心を突かれ、ルナは言葉を失った。この老婆の前では、どんな取り繕いも無意味なのかもしれない。感嘆と畏怖が入り混じった感情が湧き上がる。
「すごい……そこまで分かるんですね……」
「くくく……」
老婆は再び、気味の悪い、しかしどこか楽しげな声で笑った。
その笑い声を聞いて、ルナは不思議と、強張っていた肩の力が抜けていくのを感じた。
この人物は危険だが、邪悪ではない。根源的な部分で、自分に害をなす存在ではないと、直感が告げていた。
「お婆さん、一つ聞いてもいいですか。ここに並んでいる物って、全部魔法に使うためのものなんですか?」
警戒を解いたルナが尋ねると、老婆は満足げに頷いた。
「そうだよ。魔術儀式の触媒、ポーションの材料、呪いを込めるための人形……まあ、こんな小さな村で、ここで売っているような本格的な代物を使う魔法使いなんているわけないけどね。だから、この店はほとんど旅人向けの店さ。」
「なるほど……確かに、こんなのどかな村に、すごい魔法使いがいたらすぐに噂になりますものね。」
「その通りさ。まあ、たまに村の医者のニルスが、薬の材料を買いに来るぐらいのもんだよ。それ以外は客なんて滅多に来ない。ほとんど私の趣味でやってるような店さね。」
その言葉に、ルナの心臓がかすかに跳ねた。
予想だにしないところで、標的の名前が飛び出してきた。
村の医者が、なぜこのような怪しげな店で、魔法の道具を?
「お婆さん、そのニルスさんという方は、ここで何を買っていくんですか?」
ルナは、興味本位を装って尋ねた。
「そうさねえ、あの子が買っていくのは、たいがいはその辺に並んでる薬草や鉱石の類だね。医療にどうやって使っているのかまでは、わしゃ知らんけどね。」
老婆は棚の一角を顎で示した。そこには、乾燥させた植物の束や、粉末にされた鉱石が入った小瓶が並んでいる。
「薬……私はその辺りのことは全く詳しくないんですけど、医療にも使えるようなものを売っているんですか?」
「まあ、使い方によるね。薬も毒も、元を辿れば同じようなものさ。匙加減一つでどうにでもなる。わしゃ、あの子がそれをどう使おうが興味はないから聞きもしないけど……ひょっとしたら、何か良からぬことにでも使っているのかもねえ。」
そう言って、老婆は三度、不気味に笑った。その笑みは、まるでニルスの秘密を知っているかのようにも、あるいはただの意地の悪い憶測を楽しんでいるようにも見えた。
標的が狙われる理由。それは、この「薬」に関連しているのかもしれない。
ニルスは表向きは善良な医師を装い、裏ではこの店で手に入れた材料で、何か禁忌を犯している……?
だが、ルナにとっては、その理由を知ったところで何かが変わるわけではない。任務は任務だ。彼女は思考を打ち切り、老婆に向き直った。
「色々と教えてくれてありがとう、お婆さん。また来ますね。」
ルナは静かに頭を下げ、店の外へと出た。背後で、扉が重い音を立てて閉まる。再び浴びた陽光が、やけに眩しく感じられた。
宿に戻ったルナは、自室で旅装束から簡素な部屋着に着替えると、階下の食堂へと降りていった。
夕食にはまだ早い時間帯で、客はまばらだ。
空いているテーブル席に着き、メニューも見ずに壁に書かれた「本日の煮込み料理」とパンを注文した。
ルナは食に頓着がなかった。
幼い頃から、生きるために与えられたものをただ口にしてきた。
味覚が鈍いわけではないが、美味しい、まずいという感情が極端に希薄なのだ。それは、彼女の空虚な過去と無関係ではないだろう。
やがて運ばれてきた、湯気の立つ肉と野菜の煮込みを、彼女は黙々と口に運んだ。
昼間の老婆との会話、そしてニルスという男の不可解な行動が頭の中を巡る。
だが、どれだけ考えても、それは任務の遂行を難しくするだけのノイズでしかなかった。
彼女は最後のパンで皿を綺麗に拭うと、早々に食事を切り上げた。
部屋に戻り、もう一度ニルスの家の方向を窓から眺める。
すでに村は夕闇に包まれ始め、家々には温かい光が灯っていた。あの家でも、ニルスは夕食を摂っているのだろうか。一人で。
朝早くから馬を走らせ、村まで旅をしてきた疲労が、ずしりと身体にのしかかる。
ルナは早々に寝ることに決めた。
ベッドに身を横たえ、唯一の灯りであるランプの火を吹き消す。
訪れた完全な暗闇の中、彼女は静かに目を閉じた。
意識は急速に遠のき、深い眠りの底へと沈んでいった。
―――どれほどの時間が経っただろうか。
ルナは、燃え盛る炎の中にいた。
目の前で、見覚えのある小さな家が、巨大な松明のように天を焦がしている。
パチパチと木のはぜる音、ゴウ、と空気を震わせる炎の唸り、そして、何かが崩れ落ちる轟音。熱風が肌を焼き、煙が喉に絡みついて呼吸を奪う。
自分は地面に倒れ伏し、身動き一つ取れない。ただ、燃え落ちていく我が家を、為す術もなく見上げている。
お父さん……お母さん……
声にならない叫びが、心の中で木霊する。
助けを求めて伸ばそうとした手は、ぴくりとも動かない。
もう、終わりだ。そう思った時、ふいに視界に影が差した。
誰かが、燃え盛る家を背に、自分を見下ろしている。
その人物は、ゆっくりとルナの傍らに膝をつくと、そのか細い身体をそっと抱え起こした。
誰……?
朦朧とする意識の中、ルナは必死にその人物の顔を見上げた。
丸い眼鏡をかけた、自分とそう年の変わらない少年。
なぜ、この少年はここにいるのだろう。
なぜ、自分を助けようとしているのだろう。
家はなぜ燃えているのか。
自分はどうして倒れているのか。
この少年は、一体誰なのか。
何も、分からない。思考は熱と煙で麻痺している。
だが、少年の顔だけは、不思議なほどはっきりと見えた。
炎に照らされたその表情は、恐怖や混乱ではなく、どこまでも深く、優しい哀しみに満ちていた。
そして、その優しい眼差しに見守られながら、ルナの意識は再び暗闇の中へと落ちていった。
―――窓の隙間から差し込む鋭い朝日に、ルナははっと目を覚ました。
心臓が激しく鼓動を打っている。全身にはじっとりと汗が滲んでいた。
乱れた呼吸を整えながら、ゆっくりと身体を起こす。
夢だ。しかし、あまりにも鮮明な夢だった。
炎の熱さ、煙の匂い、そして絶望的な無力感。それら全てが、まだ肌にまとわりついているかのように生々しい。
そして、夢で見た光景を思い出す。燃える家、両親を呼ぶ自分の声、そして……
「……あの少年は……」
自分の記憶のどこを探しても、あのような出来事に覚えはない。
火事で家を失ったという記録も、両親の死の状況も、彼女の頭の中は空白だ。
それは、彼女が「組織」に拾われた時に失っていた、幼い頃の記憶の一部なのだろうか。
だが、そうだとしても、あのメガネの少年。彼の顔には、なぜか見覚えがあった。昨日会ったばかりの誰かに、驚くほどよく似ていた。
寝ぼけた頭で、必死に記憶の糸を手繰り寄せる。そして、一つの顔に行き着いた瞬間、ルナの思考は凍り付いた。
ターゲットである、ニルス・グウェル。
夢の中の少年は、紛れもなく、幼い頃の彼だった。面影が、あまりにも似過ぎている。
なぜニルスが、自分の失われた過去の夢に出てくるのか。
自分とニルスは、過去にどこかで会っていたというのか?
あの火事は、一体何だったのか。そして彼は、なぜ自分を助けたのか。
任務の対象でしかなかったはずの男が、突如として自分の過去と結びついた。
それは、ルナの世界を根底から揺るがす、あまりに巨大な謎だった。
彼女は、差し込む朝日を浴びながら、夢と現実の狭間で、ただ呆然と頭を悩ませるしかなかった。
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