ep11.帰郷
死闘の後の空気は、血と鉄の匂いで重く澱んでいた。
ルナとニルスは、言葉少なに三つの死体を片付け、割れた窓を板で塞いだ。
その夜、ルナはニルスの家に泊まることにした。
彼一人をこの家に残しておくのは、あまりにも危険すぎた。
ギルドがいつ次の刺客を送り込んでくるか分からない以上、片時も彼のそばを離れるわけにはいかなかったのだ。
一つの部屋で、二人は別々の椅子に座り、ほとんど眠らずに夜を明かした。
緊張と、互いの存在を確かめるような穏やかさが入り混じった、奇妙な一夜だった。
窓の外が白み始め、朝の光が差し込んでくる頃には、ルナの決意は、夜の間に研ぎ澄まされた刃のように、硬く、そして鋭利になっていた。
幸い、夜の間に新たな奇襲はなかった。
ギルドも一度に三人の手練れを失ったことで、すぐには次の手を打てないのかもしれない。だが、それはほんの僅かな猶予に過ぎない。
「……行ってくる。」
朝食のパンを喉に押し込みながら、ルナは短く告げた。その瞳には、これから始まるであろう死闘への覚悟が燃えている。
ニルスは、何も言わずにただ黙って頷いた。
昨夜、あれだけ反対していた彼も、もはやルナの決意が覆らないことを悟っていたのだろう。
その顔には、深い憂いと、そして愛する者を戦場へ送り出す者の、どうしようもない無力感が浮かんでいた。
ルナはニルスの家を出ると、真っ直ぐに自分が滞在していた宿へと向かった。
部屋に残していた僅かな荷物をまとめ、勘定を済ませる。宿の主人に預けていた愛馬を受け取ると、彼女は手綱を引き、村の出口へと向かった。
この村での調査と、そして過去との再会は、これで終わりだ。これからは、未来を掴むための戦いが始まる。
村の出口、大きな街道へと続く分かれ道。
そこに、見慣れた人影が立っているのを見つけて、ルナは思わず足を止めた。
ニルスだった。
彼は、小さな革鞄を肩から下げ、まるでずっとそこで待っていたかのように、静かに佇んでいた。
「……どうしてここにいるの。」
ルナが問いかけると、ニルスはこれまで見せたことのないような、強い意志を宿した瞳で彼女を見つめ返した。
「君だけを行かせるわけにはいかない。僕も一緒に行く。」
その言葉に、ルナは眉をひそめた。
「馬鹿なこと言わないで。これから私がやろうとしていることが、どれだけ危険か分かっているでしょう。あなたは足手まといになるだけよ。」
「分かっている。僕は君のように戦うことはできない。でも、だからといって、君一人を死地に送り出して、自分だけが安全な場所で待っているなんて、僕にはできないんだ。僕のせいで、君はギルドを裏切ることになった。その責任は、僕にもある。だから、せめて、そばにいさせてほしい。君の行く末を、最後まで見届けたいんだ。」
ニルスの声は、震えていなかった。
そこには、ただ純粋に、ルナと共にありたいという、揺るぎない覚悟があった。
ルナは、彼の危険さを説いた。
追っ手との戦闘、血生臭い駆け引き、そして、いつ命を落とすか分からない過酷な旅。だが、ニルスの決意は変わらなかった。彼は、ただ頑なに首を横に振るだけだった。
しばらくの睨み合いの後、ルナは深いため息をついた。
彼の瞳を見れば、これ以上何を言っても無駄だということが分かった。
それに、心のどこかで、彼がそばにいてくれることを、自分が望んでいることにも気づいていた。
「……分かったわ。でも、絶対に私の指示に従うこと。そして、何があっても、私の前から離れないで。約束できる?」
「ああ、約束する。」
ニルスは、力強く頷いた。
ルナは、諦めたように馬に跨ると、彼に向かって手を差し伸べた。ニルスがその手を取って、器用にルナの後ろに乗り込む。
彼の身体が、背中にぴったりと寄り添う。その温もりが、これからの過酷な戦いに向かうルナの心を、不思議と落ち着かせてくれた。
「行くよ。しっかり掴まってて。」
ルナは手綱を握り締め、馬の腹を蹴った。馬は一声高くいななくと、首都ルーヴァンへと続く街道を、疾風のように駆け出した。
半日以上を駆け続け、夕暮れ時、二人は巨大な城壁に囲まれた首都ルーヴァンへと戻ってきた。
城門をくぐり、雑多な人々の喧騒の中を進む。まず向かうべき場所は、決まっていた。
「虹の山海亭」。冒険者たちの熱気が渦巻く繁華街の一角にある、ルナが根城にしている酒場であり、そして、昼間の彼女の「職場」でもある。
店の扉を開けると、いつものように陽気な音楽と、酒と料理の匂い、そして冒険者たちの威勢のいい声が二人を迎えた。
カウンターの中で、屈強なオーナーがルナの姿に気づき、ニカッと歯を見せて笑った。
「おう、ルナ! 随分と早えお帰りじゃねえか。ゆっくり休めたのか?」
「まあね。」
ルナは短く答えると、背後にいるニルスをオーナーに紹介した。
「オーナー、彼はニルス。ちょっと、わけありでね。私が留守の間、ここで預かってもらえないかしら。」
オーナーは、ルナの後ろでおずおずと頭を下げるニルスを、値踏みするようにじろりと見つめた。その眼光は鋭いが、敵意はない。
「ほう。お前さんが、男を連れてくるなんざ、槍でも降るんじゃねえか? シーアの奴が聞いたら、腰を抜かすかもしれんな。」
からかうような口調だったが、オーナーはすぐに真顔に戻った。
「まあ、お前さんがそこまで言うんなら、何か特別な事情があるんだろう。シーアからもお前のことは色々と頼まれてるしな。いいぜ、預かってやる。裏の部屋を使え。細かいことは聞かねえよ。それが、ここの流儀だ。」
その言葉に、ルナは心から安堵した。
このオーナーは、口は悪いが、誰よりも信頼できる男だった。
ルナはニルスに向き直った。
「ここで待ってて。必ず、戻ってくるから。」
「……ああ。気をつけて、ルナ。」
ニルスは、心配そうな顔で頷いた。
その手を、ルナは一度だけ、ぎゅっと強く握りしめた。名残惜しい気持ちを振り切るように、彼女は店を後にした。
ニルスを安全な場所に預け、ルナが向かったのは、繁華街の裏通りにある、古びたアパートの一室だった。
そこが、彼女と、もう一人の家族が暮らす「家」だ。
鍵を開けて中に入ると、部屋の奥から、一人の女性がひょっこりと顔を出した。
「ただいま、シーア。」
「おかえりルナ。仕事は終わらせてきたのかい?」
シーアは、期待に満ちた目で尋ねてきた。その無邪気な問いかけに、ルナの胸がちくりと痛んだ。
「……終わっていないわ。それどころか、もっと厄介なことになった。」
ルナは、椅子に深く腰掛けると、シーアに向かい合って、村であった出来事を、全て洗いざらい話した。
ニルスとの再会、蘇り始めた自分の過去、そして、彼が背負わされた罪。雑貨屋の主人の告白と、ギルドの刺客との死闘。そして、これから自分が何をしようとしているのか。
話が進むにつれて、シーアの顔から血の気が引いていく。
ルナが、かつて自分が愛した少年を殺すために村へ行き、そして、その少年こそが自分の命の恩人だったという、あまりにも皮肉で、切ない物語。
それを聞いているうちに、シーアの大きな瞳からは、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちていた。
「そんな……あんたが……。リグルが亡くなってからやっと少しずつ笑えるようになったのに、またそんな辛い目に……」
シーアは、声を詰まらせ、言葉を続けられなくなってしまった。
「だから、私は決めたの。」
ルナは、涙を浮かべる母を、静かな、しかし揺るぎない瞳で見つめた。
「この依頼を、本当の意味で終わらせるために、依頼主を調査する。そいつを、この手で始末する。」
その言葉を聞いた瞬間、シーアははっとしたように顔を上げた。
「ルナ! そんなことしたら……!」
シーアは、泣きながらルナを止めようとした。
「そんなことをしたら、ギルドを裏切ることになるんだよ! そしたら、あなたはもう、この街では生きていけなくなる! 私が、あなたに普通の幸せを知ってほしくて、オーナーにお願いして『虹の山海亭』でウェイトレスの仕事を紹介してもらったのも、全部無駄になっちゃう!」
シーアは、ルナにいつまでも暗殺者を続けてほしくなかった。
少しでも普通の社会に馴染めるように、昼間の仕事を用意し、彼女が陽の当たる場所に戻れるようにと、ずっと心を砕いてきたのだ。
「あなたの気持ちは、痛いほど分かるわ。でも、私はもう決めたの。」
ルナの声は、穏やかだった。
「ニルスがそばにいてくれるなら、私はどこへ行ったって生きていける。リグルが死んで、私の心は一度死んだ。あなたが、その心に少しずつ温もりをくれた。そして、ニルスが、その心に、初めて『愛』という光を灯してくれたの。陽の当たらない、血塗られた道しか歩めないと思っていた私に、初めて光を見せてくれた人なの。その人を失うくらいなら、私は、全てを敵に回したって構わない。」
その瞳に宿る、深く、そして絶対的な愛と決意。それは、かつてリグルの死で心を閉ざしたルナとは、まるで別人のようだった。
それを見て、シーアは、もはや娘を止めることはできないと悟った。彼女は、溢れる涙を手の甲で拭うと、しゃくり上げながら、しかし、力強く言った。
「……分かったよ。あんたがそこまで言うなら、もう止めない。私も、手伝う。」
「シーア……」
「あんたが自分の幸せのために戦うっていうなら、母親として、それを応援するのは当たり前だよ! リグルが生きていたら、きっと、あなたの幸せを一番に願ったはずだから!」
シーアは、にこっと、涙で濡れた顔で笑ってみせた。
「依頼主の情報なら、私に任せな。ギルドの資料室に潜り込むのは得意だからね。ニルスさんを狙う組織の名前と、今回の依頼主の正体、絶対に突き止めてくるよ。」
そう言うと、シーアは身軽な動きで立ち上がり、家を出ていった。その背中は、娘を想う強い意志に満ち溢れていた。
一人、部屋に残されたルナは、ふっと息を吐いた。久しぶりに戻ってきた、自分の家。
シーアが、自分のために用意してくれた、安らぎの場所。
彼女は、窓から差し込む月明かりを浴びながら、束の間の休息に、そっと身を委ねる。
リグルに育てられた、感情のない日々。
彼の死がもたらした、初めての喪失感。
そして、シーアが与えてくれた、人の温もり。
それら全てがあったからこそ、今、ニルスへの想いが、これほどまでに強く、そしてかけがえのないものだと感じられる。
守るべきものが、いつの間にか、こんなにも増えていた。
その事実が、彼女の心を温かくすると同時に、これからの戦いへの覚悟を、より一層強く、固いものにさせていたのだった。
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