第十七話「見てください、メイドさんですよ」
魔女さんと並び立ち、向かい合った屋敷は、かつて叡明を誇った壮観さを持っていました。しかし、群がっている緑の生物達は、その英華に蓋をしているようでもありました。
煌々と照らしている太陽が、これほど憎らしいものもありません。
その屋敷は、雑草の中にあって。
その屋敷は、ツタに覆われています。
「ここが、お爺さんの家です」
言葉少なく、さも慣れた口語に、狼さんは鼻をつく匂いがした気がして顔を顰めます。
決して、青臭いわけではないのです。
決して、普通とは違うわけではないのです。
決して、違和感がないわけではないのです。
ただ、生者がいるはずなのに死者のような匂いをしている気がするのです。
「さ、入りましょう。勝手たる入口ですから、堂々と踏み入ることができます」
「……あ、あぁ」
気後れしたのです。
狼さんは、今までの話から想像していた家では無いこと。本能的に感じるなにかしろに、怯えているのです。
ただ、それは彼が狼男だからに過ぎません。
「大丈夫ですよ。中は綺麗です」
狼さんを引っ張ってきたような魔女さん。
さながら、怖がる幼子をあやすような口調で、彼女は玄関の扉を開けます。
ガチャと金具の動く音。
年代を感じる開閉音が、まるで呼び鈴のように響くと中の景色が少しずつ狼さんの瞳に映ります。
綺麗な真っ赤な絨毯。
ちょうど今朝方には掃除をしたであろう絨毯の所々がめくれた形跡。
土足で入ってもいいのでしょう。
玄関を入ってすぐには、足ふき用のラグマットが置いてあります。
それも、少ない回数だけ使われたもの。多少のほつれがあるのみで、もうそろそろ買い換える頃合のものです。
色もオシャレすぎず、茶色に似たもので柄なんてありません。
そんな、外観とは裏腹の中身。
思わず、狼さんの感じていた死の匂いは、この中では感じないのです。
不思議なことです。
「……綺麗なんだな」
と、気が緩んでしまったからか狼さんの口から出たのは、大変失礼だと受け取られてもいいものです。
思わず、魔女さんの顔色を伺う狼さんでしたが、なんとも杞憂とやらです。
魔女さんは、むしろにんまりと自慢げに笑っているのです。
「そうでしょう? 頑張ったんですよ。といっても、大半は村人の皆さんが手伝ってくれたので、私のしたことは資材の運搬くらいでしたが……。綺麗だと言っていただけたのなら、私達の努力が報われるというものです」
「私達……」
そこで狼さんは気づきます。
村人、私達。この言葉が、魔女さんと村人の皆さんのことで、この家がどういった状況にあるのかということに。
いえ、今までどうだったのか、に。
「おや、魔女さん。おはようございます」
といったところで、玄関口から左の通路。
狼さんの鼻からすれば、甘い匂いのする道から、メイド服を着た妙齢の女性が顔をのぞかせます。
作業を先程までしていたのか、慌ててハンカチで手元を拭き取っています。
「おはようございます、メリッサさん。お薬のお届けと、挨拶にきました」
「おやおや、いつもありがとうございます。……そちらの狼さんは?」
狼さんへ瞳が動くと、狼さんの背筋が自然と伸びてしまいます。
それだけ、この方の見る目は狼さんへの、探りを含めているのです。
「あ、ブラブです。初めまして……。今日は荷物持ちで、魔女さんのお供させていただいてます」
「ふーん……」
狼さんの元へと、足音もなく近づいてきたメリッサさん。突如、狼さんの鼻腔に柔らかい匂いが漂います。
まるで、キラキラとした宝石のような香り。
気取っておらず、飾りすぎず、あくまでふんわりと香る程度のもの。
狼さんの微細で繊細な嗅覚をもってしても、その嗅ぎ分けしかできないのです。
あくまで、主役ではない。
あくまで、主人をたてるメイドの本分を貫いている。
だが、主人の名誉のため、着飾らないのもいけない。
そういった美しさをメリッサさんから感じるのです。
「あの……」
「いえ、すみません。なるほど、魔女さんの隣に立っていらっしゃるので、どんな方かと思いましたが」
「素敵な狼男でしょう?」
魔女さんはからかう乙女のように、自慢します。
はい、自満です。自己満足のほうでも、他者理解を得られるほど、誇らしいのが狼さんなのです。
「あの……」
「素敵かと言われると、我が主人以外にいないでしょうね。さ、薬は私が受け取っておきましょう」
ささっと、困った狼さんへ差し出される働き者の手。
それを見て、慌てて狼さんは荷物をゆっくり渡します。相手が手にした、掴んだのを確認してから、手を離す。
たったそれだけのことですが。
狼さんは、メリッサさんの手にはそれだけのことが必要なんだと、本能的に理解したのです。
「あの……かぶれ、ですか?」
「ん? あ、すみませんね。最近の雑草で手を荒れさせたもので」
メリッサさんは受け取った荷物片手に、寂しく笑います。失敗したと思っているのでしょうか。
それとも、情けないと思ったのでしょうか。
狼さんにその心情や心境は勝手知ったる領域でありません。ですが、見てしまったのです。
「魔女さんからの軟膏をちょうど切らしたもので。無いと困りますね」
「すみません、もう少し早く来る予定でしたけど」
「いえいえ。一応、この屋敷にも軟膏だとかの薬品はたくさんあります。それを私がもったいないからと、使わなかっただけですから」
そう思って、狼さんの鼻に意識が集中します。
確かに、澄んだ空気には辛うじてアルコールと苦い匂いが右の通路から漂ってきます。
きっと、あの先に薬品置き場でもあるのでしょう。
しかし、不思議なのはこの屋敷にたくさんある、ということです。
「ブラブ。ここは私のお爺さんでもある方の御屋敷です。あまり不躾に嗅ぎ回ることはないようにしてください」
「す、すみません……」
狼さんにピシャリと注意した魔女さん。
珍しいですね。思わず、狼さんも尻尾がへたれこみます。
今まで怒られることなんてなかったのです。むしろ、狼さんが魔女さんを怒ることの方が多かったのです。
逆転した立場に明確に落ち込んだ狼さんを見かねて、メリッサさんはフォローを入れてくれます。
「魔女さん。ここには薬以外の物もあります。それこそ、危険な物だってありますから、ブラブさんはそれをいち早く注意を払ってくれたのではないのでしょうか?」
ちらっと、狼さんへ移る目線。メリッサさんの悪戯っ子のような優しい瞳に、狼さんもこればかりは厚意に甘えようという気にもなります。
「本当ですか? ブラブ」
「……危険かどうかはともかく、気になる匂いがしたのは確かだ」
嘘偽りもない。
偽り嘘もない。
狼さんの鼻は鋭敏でもあり、鈍感でもあります。
特に、危険かどうかはともかく、なんとなく嫌な匂いは嗅ぎ分けられる自信はあります。
それで助かった場面もあります。
「……そうですか。頭ごなしに叱って申し訳ありません。気にしてくれたのですね」
「いや、実際失礼なことだし。今後は気をつけるよ」
そうやって、お互いの頭が下げられたことで、顔を見つめ合うことで、双方の想いを確認することができるわけです。
だから、少し嬉しくなって二人共ニヤけてしまうのでしょう。
しかし、本題はこれからです。
いえ、本題というのなら魔女さんと狼さんが出会ってからなのかもしれませんし。魔女さんが魔女さんであることがきっかけかもしれません。
そのどこかにあるだろう始まりは、常に終わりへと向かっているのです。
「では、御二方。ご主人様のところへ案内させていただきますよ」
ロングスカートをなびかせ、先陣をきっていくメリッサさん。
緊張感で染まった正面階段を登り、右手の通路を進みます。奥に行けば行くほど、感じる気配が異なったものだと狼さんの肌身に近づけられます。
人はいる。
でも、それ以外もある。
何かは分からない。
でも、嫌な気配もある。
本能的に嫌う違和感がある。
だからでしょう。
ご主人様――魔女さんのお爺さん、親身にさせてもらっていたご老人の部屋を前にして、狼さんの鼻は今まで見たこともない皺が寄せられていたのです。