砕け散った初恋
「『ちょうどいい』からだよ。共同経営で事業を興そうとした時に婚約者のいない同い年の男女の子供がいた。爵位は少し離れているけれどまあ許容範囲内だし。家同士の繋がりを強めるのにちょうどいいからこの婚約は為ったんだ。それだけの理由だよ。向こうだってそれは承知のことだ」
たまたま聞いてしまった婚約者と彼の友人との会話。
咄嗟にしゃがんで植え込みの陰に隠れたから彼らは彼女に気づかなかったようだ。
好きだった。
家同士の絆を強めるための政略結婚の相手。
だが彼女に向けてくれるあの柔らかい優しい笑顔が好きだったのに。
わかってしまった。
今の彼らのやりとりでわかってしまった。
彼は彼女に何の感情も抱いていないことが。
ただの政略結婚の相手。それ以上でも以下でもない。
淡々と語る声でわかってしまった。
そこに婚約者である彼女への愛情は一欠片もなかった。
もっと『ちょうどいい』相手が見つかれば、あっさりと何の未練もなく彼は彼女を捨てるのだろう。
彼女は蹲った。
彼らは彼女に気づくことなく遠ざかっていく。
その声も足音も聞こえなくなって彼女は座り込んだ。
馬鹿みたいだ。
ただの政略結婚の相手を好きになるなんて。
――両親みたいに仲のいい夫婦になりたいと願うなんて。
そのための努力さえも。
相手は侯爵家、彼女の家は子爵家だ。向こうの一存で簡単に婚約破棄出来てしまう。
ああ、苦しい。
打ち砕かれた恋心がつらい、悲しいと叫んでいる。
痛い。
胸が痛い。
このまま朽ち果てられたらどんなに楽だろうか。
立てない。
もう立ち上がれない。
でもいつまでもここにはいられない。
立ち上がらないと。
ああ、だけど動けない。
叫び出したい。
声を上げて泣いてしまいたい。
だが涙の一滴もこぼれず、ただ蹲っているだけ。
ああ、ああ……
さくさくと草を踏む音が聞こえた。
彼女は顔を上げない。
こんな姿など誰にも見せたくない。
気づかないで。
そのまま通り過ぎて。
彼女の願い虚しく、足音は彼女の目の前で止まった。
彼女の視界によく磨かれた革靴が映り込む。
「助けてあげましょうか?」
顔なんて上げるつもりはなかった。
そんなことより早く立ち去ってもらいたかった。
だが何故だろう、顔を上げて彼を見上げてしまった。
艶やかな黒髪に光を孕んだ漆黒の瞳の、彼女よりいくつか歳上の青年が彼女を見ていた。
*
それから二年ほどの間に目まぐるしく状況は変わった。
婚約者には熱を上げる女性が、侯爵家にはもっといい事業パートナーが現れ、あっさりと彼女と彼の婚約は解消された。
そして今、彼女の家は青年の家との共同事業で、前より豊かになった。
今の彼女の婚約者は目の前に座る青年だ。
本当に彼は言葉通り彼女を助け出してくれた。
前の婚約者の家である侯爵家に有利に結ばれていた契約は白紙になり、もっと誠実な青年の家である侯爵家と共同経営で新たに事業を興した。
能力や人望も元婚約者の家とは雲泥の差だった。
搾取するのではなく対等な立場での契約だった。
従業員への給料もケチることなくきちんとその能力に見合った額を支払っている。
婚約者になった青年も彼女に誠実で、彼女の心の傷が癒えるようにと彼女の好きそうな場所を一生懸命に考えて連れ出してくれる。
婚約者に婚約を解消されるなど彼女の瑕疵になりそうだったが、向こうの有責での婚約解消だと社交界に広がっており、傷は最小限だ。
すぐに彼の家との共同事業の契約がまとまり、婚約者のいない者同士としてあっさりと青年との婚約も決まった。
前々から共同事業の提携を申し込んでいたのだが元婚約者の家に義理立てして断られていたのが、此度のことでようやく色好い返事をもらえて嬉しい、と彼の父親の侯爵が社交界で喧伝しまくってくれたお陰で、すぐに話がまとまっても陰口を叩く相手は少なかった。
全ては目の前の青年が糸を引いているのだろう。
彼には感謝している。
本当に感謝はしているのだ。
だけど、好きにはならない。
もう二度と政略結婚の相手を好きにはならないと決めている。
たとえ、彼のその光を孕んだ漆黒の瞳に溢れんばかりの愛情を感じていても。
(いやぁ、でも陥落するのも時間の問題かなぁとは思う)
読んでいただき、ありがとうございました。
誤字報告をありがとうございました。訂正しました。