下編
「佳奈、これどう思う?」
「もーアンタ研究室でそれやるなって言ったでしょ?」
「いや、でも面白いじゃん。」
佳奈と話しているのは、櫻井梅という佳奈と同い年の後輩だ。後輩より同い年の方が意識が強い櫻井は、初対面の時から佳奈にはタメ口を使っていた。
「だからそれ周りの研究用品も浮くんだからやめなって、ほら、降りな。」
彼女は他の教科は知らないが、理数の頭脳は頗る高く、今彼女が操縦しているのも、彼女が一人で開発した発明品である。丁度ティッシュケースを二つ平らに並べた程のサイズの機械で、ボタンを押せば重力が反転する様になっている。本人曰く、地球に備わる重力を上手く遠心力に変換し、一定の範囲の物体にかかる重力を空へ向けるんだというが、彼女が書く公式を見ても、いまいち理解が追いつかなかった。しかし出来ているものは認めざるを得ない、実際彼女はコウモリのように逆さになっているし、周りに置いてある資料や筆記用具も同じように天井に吸い付いている。初めて見せられた時は研究員の誰もが彼女を称賛し、尊敬し、憧れを持った。しかし彼女の悪いところは気の短さであり、皆から何度も説明を求められると同時に「分からないからもっと分かりやすく」と言った要求にも応じなければならず、まだ完成段階ではないのに世に広められるかもしれないという恐怖から、研究の内容に関する取材を度等に断っていった事を覚えている。彼女が目指す完成段階というのは、この重力を、自由に操れるようになる事だ。今はまだ上下が反転するといった極端な選択しかできないが、これを上手く仲裁し合い自由に操ることが可能になり、更に応用を加えれば、大変面白い発明品となるだろう。
しかしその計画は中断を余儀無くされた。それは、高橋夫妻によるものだった。高橋夫妻は、櫻井の計画書をコピーし、何とか理解しようと分析本を作成していた。彼らと櫻井は、同じ研究室を使用するも研究グループは別。つまり高橋夫妻のグループに当たる研究員の中には、櫻井の研究を具体的に知らない人だっている。さっきも言ったが、櫻井は取材の多くを断り、世に出す事を一切禁止している。高橋夫妻は偶然櫻井が忘れていった研究書類を見つけただけで、他の研究員が知っているとは限らないのだ。となると、この後に起こる厄介事は想像が付くだろう。そう、高橋夫妻の分析本と櫻井の計画書を見た他の研究員が、高橋夫妻の研究本だと解釈してしまったのだ。運も悪く、高橋夫妻のグループは新聞記者との関係が深く、拡散技術に長けている。そのまま世に広めてしまったのは彼らにとっては自然現象の様なものなのだ。勿論、高橋夫妻は櫻井が目指す完成形を知らない。世に出す事を拒絶する櫻井姿なんぞ想像外であり、何故早く発表しないのかと不思議にさえ思っていたらしい。
そういった理由で、高橋夫妻に計画を散々に扱われた櫻井は、自身の研究を諦め、怒りに任せてあの天災に見掛けた人災を企てたそうだ。あの日、高橋夫妻と笑って話す櫻井を、珍しげに見ていた。彼女は、彼らを大学の中庭に誘い、彼らの頭上に何の障害物も無くなった事を確認した後、何処かに仕込んであった起動装置を押したのであろう。当時は何も知らなかった佳奈は、目の前で重力の反転と同時に空へ落ちていく高橋夫妻と裏で笑っていただろう櫻井後ろ姿を目撃する事になった。櫻井が去った後、奇跡的に残っていた高橋夫妻のうち妻の方のスマホを、佳奈が回収したのだという。
「貴方のお母さんのスマホに、そういった記録が保存されてあった。勿論一つ一つの情報を繋げて読み取っただけだから、全てこの通りとは限らないけれど、大体こんな感じ。」
双葉は黙っていた。かといって何か考え事をしている訳でも無く、何の感想も持ち合わせてなかった。恨むべき相手は誰なのか。きっと、素直な心の持ち主なら櫻井だと答えているかもしれない。しかし、大きく分類したとして同じ作り手の双葉からすれば、両親の罪の方が何十倍もの重みを抱えている事を知っている。認めたくないが、脳に否定される感覚は、どうも気分を悪くする。
「これ、君が持っときたいっていうなら渡すけど、出来れば私に譲って欲しい。一応お世話になった仲だから。」
「…下さい。」
「…。」
お姉さんはスマホを渡してくれた。するとそのスマホを受け取り次第廊下の方に駆け寄ると、勢いよく窓を開けスマホを投げた。お姉さんは、高橋夫妻が落ちていったあの光景がフラッシュバックされたのか、顔を床に向けていた。
「研究所に、案内してもらっても良いですか。」
「何しに行くの?」
「櫻井さんに直接会いたいんです。」
「…分かった。」
それから二人は研究所へ向かった。
研究所には、誰一人として気配を感じなかった。構造や雰囲気は違えど同じ大学のはずが、避難所ではなく廃墟と化している。
「最初は避難所になる予定だったんだけどね、ここだけの話、双葉君の両親がこの人災を起こした犯人だって事になっているから、巻き込まれたくないと言って全員出ていってっしまったの。まぁ真犯人は梅ちゃんだから、勘違いしなくても逃げていたと思うけど。」
「誰が真犯人だって?」
自分たち以外の声がして、慌てて振り返る。そこには一人の女性が、本来の重力の向きに立っていた。つまりこの人こそが、櫻井梅だ。思ったより子供っぽい体格で、髪にメッシュが入っている様な一見研究家らしくない見た目だ。
「あの子、誰。」
「高橋双葉です。」
「高橋さんらの息子さん。」
「あ、そう。何しにきたの。」
櫻井の口調は穏やかで、怒っているのか平常なのかそれとも喜んでいるのか全く分からない。
「謝らせてください。母さんたちの事。」
「…その子に話したんだ。」
櫻井は佳奈を見つめる。声色から、少しだけ悲しそうな感情が読み取れた。
「私は君の事には興味無いんだよね、謝るなら本人の口から聞きたい。まぁ、落ちてったけど。」
「そんな事言わずに…」
「私が言ったよね、“あの子”って。君の事じゃないよ。」
つまりそれはもう一人、この施設に人がいる事を示す。
「…佳奈達の連れじゃないんだ。誰だったんだろう。」
「そんな事より、今の状況を考えて。まだ間に合うかもしれない。」
「…何の事。」
「元に戻そう。いずれ特定される。一ヶ月もなれば、ネットも動き出してる。」
お姉さんも伝えたい事を用意していたらしい。さっき見た記事はそういう心配か。当事者にしか分からない不満を、お姉さんは櫻井にぶちまけた。
「…今更遅いよ、もう壊しちゃったし。研究、嫌いになったんだよね。いっそ見ない方がましかなぁーって思ってさ。だからもう手遅れだよ。そもそも、今戻したところで死んだ人らが帰ってくるとでも思っている訳?馬鹿じゃないの、折角交通整備もこの世界に順応してきてるのに、もう一回混乱を招く事になるだけだよ。」
櫻井は素っ気なく返した。
「そうだとしても…。」
佳奈さんは口論においては双葉よりも弱いかもしれない。そう思ったのも束の間、少し浮遊感を覚えたのは気のせいだろうか。此処に来てからものの五分で当の目的を拒否され任務を失った双葉は、この空間から抜け出すスキを見ていた。僅か三分程で抜けだせたものの、角を曲がる瞬間に櫻井と目があった気がしてならなかった。
兎に角抜け出せたのには変わりはない。双葉は急いで施設内を周った。するとまたあの浮遊感を感じた。今度は間違いなくはっきりと。それに反応したのか、双葉以外の足音が鳴り始める。その足音を頼りに双葉もお姉さん達と合流し、同時に目的地へと辿り着いた。そこは両親が使っていたであろう研究室がだった。何故分かったかというと、手前の机にメンバー表があったからだ。
「さっきの何なの?まだ何か企んで…。」
「うるさい。」
櫻井はズカズカと中へ入って行く。続けて二人もついて行ったが、止められる事はなかった。
中は、一ヶ月間放置していたからか所々にホコリが溜まり、四箇所程蜘蛛の巣が見られた。少しアレルギー体質の双葉は咳が止まらなかったが、櫻井はお構いなしに進んでいく。着いて行く途中、双葉はあるメッセージに気が付いた。研究室の一角の机に置いてある計算式が羅列して書かれた紙が、やけに綺麗な状態で置いてある。その数式を見るなり、双葉は違和感を感じた。数式じゃない。これは、昔ある一定のグループにだけ通じるよう紺が発案した暗号だ。あやふやな記憶を辿り少しずつ訳していく。実は、この暗号というのは五文字を使って一文字表す、といった何ともしょうもない暗号の為、一見長々と文字続くようだが、たった一五文しかない。
ー双葉君へ。
あの時の事を覚えてますか。確か双葉君が幼稚園だった頃、皆で海に行ったでしょ?あの時、私見てたんです。貴方のお母さんとお父さんが、涼太を沈めてる所を。私はこの二十年間、ずっと言おうかどうか迷っていました。これが、私が出した答えです。貴方は、海へ行ってください。そして涼太を助けてあげてください。
機械は壊してはいません。涼太を助けたら、何時でも元に戻して構いません。貴方に任せます。
先に感謝を述べておきます。貴方が涼太を見つけてくれる事を信じて。有難う。
ー櫻井梅
それをぶつぶつと呟きながら双葉は読んでいく。お姉さんは、櫻井に着いていくのかと思っていたが、双葉を心配して隣で待ってくれている。しかしこの手紙を読見終わった双葉からすれば、一刻も早く櫻井を追ってほしかった。
「お姉さん、櫻井さんを追って!」
「何かわかったの?」
「良いから!早く!」
双葉はお姉さんを連れ走った。向かう先は、中庭だ。
「櫻井さん!!」
櫻井の後ろ姿を見つける。やっぱり、櫻井の目的地も、中庭だ。櫻井は何も言わない。こちらにも向かない。彼女が今何を考えているのか、双葉には何となく分かる。分かるのだけれど、何と声をかけて良いのだろうか。
涼太というのは双葉の実の兄であり、双葉が幼稚園の時に亡くなっている。あまり記憶が鮮明ではないが、兄が溺れているのを助けようと、自分も海へ潜って溺れかけ、その時も紺が誰よりも早く駆け寄り助けてくれたのだけは覚えている。後に覚えているのは、折角の旅行が葬式に変わったというなんとも純粋な感想だけだ。メンバーは、叔父さんが集めたはずだから、双葉が知るはずもない。文脈からしたら、櫻井はきっとあの場にいたのだろう。そしてこれも今だからこそ分かる双葉の予想だが、櫻井は兄の事が好きなのだろう。それなら、母さんと父さんを恨む理由も分かる。両親を殺された身からすれば少し同情し得ない立場ではあるが、たとえ生きていたとしても、これまでの話を聞く限り、しっかり親子の関係を保ちながら生涯支え合うのは難しいだろう。良かったとも言えないし、悪かったとも言えない。
そんな複雑な感情を、どう助言すれば前向きになるのか。きっとならないだろう。隣のお姉さんに関しては、状況すら掴めていないのにも関わらず、空気を読んで深刻な顔をしてくれている。
「双葉君ら、悪いけど席、外してもらえるかな。」
この状況で外すわけがない。でも、それを口にする事が出来ず、微妙な沈黙が流れる。その沈黙を破ったのは、その場にいた誰もが想像もつかないかった人物だった。
「涼太君に、直接会わなくて良いんですか。」
櫻井がやっと振り返り、その人物を見る。
「実はこの前姉ちゃんに会いに行こうと思って此処に来たんだよ。それで、あの手紙を見た。それから近くの港に行って、確認してきたんだよ。港では、漁業ができない代わりに下に沈んでくる遺骨の鑑定でいっぱいだった。その中にあったんだよ。“高橋涼太”の名前が。」
その人物とは、紺だった。櫻井は紺の手元にある骨壷を見るなり、泣き崩れてしまう。紺が側へ寄り、骨壷を櫻井に持たせると、そのまま櫻井の背をさすってあげる。何も言えないのは紺も同じだったが、寄り添うという形での対応は、充分に櫻井を温めた。
紺の登場により事が治った後に、櫻井はこの世界を戻す事を彼らに伝えた。そしてまたあの部屋へ戻ってきた訳だが、今一つ、まだ説明の付かない出来事がある事を思い出す。そう、度々感じた、あの浮遊感についてだ。
「あのさ、もう一つ言わなきゃなんない事があるんだけど…この機械、動かないよ?」
紺の言葉に、他三人が口を開ける。
「計画書は?」
とお姉さんが言ったが、申し訳ない、アレはただの暗号文だ。
「あ、ごめん。無いわ。」
「へ?」
「アレ、適当に書いた計画書で、しかもあの機械も、適当に作ったやつだし。」
櫻井は明らかに動揺していた。それもそのはず、彼女の予定ではついさっき死ぬはずだった為、計画書がどうだとか気にする必要はなかったが、生きているとなると、戻さずには不便すぎる世の中である。ついでだが、メッセージに書いてあった『戻しても構わない』という言葉は、凄く良い加減に書いたのだなということに双葉は気付いた。計画書も無く、開発者も作り方を覚えていなければ、どうやって戻せというんだ。僕らは、仕方なくこの世界に慣れる他なかった。