第五話 ソフィリア、暴走
目の前に広げられた料理を前にしても、失われた僕の食欲が復活することはないみたいだ。
無論、お腹が減っていない訳ではない。むしろ空腹な方だ。それにテーブルに乗った品々は、バターの風味が香る魚のソテーや芸術品みたいに盛り合わされたサラダなど、まともに就職していない僕が食べたらそれだけで罪になりそうなぐらい豪華だ。これらは特に上等な素材を使っている訳ではなく、全てソフィリアの腕によるものだ。
そんなおいしいごはんを作ってくれる彼女にはいつも感謝の念が尽きないんだけど、今回ばかりはそんな余裕なんてなかった。
こちらの身を抉るような眼差しは、時間をおいて落ち着くどころかさらに威力がアップしているし、心なしか紫色の髪がちょっと逆立っているように見えた。その手元には居心地悪そうにセレナさんの名刺が置かれている。
「……」
「……」
沈黙がもたらす無音地獄。ひっきりなしに眩暈がして、このまま意識が飛びそうだった。けれどこれから始まる尋問のことを考えるとこっちの方がまだマシな気がして、この時間がずっと続いてほしいと願っている自分もいた。
怖い。ただそれだけだった。
スープを少しだけ飲む。途端にコーンのなめらかな風味が広がり、僕に温もりと癒しをもたらす。舌触りも極上の一言に尽きた。
だけどそれで何も解決はしない。残念ながら、おいしい料理も怒れる彼女の前では無力なのだ。
やがてこの空間の重さに耐えられなくなり、高い崖から飛び降りる思いで口を開く。
「あ、あのさソフィリア。これは違うんだ」
「なにがです?」
「僕はナンパなんてしてないよ?」
「分かっています。あなたは浮気なんてするようなクズではありませんからね」
いや浮気ってなんだよ……僕はいつからきみの恋人になったんだ……。そんな言葉をぐっと飲み込む。
しかし――と彼女は続けた。
「逆の場合がございます」
「逆の場合?」
オウム返しする僕に、ソフィリアはゆっくり頷く。
「近頃は逆ナンと呼ばれる、女性が男性を誘うケースがあるらしいのです。きっとこのセレナとかいう女も下心でギルハイド様に寄ってきたのでしょう。ああ忌々しい!」
憎たらしげにセレナさんの名刺を睨みつけるソフィリア。
とりあえずまだ彼女は色々と誤解しているみたいだ。今日会ったばかりだから確証は無いけど、多分セレナさんはナンパなんてする人じゃないと思う。第一、僕なんかそんなに魅力的には見えないだろうし、好んで声をかけてくる女性なんていない筈。うう……自分で言っておきながら悲しくなってきたなあ……。
「ですが何も心配することはございませんよ。この私があなたを全身全霊でお守り致します。ギルハイド様に群がる意地汚いハイエナ共は一匹残らず駆除して差し上げますわ!」
ソフィリアが勢いよく立った拍子に、ガシャンとテーブルの上の皿が悲鳴を上げる。
まずい、完全に熱くなってしまっている。それと反比例して僕の体は内側から温度を失っていく。これがいわゆる肝が冷えるというやつなのか。
本当はすぐにでも走って逃げたいところだけど、ここで彼女を放っておいたら必ず大惨事になる。それは何としてでも避けたかった。
僕は重すぎる腰を上げて、外へ出ようとするソフィリアを引き留めた。
「あ、あのさ、とりあえず一旦落ち着こう、ね? セレナさんはチンピラに絡まれていて、それを僕が助けただけなんだ」
「まあ! そんな性悪女さえも心配しなさるとは、相変わらず情が深いのですね。そういうところも素敵……!」
うっとりとした表情をするソフィリア。しかし、その顔は完全に病んでいる時のやつだった。
「確かに、そのセレナとかいう女に見る目があったことは認めます。何せギルハイド様は眉目秀麗で頭脳明晰、そのうえ性格も良くて魔法の腕も優秀! これ程完璧な人間が貴方以外に存在しません!」
「いやいや、僕そんな素晴らしい人間じゃないんだけど……」
そのような反論も、もはや伝わってはいまい。彼女はすっかり自分の世界に入ってしまっているから。
怒りによって揺らめく瞳で、ソフィリアは窓の外を睨みつける。
「首を洗って待っていなさい、セレナ・ドレイク! 私のギルハイド様に手を出したこと、後悔させてあげるわ!」
「ちょ、ちょっと待ってよ……」
というか、ソフィリアはどうやってセレナさんを探すつもりなんだろう。会ったことはおろか、顔さえ一度も見てないのに。現在掴んでいる情報といえば、あの人が新聞記者であることぐらいだ。
はっ! もしかして、若い女性の記者を手当たり次第襲うつもりか!? だとしたら相当まずいぞ! 絶対止めなきゃ!
「駄目だよソフィリア!!」
「えっ!? きゃああああああ!」
僕が急に腕を引っ張ったせいで、窓辺に身を乗り出していたソフィリアはバランスを崩してしまった。
そして彼女が倒れ掛かる先は、それ程逞しくもない僕の体。
「うわあっ!」
ソフィリアを受け止めきれなかった僕は、派手な音を立ててひっくり返ってしまった。俗に言うドミノ倒しってやつだ。
「いてて……。ごめんね、大丈……」
夫? の文字は出てこなかった。
横になっている僕の上に、ソフィリアが跨っていたからだ。きっと転んだ拍子に乗っちゃったんだろう。
それだけならいい。問題は彼女が妖艶な笑みを浮かべていることだ。
普段は新雪のように白い頬が、上気しているのかうっすらと桃色に染まっている。それに、なんだか吐息も荒い。
「まあ……随分と無防備ですわね、ギルハイド様。そのような姿を晒されてしまったら、私もう我慢できませんわ……!」
一筋の冷や汗が、僕のこめかみ辺りから流れ落ちる。これは本当に大変だ……!
さっきとはまた違った意味で興奮している彼女の赤い眼には、ハートマークでも浮かんできそうだった。急いで立ち上がろうとしたけど、ソフィリアの細く長い美脚が僕の腰回りをがっちりホールドして離さない。
もはや僕はヘビに睨まれた蛙、いや睨まれたどころじゃない。もう半分ばっくりいかれているんじゃないだろうか。
「ソ、ソソソフィリアやめて、まずいよこんなこと!」
「大丈夫ですよ。あなたは初めてでしょうから、今回は私に身を委ねていてください。もしデキてしまっても、ちゃんと責任取ってあげますよ」
「それ普通男が言う台詞じゃないの……?」
ていうかそういうことじゃないんだってば……と呻いても、彼女は聞く耳を持たない。
ソフィリアは焦らすようにゆっくりと、自身の胸元にあるホックを外す。すると、圧倒的な色香を放つ深い谷間が露わになった。いつもは布地の奥で守られ隠されている禁断の果実は、ハリ、大きさ、形と全て申し分ない。
余りにも扇情的な姿を直視できなくなった僕は、堪らず目を逸らす。
脳裏に蘇った、故郷に残してきた家族の姿だった。お父さん、お母さん、姉さん。皆元気かな。僕が女の子に襲われかけているなんて、きっと夢にも思ってないだろう。
これまでの人生、色々あった。楽しかったことも、辛かったことも、今思えば全部輝かしい思い出だ。結局、最後まで魔導士にはなれなかったけど……。それだけが心残りだ。
「人間の女では絶対に味わえない快楽を教えて差し上げます……」
眼を閉じ、僕の唇を奪おうと顔を近づけてくる。
ああ……これまでだ。僕は深い闇へと堕落していく。さよなら……来世では、きっと就職できますように……。
「って、ちっがーうー!!」
すぽーんと、驚異の推進力でソフィリアの股下から抜け出す。
勢い余って壁に頭をぶつけてしまい、一瞬だけ意識が遠のいた。しかしすぐに立ち上がり、ふらふらとした足取りで部屋の出口に向かう。
「なんで、やめてって言ってるじゃないか……。そうやって人の話聞かない所が嫌なんだよ! もう本当に、最低だ……!」
「ぎ、ギルハイド様……」
熱が冷めていくかのようだった。僕の悲痛な声は、ソフィリアを正気に戻すのには充分だったみたいだ。でも、もう遅い。
すっかり心が折れた僕は、一目散に退室したのだった。後ろでソフィリアがどんな顔をしているかなんて、見ようともせずに。