第四話 修羅場の始まり
僕が買い物袋の中をいっぱいにして帰宅した頃にはもう夜のとばりが落ちきっていた。
出発してからは随分と長い時間が経過してしまっている。
黒いビロードを広げたような空に散りばめられた無数の星々。街で眺めても十分綺麗だが、海上や山などの自然に囲まれた場所ではもっとたくさんの輝きが見られるんだとか。
って、今はそんなことどうでもいい。
現在僕は家のドアの前で立ち往生している。なぜと聞かれれば答えは簡単。どう言い訳すれば分からないからだ。
ソフィリアは僕に対して少し、いやかなり過保護な部分がある。こんなに暗くなってしまって、もはや彼女がどんなに気を揉んでいるか知れたものじゃない。
もしかしたら外出禁止とか言われちゃうかも……。それだけならまだマシな方だけど、もっと恐ろしい事態になる可能性だってある。
腹を決めたつもりでドアノブを握っても、やはり逡巡の念が邪魔してすぐに手を離してしまう……という作業を延々と繰り返していた。自分の家にすら入れないとは、なんという情けない話だろうか。
そうしている間にもどんどん時は流れ、気まずさも倍増していく。もはや思考錯誤している余裕は残されていない。
意を決し、玄関へ突入する。
「お帰りなさいませ」
「どわっはあああああああ!?」
ドアを開けた瞬間、いきなり視界に現れたのは他でもないソフィリアだった。まさかとは思うけど、ずっとそこで待っていたのか。
心の準備がまだ完全ではなかったタイミングで不意打ちを食らったので、僕は毛虫が肩に落ちてきた時のような大声を上げてしまった。
今回ばかりはここら辺に人が住んでいなくてよかったと思う。普通の住宅街であんな風に叫んだりしたら、周りからの注目を独り占めしてしまうから。勿論悪い意味で。
おかしな声を出した僕に対し、ソフィリアはただきょとんとするだけだった。
したがって奇妙な温度差が生じてしまったので、それを打破するべく咳払いを一つ。
「ごほん、えーっと……ソフィリア? もしかして僕が戻ってきてたこと、ずっと気付いてた?」
「はい。気配を感じましたので。あ、荷物をお持ちしますね」
「なんという……」
別に得意げにもせずさっさと買い物袋を受け取るソフィリアを前にして、僕はもうびっくりを通り越してただただ圧倒されていた。愛の力、恐るべし。
ともあれ僕の帰りが遅れたことには何も触れてこないので、そんなに警戒しなくても大丈夫そうだ。勿論、怒っていないのは演技だという可能性も捨てきれはしないけど。僕が油断しきったタイミングで急に問い詰めてくるかもしれない。
疑心を拭えないでいると、おもむろにソフィリアが近寄ってきて僕の手をぎゅっと握った。彼女の胸中に渦巻く不安感が、こちらをまっすぐ見つめるアクアマリンの瞳から伝わってくる。
「本当に……心配でございましたのよ? 貴方がひどい目に遭っていたら、私……」
そこにいるのは、ただただ僕の身を案じてくれる優しい従者だった。
それに比べて僕は何をやってるんだ……となんだか急に自分が恥ずかしくなった。まったく、いちいち勘繰っていたらきりがないよね。
「うん、遅くなってごめん。こんなに気にかけてくれてありがとう」
「い、いえ。当然のことですわ」
ソフィリアは照れたように笑う。すごく可愛くて、暖かな笑顔だった。
ひとまず安心して僕が家に入ると、ソフィリアは一瞬の内に僕からジャケットを脱がせて玄関脇のコート掛けに戻した。慣れた手つきと言うやつなのか、こういう所とかはやっぱりプロのメイドなだけある。
なんて感心していると
「ギルハイド様……」
「え?」
あれ、なんか声のトーン落ちた……?
怪訝に思っていると、こちらに背を向けたままのソフィリアは肩越しに小さな長方形の紙切れを見せてきた。
――そこに書かかれている文字を読んだ瞬間、僕の頭に浮かんでいた疑問符が秒速で消し飛んだ。
〈ドラグニヤ・タイムス 記者 セレナ・ドレイク〉
だああああああああああああああああああああああああああ!?
本能的に身の危険を悟り、後方へ飛び退く。
痛恨ミスだ。セレナさんの名刺、上着のポケットに入れたままだった。というかよく気付いたな! 恐ろしい女!
「変ですねえ……こんな物が出てくるなんて。お掃除は入念に行ってきたつもりなのですが」
が、眼光が! 眼光が凄いって!
魂さえも刺し貫くようなそれは僕の背筋をカチコチに凍りつかせた。もしも彼女が視線で人を殺せたならば僕はとっくにご臨終しているだろう。
しかも相変わらず口元だけは微笑んでいるから余計怖いし。
「ち、違うんだソフィリア。これは……」
「私は夕食の準備をしなければなりませんので、その間にギルハイド様はシャワーでもお浴びになっていてください。お話は後程じっくり伺わせて頂きますね」
冷ややかにそう言うと、ソフィリアは踵を返して台所へと去っていく。
取りつく島もないっていう感じで、僕は呼び止めることもできずにただ茫然とするしかなかった。一級品の彫像みたいに美麗な背中からも今は殺気しか伝わってこない。
さてどうしたものか。
「……」
……。
よし、考えるのやめた。
あっちだって料理している間に落ち着くはずだ。怖がる必要はないよね、うん。
現実逃避にも似た結論を出した僕は、がくがく震えて歩きづらい足で風呂場へ向かった。
「ふぅ……、とりあえずこれでよしと」
原稿の下書きを終えたセレナは机から顔を上げ、体の凝りをほぐそうと腕をぐいーっと伸ばした。
淡い金色に輝く満月が好奇心旺盛な子供のように窓の外からこちらを覗き込んでおり、気付けば通常の帰宅時間を過ぎている。オフィス内の人影もまばらで、今残っているのはセレナと同じように遅くまで仕事を続けていた者が数人だけだ。
あれから会社に戻ったセレナは、取材したことを記事にまとめる作業をしていたのだ。
確認の為、もう一度自分の原稿を読み直す。内容は一週間ほど前から世間を騒がせていた強盗犯が捕まったことや、新型魔法具が発売されることについてなどだ。
どれもそれなりに人の興味を惹きそうなニュースではある。しかし彼女の顔には決して満足感などは伺えず、むしろ不服の念さえ覗いていた。
都市伝説の魔導士。それを見つけ出すことが彼女の目標だった。けれど、今の所その活動に進展は見られない。
はあー、と金属並の質量が含まれていそうなぐらい重々しい溜息を吐く。
するとセレナの同僚であるアイラが遂に見兼ねたように声をかけてきた。彼女もまた仕事が終わらなかったので残業していたのだ。
「あのねえ、セレナ。仕事熱心は良い事だけど、一つのことに固執しすぎるのは良くないことだよ」
「でも、これで五回目よ? 今まで五回、全部外れ。しかも今日なんかチンピラに絡まれたわ」
「セレナは可愛いもんねー」
「やめてよ。おだててもなにも出ないから」
だが、実際にセレナは割と男性から人気がある。
ギルドへ取材に行けば魔導士たちからナンパされることもしばしばだが、仕事中にちょっかいをかけられたくない彼女にとっては小さな悩みの種となっていた。
周りに相談しようにも、モテて困っているなんて友達に言えば即刻叩きのめされるだろうから絶対に無理だし。
「ねえねえところでさ、そのチンピラから助けてくれた男の人ってどうだったの? イケメンだった?」
そう問われて、セレナは青年の姿を記憶の中から呼び起こす。
年齢はまだ若そうだったから、二十歳くらい。少しぼさぼさした頭髪はあまり外見に拘っている様子は無く、やや使い古された感がある黒いロングジャケットに包まれた体は痩せ型だ。
「……まあ顔立ちそのものは中の上ってところだったけど。第一印象としてはナヨナヨして冴えない感じね。それにニートだったし」
「あ~セレナの嫌いな人種だねぇ」
「まあ、一応働こうっていう意思はあるみたいだけどね」
魔導士を志しているだけあって既に魔法は心得ているようだった。一瞬だけ彼が自分の探し求めている魔導士なのではとも睨んだ。しかし、青年の魔法は初心者が覚えるようなシンプルなもので、なんとなく迫力に欠ける面があった。
「ねえねえ、息抜きがてらその都市伝説の魔導士って何なのか教えてよ。もしかしたら知り合いかもしれないし」
「それは万に一つも有り得ないと思うけど。いいわ、教えてあげる」
曰く、その魔導士が歩いた後は悉く焦土と化す。
曰く、操る炎は如何なる手段を用いても消すことができない。
曰く、ドラゴンを焼肉にして食べている。
曰く、ある国の王がその魔導士に無礼を働いた時、一晩の内にその国は焼き払われた。
炎に関する逸話が多く、そのことから世間では「煉獄魔導士」と呼ばれている。
「いやー人間なんていっぱいいるし、一人ぐらいはそういうのもいるんじゃないの? それか見間違いでしょ」
真剣に語るセレナとは対照的に、向けられたコメントはあっさりとしていた。だが、これが普通の反応である。セレナも信じてもらえるとは最初から思っていなかった。
けれど、セレナにはその魔導士が存在するという確証があった。
以前、嵐の吹く寒い夜の事だった。確かに彼女はこの目に写したのだ。灼熱の炎を纏い、敵を打ち払う魔導士の姿を。
雨に濡れながらも勢いの落ちることの無かったあの炎を、今でも鮮明に憶えている。
(そう言えばハイド君も炎使いだったけど……まさかね)
諦めない。奴の正体を突き止めるその日まで。セレナの決意が曲がることは無かった。
「そういえばさー。私、この間おいしいレストラン見つけたんだ。この後食べに行かない? もちろんセレナの奢りで」
「せっかくシリアスな感じでまとめようとしたのに台無しね……」
そんなこと言われても、彼女の内面事情などアイラは知る由もない。今は夕食のことしか考えていないこの同僚は、尚もセレナに絡みつく。
「ねえねえ、お願いだよー。お腹すいたー。ぎゅーぎゅー」
「物理的に絡みつくのは無しでお願い……」
関節技のような締め付けを受け、早々にタップアウト。
「それじゃあ約束通り言うことを聞いてもらうね?」
「そんな約束いつしたのか時を遡ってでも確かめたいんだけど。まあ、いいわよ。丁度憂さ晴らししたい気分だし」
「やった! じゃあ今夜はセレナの奢りだ!」
「わ、割り勘で手を打つわ……」
そうと決まるとアイラの動きは迅速だった。そそくさと机の上に散らかっていた仕事道具を鞄にしまい、早く早くとせかしてくる。
まったく、この子の現金さには敵わない。セレナは苦笑いを浮かべるしかなかった。