第三十六話 春風の様に優しい人
目を見開いて硬直する僕の頬をかすめ、ハンマーは後ろへ飛んでいく。
僕が振り向いたのと、すぐ傍まで迫っていたファヴニールの頭にハンマーが命中したのはほぼ同時だった。
火傷によって大幅に脆くなってしまったその頭蓋は、本来の丈夫さが嘘のように粉々になってしまった。
消し炭同然となっても動き続けるその生命力にはつくづく舌を巻く思いだったが、脳味噌を散らされてしまえばもう終わるしかないだろう。
頭部には下顎のみを残し、ファヴニールはようやく永眠する。
遅れて僕の額から冷や汗が噴き出し、へなへなとその場に座り込んだ。
「びっっっくりしたあ……。殺されるかと思った」
「馬鹿ね。なんで私がそんなことしなきゃならないのよ」
「それは、そうでけど。一言欲しかったです……」
言葉が足りないのは、いつものことだけど。
それでも僕はもう分かっていた。ミラさんが、本当は優しい人だって。セレナさんが最初に言ったことは嘘じゃなかったんだ。
当の彼女は用心深くファヴニールの遺体を観察している。復活を警戒しているのだろうけど、もう爪の一本も微動だにしなかった。
「突然の発火だなんて……しかもあんな規模で。何者かの魔力干渉……?」
僕がやったとは露とも知らないようだ。まあ、教えても信じないだろうけど。
それにしても、やはり僕は甘い。こんな時でも加減してしまうなんて。ミラさんがいなければきっと食べられていた。
生き物を殺せないというこの気質は、もはや呪いの域に踏み込んでいる。それ自体は悪いとは思っていないけど、魔導士になる上でいつかは克服しなければならない。
この力で、多くの人の命を救う為には。
「ミラさん。とりあえず帰りましょう。事後処理はギルドのスタッフさんがしてくれるでしょうし」
「そ、そうね。魔法具の修理もしなきゃだし。あんたも自覚してないだけでどこか痛めてるかもしれないんだから、病院には行きなさいよ?」
「ははは。分かりました」
「何よ。にやにやして。ほらっ、街まで魔導二輪に乗せてあげるから、早く来なさい」
「はい。ありがとうございます」
つかつかと歩き出すミラさんに駆け足で追いつき、隣に並ぶ。
僕は、彼女に言わなきゃいけないことがある。これまでの事、そしてこれからの事で。緊張するけど、もう逃げない。
まずはこれまでの事。相手の気持ちも知らずにいたことを、謝らないと。
「ミラさ――」
「ハイド」
「……はい。なんでしょうか」
ほんと、かっこつかないなあ。まあ、仕方ないか。僕らしいと言えば僕らしい。
ミラさんは前を向いたまま、視線だけをこちらにやって、絞り出すようにぽつりと呟いた。
「ごめん」
「えっ?」
「だから、ごめんって! あんたのこと、色々こき使っちゃったし。それで……少しは……悪かったな……って。ま、今更何を言っても私の所に戻ってくるつもりは無いでしょうけど。これだけは伝えておかなきゃ気が済まなかったの」
気丈な様子だったが、その中に抱える寂しさを隠しきれていなかった。強がっているのに、全然強がれていなくて、そのいじらしさが最後の一押しとなった。
やっぱり放っておけない。この人の事。
「僕もごめんなさい。ミラさんの気持ちも知ろうとしないで、傷つけてしまって」
立ち止まって、頭を下げた。
ミラさんは驚きと困惑が混ざった表情を見せている。
「本当は優しくしたかったって、言っていましたよね? あの言葉が本当なら……」
「ちょ、ちょっと待って! どうしてあんたがそれ知ってるのよ!?」
「あっ……えっと……」
まずい、口が滑った……。
「すみません。実はあの夜、店にいたんです。僕。それで、その、ミラさんが話しているのをたまたま……」
「聞いたの!? 聞いたのね!? ああもうやだ!」
顔をトマトよりも真っ赤にしてその場に蹲るミラさん。こうなるのが予想できたから黙っていようとしていたんだけどなあ。
下手に声をかけたら噛みつかれそうだし、どうしたらいいだろう。
そうやっておろおろしていると、遠くの方に人影が見えた。
「ふははっ、ファヴニールよ! 一度逃げおおせようとそれは無駄に強い悪運に過ぎん! いざいざ、決着をつけようではないかっ!」
声と喋り方で分かった。あれはアスフォルだ。まったく、今更来たのか。
彼は僕らに気付いてはいない。僕は彼に恋敵と一方的に見なされているので、お世辞にも関係が良好とはいえない。絡まれる前にこの場を去りたいけど、ミラさんがこんな有様だしなあ。
けれど、懸念をよそにミラさんは意外とすぐ立ち上がった。そして、いつものクールな態度を取り戻してこう一言。
「そう。私だって酔っ払うことはあるわ。悪い?」
ひ、開き直った……。相変わらず切り替えが早い……。
そうこうしている内に、ミラさんは僕を置いて歩き出してしまった。
停車している魔導二輪に荷物を載せると、自身も運転席に跨り、彼女は僕に手招きする。
「ほら、歩いて帰りたくないなら急ぎなさい」
「わああっ! 待ってください!」
置き去りにされたら困る。僕は駆け足で追いつき、ミラさんの後ろに座った。
「しっかり掴まってなさいよ」
「は、はい!」
僕がミラさんの細い腰に手を回すと、彼女は少しくすぐったそうにしながら魔導二輪を発進
させる。
空を切る感触が心地良い。まるでそれは、鬱念から解放された僕達を祝ってくれているかのようだった。
後ろになびくミラさんの髪が、甘い香りと共に僕の顔を撫で回す。ちょっとドキドキするけど、それと同時になんだか安心した。
それから、忘れちゃいけない。これからの事をミラさんに話すんだ。
僕は彼女に喋り掛ける。それと同時に、暖かな春風が僕らを包み込んだ。




