第三十五話 飢餓の終焉
ファヴニールは方向転換した。もはやミラなど眼中にないようだった。
「まさか!」
その先にいるのは、倒れているフローレ。そしてギルハイド。
実は、ファヴニールは死んでいるものは探知できない。そこら中に転がっているクラーケンの遺骸に手を付けないのはその所為だ。
両者とも意識不明だが、まだ生きている。生きてはいるが、動かない。ファヴニールにとっては絶好な条件だった。
「行かせない!!」
ミラは後脚をハンマーで薙ぎ払うが、食事を前にしたファヴニールはどんな痛みも意に介さない。ただ、突き進むのみだ。
まずはフローレの方から頂こうと、あんぐり口を開ける。
それを間一髪で横から掻っ攫うミラ。短い間隔でのジェット噴射は破損のリスクが高いのだが、なりふり構ってはいられない。
「衛兵ホーク三号! ここへ!」
ミラが召喚魔法を使うと、魔法陣から衛兵ホークが姿を現した。
「この人を街まで連れて行って!」
「オウヨ! カシコマリダゼ!」
衛兵ホークは足で器用にフローレを掴むと、翼を広げた。跳びついて捕まえようとするファヴニールは電撃魔法で足止めし、その隙に飛び立たせた。
残るはギルハイドだ。ファヴニールは既に彼に向けて進撃している。
「お願い! もう一度、加速!」
ギルハイドを救出し、そのまま退却する。ミラはそう算段を立てていた。守りながらの戦いは明らかに不利だ。
「これなら、ギリギリ追い越せる……!」
ファヴニールの速度も中々だが、自分はそれよりも速い。
あと少し。あと少し近づいて、手を伸ばせば、彼を――。
「――えっ」
視界が反転した。
足には焼けるような高熱、それに伴う痛み。宙を滑るように走っていた彼女は、その身を地へと落した。
余った勢いで地面を転がり、ようやく止まる。
土にまみれた彼女は、打ち身に顔を歪めながら状況を確認する。
「故障……!? こんな時に限って!」
ミラの機動力を大幅に上げていた装備、フットブラスター。それも遂に重なる負荷によって力尽きてしまった。
「! ハイド!?」
ファヴニールはギルハイドのすぐ前まで迫っていた。奴がその大顎で彼を噛み砕くまで、あと数秒といったところだろう。
駆け出す。残る体力を全て費やす覚悟で。
それでも、加速手段を失った彼女では追いつくことは叶わない。
ミラは、未だ意識を戻さないギルハイドに大声で呼びかけた。
「ハイド!! いい加減起きなさいよ!? ほんっとイライラするわね! 起きろって言ってるでしょ!!」
今までに感じたことのない情動が、ミラの中で氾濫していた。自分の研究以外に情熱を示さなかった彼女が、彼の命が消えることに恐怖していた。
「聞いてるの!? あんた今食われそうになってるのよ!! ねえ、ハイド!! 起きて!!」
喉が裂けそうだった。舌の根元で血の味がする。それでも、叫ぶのを辞めない。
「ねえ……」
再会を望んでいた。まだ彼と話ができていない。頑張って謝りたい。だから――
「私、あんたに死んでほしくない!!」
僕は夢を見ていた。
自分の両腕で、平和を作る夢。溢れる笑顔を守る夢。
この世界の僕には勇気があった。守るべきものの為に戦う勇気が。
ここでなら、僕は理想の存在になれる。僕の力で、皆を救うことができる。ああ、なんて素晴らしい事なのだろう。
けれど僕は知っている。これは夢。現実じゃない。だからいつかは終わってしまう。
そしたら、またいつもの弱気な僕に逆戻りだ。
だからもう少しだけ、もう少しだけでいいからここにいたい。そうすれば、きっとこの夢をいい思い出として未練なく仕舞いこむことができる。
「駄目だよ。もう戻らなきゃ」
幼い男の子が、僕の袖を引っ張った。
僕は困った顔をして尋ねる。
「どうして?」
「ギルハイドの助けを待っている人がいる」
「僕を? はは、まさか」
とてもじゃないが、信じられない。僕の助けを求めている人など、思い浮かばなかった。
取柄は魔法しかなく、その魔法でも人の役には立てていない。そんな僕を誰が頼りにするというんだ?
――きて。起きて!
どこからともなく聞き覚えのある声が響いてくる。
そして、その呼びかけで思い出した。もう過ぎてしまったことだけど。頭は良いのに横暴で、まともに家事もできないあの人のこと。
僕は何人も立ち替わりしていった助手達の一人でしかないのかもしれない。それでも彼女の隣にいた頃は、僕は輝けていた。と、思う。
「ああ……」
そうだ。自責にむせぶ彼女を見たあの夜に、決めたじゃないか。その時は覚悟が足りず逃げてしまったけれど、ちゃんと顔を合わせて謝るって。
「行か、なきゃ……!」
夢で百人救うより、現実で、この手で! 一人でも助けたい!
幼い男の子が笑う。
「しっかり、僕!」
その子は、昔の自分だった。
ミラは何が起こったのか分からなかった。
いよいよギルハイドを食べようとしていたファヴニールが、炎上したのだ。
火はあっという間に身体全体へ燃え広がり、災害の獣は火だるまと化す。圧倒的な回復力をも凌駕するその火力の前に、成す術はなかった。
その光景にミラは、堕ちてきた罪人を全て焼き尽くすと言われる断罪の世界、煉獄を見た。
その残酷でありながらも荘厳である様に目を奪われ、全力で地面を蹴っていた足もいつの間にか止めてしまっていた。
しかし、すぐに我に返る。肝心のギルハイドは無事なのか。炎に巻き込まれたりしていないだろうか。
不安を抑えきれず、ミラは叫んだ。
「ハイドー!!」
返事は無かった。
非情な現実に、膝が折れそうだった。助けられなかった。最後に僅かな言葉も交わせずに、自分の前からいなくなってしまったのだ。彼は。
「み、ミラさ~ん」
打ちひしがれていると、誰かが自分の名を呼ぶのが聞こえた。
もはやただの炎塊となってしまったファヴニールの陰から、ギルハイドが顔を出す。しかも、なんと無傷で。
煙にむせながらギルハイドはこちらに近づいてくる。いつもと変わらない、気弱で、けれども温かくて優しい表情のまま。
ミラも、面倒な建前など忘れて彼に駆け寄った。
「無事なの!? 怪我はない!?」
「は、はい。ちょっとぶつけた所があるだけで、どこも、大丈夫です。熱も飲ませて貰った薬のおかげで引いたみたいですっ。ですから、あのっ、もうちょっと離れてください……」
「あっ……」
心配のあまり距離を詰め過ぎていたことに気が付く。
顔の表面に熱が帯びていくのを感じながら、ミラは急いで数歩後ろに下がった。
そして唐突にハンマーを構え直し、大きく振りかぶって投げつけた。
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