第三十四話 ファヴニール、襲来
災害が起こった。
大地を割り、大量の土砂を吹き上げながら地中より飛び出す巨影。それはミラの五倍程の体躯を誇るクラーケンを、瞬きの内に飲み込んだ。
脅威の海魔も、そいつの前では憐れな被捕食者に過ぎなかった。
そこにはいた。竜とも獣とも形容しがたい、黒い筋肉の塊が。
巨体を支える太い幹のような四本足には、大剣に見違える程の分厚い爪が無数に生えている。
鱗の無い身体には見ただけで嫌悪感を覚えさせるぬめりが広がっており、楕円形の頭部には目も鼻も耳も付いていない。あるのはただ、顔面を横断するように大きく裂けた口のみだった。
その口の中で、クラーケンが悲鳴を上げてもがいている。
彼、もしくは彼女は、今生最大の恐怖を感じているのだろう。海を支配し、多くを食らってきた自分に待っていた末路がこんな悲惨なものだとは、と。
しかしまだ、終わってはいない。飲み込まれ、その身を胃袋に収められてはいない。
生物の本能に従い、クラーケンは足掻いている。命ある限り、必死で生き延びようとする本能に。
足掻く。足掻く。足掻く足掻く足掻く。再び空を舞い、故郷の海へ帰る為に。
そして結局、最期まで気付かなかった。自分にチャンスなど与えられていないことには。
大きく裂けた口が、やがて無情にも閉じた。
肉の裂ける音、骨の砕ける音が、しばらくの間響いていた。
その生々しすぎる食事に、ミラは僅かな吐き気を催してしまっていた。
「あれが、ファヴニール……」
生きた災害とも呼ばれる、超一級危険モンスター。クラーケンが王都付近に流れ込んだ元凶。
ファヴニールは赤い血の付着した牙を覗かせながら、生暖かい息を吹き出す。その猛烈な悪臭に、ミラはえずいた。
奴は周囲の生命反応を探知する特殊な器官を持っているらしい。餌、すなわち自分以外の生き物を漏らさず食べ尽くす為に。
したがって、ミラの存在は既に気付かれているだろう。
「アスフォルは何やってるのよ。ばっちり元気になってるじゃない」
彼の話だと三日は動けない筈ではなかったのか。それとも、敵の新陳代謝が予想以上に活発だったのか。
考察はさておき、今はこの状況をどうするか、だ。
眼前に鎮座するファヴニールはまだまだ食い足りないとでも訴えるように黄緑色の涎を垂らしていた。
その涎が落ちた地点に生えていた植物がみるみる内に黒く変色し、溶けていく。情報によるとファヴニールの唾液には特殊な油分が含まれており、それが他の動植物にとっては有害であるとのこと。
何せ触れただけでアウトな猛毒だそうなので、注意は怠らないのが吉だろう。
まずは様子見のつもりで、三枚目のソリッドサンダーを投げつける。切れ味は生半可なものではない。それは先のクラーケン戦でも証明済みだ。
しかし雷電を纏う斬輪はファヴニールの頭に当たると、あっけなく回転を止め、一切の傷を負わせることなく地に落ちた。
「やっぱり、この程度じゃ駄目か……」
倒せれば儲けものとは思っていたが、そう簡単にはいかない。
「じゃあもっと殺傷能力の高い武器で叩くしかないわね。ていうかアスフォル早く来い」
ミラはミョルニル・イミテーションを構えると、足のジェットをフル稼働させ急接近する。
その速度には、流石のファヴニールも即座の反応は難しいようだった。
「はあああっ!!」
がら空きの背中に回り込み、出力を上げた戦鎚を叩きつけた。
肉の焦げる不快な臭いが漂う。僅かに体勢を崩したことから、今度は効いたらしい。
だが、敵はまだ戦闘不能には至っていない。長い前脚を振り上げ、蝶のごとく飛び回るミラをはたき落とそうと暴れている。
その一撃は近くに生えていた木をいとも容易く薙ぎ倒してしまう威力だった。
少々きつくなってきたので、ミラは一旦距離を取った。
確かに力は強い。だが、このまま攻撃と回避を繰り返せば、勝てない相手じゃない。最悪の場合、討伐できなくてもアスフォルが到着するまで持ち堪えられればいい。そう考えると、少しだけ気が楽になった。
ミラは再度ファヴニールに肉薄し、横腹に一撃を入れる。すると、低い呻き声が聞こえてきた。こんな異形の見た目をしているがこいつもやはり生物らしく、背中よりも腹の方が弱いようだった。
討伐の二文字が現実味を帯び始める。これなら追加報酬も夢ではないだろう。ミラは秘かにほくそ笑む。
ファヴニールがまた攻撃の姿勢を取り始めたので、ミラは上空へと退避する。
――だが、それは百戦錬磨の捕食者には見切られていた。
「えっ……?」
全身の筋肉を隆起させ、ファヴニールは跳躍した。その歪な顎門を開き、鈍重なイメージとはかけ離れた速度で迫りくる。
フットブラスターのジェット推進は連続して使えない。ミラは今慣性に従って下降している状態だった。
よって、自由に回避はできない。
「私を食べようだなんて……生意気なのよ!」
ファヴニールの毒々しい緑色をした口に、ミラは力任せにハンマーを押し込む。
何が起こったか判断される前に、素早く高圧の電流を見舞った。
途端に強い痙攣を起こし、ファヴニールは煙を吐き出しながら墜落していく。
ひとまず難を逃れ、ミラは着地した。
いくら筋肉の鎧が強固だったとしても、体の内部にダメージを加えられてしまえば無意味だ。ひょっとすると今の一撃で決着が着いたのではないか?
「……なんて期待してたけど、まだ耐えるみたいね。ほんと、しつこくてムカつくわ」
よろめきながら立ち上がるファヴニールを、ミラは心底憎らしげに睨んだ。
見ると、背中と腹に付けた傷はもう塞がっているではないか。そう、ファヴニールの最大の脅威はその規格外の治癒力になる。
損傷を受けた瞬間から修復が始まっており、長期戦で奴以上に厄介な相手はいないとされる。
だが、勿論その特性にも代償はある。急速に回復するという事は、それだけのエネルギーを急速に使うということだ。
「!? な、なに……?」
ミラは、雷が落ちるような轟きを聞いた。
勿論、本日は晴天だ。黒雲などどこを探しても見当たらない。
それは雷ではない。ファヴニールの腹の音。空腹を知らせる、警告音だ。
猛烈な食欲に襲われたかのように、だばだばと滝の様に涎を流す。
「お腹を、空かしているの……? あんな大きな獲物食べたばっかりでしょ……」
クラーケン一頭では不十分だった。否、ファヴニールというモンスターに、十分という概念は存在しない。
いくら食べて食べて食べ尽くしても、満たされない。永続たる飢餓。この世に生まれ落ちた瞬間からそれに囚われ続ける。それがファヴニールなのだ。
現在、ファヴニールは即急に栄養を摂取する必要があった。
高速で繰り返される新陳代謝。それはエネルギーが減っているからといって止まるものではない。食べ続けなければ、死ぬ。
あの電撃を使ってくる女は駄目だ。勿論後でちゃんと食べるつもりだが、今すぐにというのは厳しいだろう。
視覚の存在しない暗い世界で、ファヴニールは感覚を研ぎ澄ます。
周りの生命を捕食する為だけに与えられた、特殊な感覚。体温、鼓動、血流、それらを余すことなく捉えることが可能だった。
見つけた。若くて瑞々しい、男と女が一人ずつ。




