第三十二話 波乱の幕開け
動揺は途端に広がった。試験の為に勉強を積んできた者なら、誰もが知っているだろう。その危険性、獰猛さを。
クラーケンが王都近郊に出没しているという情報はフローレにも届いていた。それでも、このバクル丘陵は都市を挟んで海と正反対の場所にある為、目撃情報は無かったのだ。
なぜ、と疑問符を浮かべている暇は与えられていない。群れの内、こちらに気付いた一頭が水のレーザーを撃ってきた。
威嚇のつもりだったのだろう。誰一人として撃ち抜かれた者はいなかった。しかし、易々と大地を抉ったその威力が語っている。とても初心者が戦っていいような相手ではないと。
「皆、街まで全力で逃げて! ここは私が時間を稼ぐ!」
フローレが檄を飛ばすと、受験生達は悲鳴を上げて走り出した。
それを目敏く確認したクラーケンらは、まるで小魚でも追うように次々と向かってくる。
だが、先頭にいた一頭が、突如出現した巨大な拳で顔面を殴られた。
それによって、群れは警戒心を持ったのか一旦行動を停止する。
「あんた達の相手は、私よ! って、ちょっと声震えてるじゃない! カッコ悪すぎるわ!」
その怯えが含まれた声を聞く者はこの場にいない。いたとしても、それで彼女を誰も責めたりはしないだろう。なにせ他に仲間はおらず、この巨大モンスター共は全て一人で食い止めなければならないのだから。
「ええい! 私の更なる出世の礎にしてあげる! 『アクアハンズ』!」
精一杯の強がりで自分を鼓舞しながら、魔法を唱えた。
フローレの掌から飛沫を上げて生成された水は、左右一対の大きな手へと姿を変える。それは先程奴らの出鼻をくじいたものだった。
「まだまだ! 今日はサービスよ!」
さらにもう二対。計六つの手が作り出され、彼女の周りに集合する。
甲高い咆哮を上げて襲い来るクラーケン達にそれらをけしかけ、迎え撃った。
一頭につき一つの手でクラーケンらを止める。殴り、叩き、握り、柔軟に操作しながら敵陣を翻弄した。
クラーケンも反撃するが、いかんせん手は水でできているので破壊しても破壊してもすぐに合体し元通りになってしまう。
場はまさに乱戦と化していた。
「いける! いけるわ、私! 案外大したことないわね!」
次第に前のめりになっていくフローレ。だが――
クラーケンの内の一頭が、獲物に食らいつくかのようにアクアハンズに噛みつき、そのまま飲み込んでしまった。
それを手本とするかのように、他の個体も次々と水の手を口に押し込んでいく。
なるほど、その手があったか。アクアハンズは根本的にはただの水であり、飲んでしまっても支障はない。クラーケンは知能が高いらしいが、まさか見破られるとは。
「でも、おかわりはまだまだあるわ!」
再び手を生成しようとした瞬間、水のレーザーが飛んできた。
しかも、先程より速度が上がっている。間一髪で避けたが、当たれば大ダメージは免れないだろう。それに、フローレには一つ気がかりなことがあった。
「なんか、あいつら元気になってない……!?」
クラーケンらは皆、攻撃力だけではなく機敏さも明らかに増している。
その時、彼女の頭にある仮説が浮かんだ。
クラーケンは元々海に生息しているモンスターだ。一応、水空両用であるが、こんな内陸で活動することは過去に無かった筈だ。
これは憶測だが、奴らはいつもと違う生活環境で弱っていたのではないか? 餌は大量にいたコボルトで賄えただろうが、力の源である水にはほとんどありつけていなかっただろう。
そこで現れたのはフローレだ。彼女はある程度の量がある水をクラーケンらに与えた。
それは恐らく奴らにとって、砂漠の中のオアシスの様な救いだっただろう。つまり――
「私、敵をおもてなししちゃったってことお!?」
彼女の送った塩、もとい水によって体力を回復したクラーケンは、一気に攻勢に出た。
水のレーザーを惜しげもなく打ちまくり、凶器の雨を降らす。もはやフローレは回避だけで手一杯な状況へと一転してしまっていた。
そんな最中、キャンプに残る崩れたテントが目に入った。その内側に、誰かがいる。
もしやと思ったフローレは、急いでそこに駆け寄ってぐちゃぐちゃになったテントの布をむしり取った。
「やっぱりね! しっかり忘れられてる!」
そこには目を回したままの青年がいた。多数いた受験生は、誰一人として彼をおぶっていかなかったのだ。
気絶させた自分も自分だが、動けない者を見捨てて逃げるその精神は魔導士を志す立場としてどうなのか。そう失望を感じずにはいられなかった。
とはいえ悪態を吐いている暇はない。青年の体を揺さぶり、起こそうと試みるが意識を取り戻す気配はなかった。
こうなったら、自分が担いで街まで逃げるしかない。どちらにせよこの形勢ではほぼ勝ち目も無く、撤退せざるをえないだろう。
青年を背負い、どのように逃げるか思考を巡らせていると、急にフローレを中心にして円形の影が落ちた。
頭上に目をやると、彼女は息を飲んだ。
それはレーザーではなく、圧倒的な密度、体積を持つ水の塊。まるで砲弾だった。
「まずい……!」
避けきれない。魔導士としての実戦経験からそう判断できてしまった。
自分はいい。最悪の場合、食らうことになっても損傷を軽減する手段はある。しかし、この背中で眠り続けている青年は別だ。
フローレは迷わず青年を投げ飛ばすと、その身で水の砲弾を受けた。
僕は夢を見ていた。
それは素敵な夢だった。魔導士になった僕が、たくさんの人々を救う夢。たくさんの人々を幸せにする夢。
幼い男の子が、僕に笑顔で言う。
「ギルハイド、ありがとう!」
自分が助けた子供。具体的に何をしたかまでは分からないけど、達成感はあった。
有名になれなくてもいい。ささやかな感謝さえあればいい。僕は僕にできることで、世界の為になることがしたいだけ。その理想が、ここで叶っていた。
僕はもう少し、夢を見ていようと思った。
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