第三十話 落涙
ファヴニール。個体数が少なく、目撃例は多くはない。しかし、その性質は最凶の一言に尽きる。危険度評価は最大の5だ。
例えるならば、奴は意志を持った災害である。底無しの食欲を持ち、現れた地域の動植物を根こそぎ食い荒らし生態系を破壊するのだ。
そんな超ド級モンスターが、王都の近くに出没したという。
「だったらこんな所で呑気にお酒呷ってる場合じゃないでしょ。一刻も早く討伐しないと」
「問題ない。取り逃がしたとはいえ、深手は負わせたからな。奴の回復力を考慮しても三日は動けまい。それに、夜間の行動はリスクが高いしな」
「そ、そう……。ならいいわ」
よくもまあこんな余裕綽々としているものだ。ベテランの魔導士ですら挑めば命の保証は無い相手だというのに。
まあ、アスフォルならば仕方ないという謎の納得もあった。
ランク12のミラにも相応の力はあるし、ギルドの幹部という点ではアスフォルとも対等な立場だ。しかし、戦闘力においては絶対に及ばないと言い切れる。彼は、規格外なのだ。
「長く放置できんのは事実だ。明日にでも逃走したファヴニールを探し出し、息の根を止める」
アスフォルの眼差しは鋭かった。
「そりゃ頑張って頂戴。で、結局それが私に何の関係があるの? うちの魔法具でも貸して欲しいのかしら」
「いや、そうではない。お前に頼みたいのはもっと別の案件だ」
「……?」
話の先が見えず、ミラは首を傾げた。
「ファヴニールは元々ユスピ海の遠洋にいたらしい」
ユスピ海とは、王都の南に広がる海域の名だ。
「そこに生息していたクラーケンが複数頭、王都付近まで逃れてきた。ファヴニールはそいつらを追ってきたという訳だ。そして、次はクラーケンらが人を襲い始めた」
「迷惑な話ね……。勝手に駆け込んできた分際で」
「奴らも慣れない環境で必死なのだ。だがそれはそれとして、被害が出ている以上看過はできん。そこで、だ。お前にはクラーケン討伐のクエストを受けて貰いたい」
そういうことだったか……と、ミラはため息を吐いた。
確かに、クラーケンぐらいのレベルのモンスターが複数体出てくれば、自分のような幹部にも声がかかるのもおかしくはない。
「露骨に嫌そうな顔をするな。そもそも、お前は魔導士が本業だろう」
「他にはいないの? やってくれそうな人」
「残念ながら、めぼしい者達は皆他の依頼が入っていてな。だからお前に白羽の矢が立ったのではないか」
「あっそ……」
ミラは長い間戦場には立っていなかった。ギルド側にも研究職のことは認められているとはいえ、そろそろ魔導士としての面目の為に動くべきだろう。
「分かったわよ。そのクエスト、引き受けたわ」
「おお、そうかそうか! それでこそ我らジェネシス・ダイヤのクイーンだ!」
バシバシ加減なく肩を叩かれ、ミラはまたため息を吐いた。
ちなみにランク12の位には女性しか就けないという決まりがあり、クイーンという別名で呼ばれるのはそれが理由だ。
「よし! そうと決まれば今夜はしこたま飲んで英気を養おうではないか。店主、酒をもっと持ってくるがいい!」
「ちょ、ちょっと! 限度を考えなさいよ……」
実はそこまでミラは酒に強くはなかった。しかし完全に盛り上がってしまったアスフォルは聞く耳を持たなかった。
三本目の瓶が空になった頃だった。
「まったく! ソフィリアの冷たさと言ったら! 俺がどれだけ愛を囁こうと奴は見向きもせんのだぁ!」
「あんたねえ、その暑苦しさがいけないのよ! 男ならもっとスマートにいきなさい、スマートに」
お互い、完璧に出来上がっていた。
アスフォルは想い人が振り向いてくれないことを延々と話し続け、ミラもそれに対し的外れな指摘を憚ることなく飛ばしていた。
四本目のボトルが来るや否や速攻でグラスに注ぎ、二人揃ってぐいっと大きく一口。
ふっ、と一息つくと、アスフォルは思い出したようにミラに尋ねた。
「そういえば、お前が新しく雇ったという助手はどうだ? 役には立っているか?」
「はあ? 辞めたわよ! とっくにね!」
ミラは吐き捨てるように言う。ここだけの話、その助手が自分の恋敵だとアスフォルは知らない。
「軟弱な奴だったわ! ナヨナヨしててみっともないし……ことあるごとにすぐギャーギャー喚くし、もう! あんな奴、辞めてよかっ……」
その先を言おうとしたが、それを発する声が喉に突っかかる。
無意識によるものだろうか。心にもない悪態を外に出すまいと、押し留めている。
「よかっ……」
虚勢よりも、もっと他に口にしたい自分には言葉がある筈だった。
まるで一滴の水が波紋を呼ぶように、じわりとした湿っぽい何かが胸に広がっていく。
掛けていた筈の鍵は外れていた。後悔、遺憾、自責、寂寥。封じ込め、認めさせ、忘れようとしていたものが氾濫し出している。
気付いた頃にはもう、涙は止められない。
「仲良く……なりたかった………! 新しい人が来る度に、今度こそはって思ってた! ずっと! でもどう接したらいいか分からなかった!」
「ミラ……?」
「本当は優しくしてあげたかったの!」
嗚咽と共に吐露する。それは遅すぎた告白だった。
大粒の涙はもう、自分も含めて誰にも止められない。こんな公の場で号泣など、通常ならば絶対にしなかっただろう。だが、酔いがミラの箍を外したのだった。
「実験のことになると……止められなくて……。でも、謝れもしなくて……」
もはや言葉すら上手く纏まらなくなってしまっていた。
普通なら1、2週間で出ていくところを、ギルハイドは一月も働いた。だが、それは断じてミラからの仕打ちが平気だったからではなかった。彼は、耐えていたのだ。
それぐらい分かっていたつもりだった。それなのに、許容を越えるまでギルハイドを酷使してしまった。それはある意味で、彼に対する甘えだったのかもしれない。
どう声をかけたものかと戸惑うアスフォルの横で、ミラは大粒の涙を流し続けていた。
どうしよう。非常に困った。
もしも怖い上司に付き合っていられなくなり仕事を辞め、そのまた次の職場が飲食店だとして。頑張って働いていると、その怖い上司がお客としてやってきて、こちらの存在には気付かないまま自分の本心を涙ながらに語っていたら。世の中の人達は一体どうするだろう。
かなり限定的な局面ではあるけど、今僕はまさにそのような事態に陥っている。
「ごめんなさい……! ごめんなさい……! わあああん!!」
あのカウンター席で大人げなく泣いているのは間違いなくミラさんだった。
彼女が来店した時は度肝を抜かれ、更にその後に続く急展開にもう頭は混乱間際だった。
「ちょっと、このオーダー持って行って! ぼさっとしてない!」
「は、はい!」
先輩ウェイトレスからジョッキを押し付けられ、我に返った僕はそれをお客に届けに行く。
一応向こうには感知されないように振る舞っている。隣にいるアスフォルもソフィリア関係で見知った仲なので、彼にも気を配らなければ。
こうして料理を給仕する度に、あの二人のどちらかが僕に気付いてしまうのではと内心ヒヤヒヤしていた。
けれど、ミラさんがあんなことを思っていたなんて……。かつての冷血非情な印象は、今の彼女からはもう跡形もなく消えていた。
その号哭が呼び寄せたのは悔恨の念だった。ミラさんの気も知らずに、散々な物言いをして出て行ったあの日の記憶が蘇る。
あの時の傷ついたような顔。あれはてっきり暴言を吐かれてそれにショックを受けたのかと思い込んでいた。けれど、違う。
きっとあの瞬間、ミラさんは自分自身を責めていた。我を忘れて実験にのめり込み、結果相手の事を案じられなかった自分を。
彼女がどんな心境なのかも知らないで、あんな風に怒るなんて。僕はなんて馬鹿なんだ!
僕はミラさんに背を向けながら、自分の不甲斐なさに歯を食いしばっていた。




