第二十話 押し潰されて再会
内部の様子は僕が出ていく前と明らかに変わっていた。
具体的にどこが、と聞かれたら答えるのは難しいけど、強いて言うなら雰囲気だろうか。何か、危ない気配がする。
念のためソフィリアには外を見張って貰っているけど、大丈夫だろうか? まあ、彼女は強いし、負けることはまずないだろう。
仕事中に抜け出したことがバレるのは嫌なので、僕は厨房の裏口から屋敷の中に入った。
料理長はもう帰ったのか、誰もいない。器具もほとんど片付けられている。
「うわっ!」
暗い室内を手探りで進んでいると、何か柔らかいものを踏んだ。
足元を確認した途端、僕は激しい眩暈に襲われた。
それはなんと、人間の体だったのだ。いないと思っていた料理長の男性は、床に倒れていた。
「まさか、暗殺者に殺されて……」
可哀そうに、この人にも家族はあっただろう。奥さんと娘さんが、教会の裏の墓地で涙を流している姿が容易に想像できた。
(うう……あなた、どうして……家のローンも払い終わってないでしょ……)
(パパ……嫌だよお……ママと二人暮らしだなんて)
(ちょっと待って、聞き捨てならない台詞が出てきた気がするんだけど)
イメージの中で勝手に親子喧嘩が勃発した辺りで、僕はあることに気が付いた。
この人、まだ息がある。
一定のリズムで吸ったり吐いたりを繰り返しており、よく見るとそこまで表情も険しいものではない。
「なんだ、寝ているだけか」
良かった。あまりに安心した為、それぐらいの感想しか出てこなかった。娘さんも、これでお母さんとの二人暮らしは避けられるだろう。
状況から察するに、誰かに眠りの魔法でもかけられたのだろう。そしてそれが誰の仕業なのか、この危ない気配の正体は何なのか、一斉に理解した。
もう、暗殺者は来ている。この屋敷のどこかにいる。
こうしちゃいられない。僕は物音を立てないようにそっとドアを開け、廊下に出た。
緊張で一歩踏み出すたびに心臓が跳ね上がりそうだった。けれど怖気づいて立ち止まるのも惜しいぐらいに切羽詰まっていることも事実だ。
ガメルさんが襲われているかもしれないので、ひとまず彼の部屋に行くことにした。ウェインさん達が一緒にいるし、殺されているってことはないだろうけどやっぱり心配だ。
それはそうとセレナさんは無事だろうか。あの人のことだからどうせ逃げてはいないだろう。巻き込まれていないといいんだけど……。
それにしても、暗い。このシンプルな不気味さは幼い頃、夜中にトイレへ行きたくなった時の事を想起させた。
今でさえ小心者な僕が、夜のトイレというものを恐れない筈が無かった。怖くて怖くて仕方がなくて、いつも母さんに付いてきて貰っていたっけ。意外な思い出が呼び覚まされて少し恥ずかしくなったけど、それと同時に感慨深かった。
ダンジョンのようにも錯覚する長い廊下を抜けた先は大きなホールだった。ここは家の屋敷の真ん中らしく、外に繋がる玄関や他の区画への通路、そして二階へと続く階段があった。
僕は迷わず階段の方へ向かい、登ろうとした。
けれども、そこで上から誰かが降りてきていることに気付く。
足音の調子はぎこちなく、上手く歩けていないことが推測できる。手負いなのだろうか。
僕は耳を澄ませた。すると次の瞬間――
「おっとっととと……きゃあああ!」
素っ頓狂な声と共に、何かが転がり落ちる音が聞こえた。間髪入れずに纏まった質量を持つ物体が僕に突っ込んできた。
「わぷっ!」
衝撃に耐えられず倒れると、顔に何かが覆い被さってきて僕の視界を遮った。
重いけど、柔らかくて心地が良い。温かいクッションのようなものだった。
「いった~……くないや? あれ、なんでだろ」
上から若々しい少女の声が聞こえてくる。
なんだか察してきた。どうやら僕の頭は今、この女の子のお尻の下にあるらしい。
冷静なようでいるが、僕は重大なパニックに陥っていた。脳の回路が今にも焼き切れそうだし、心臓なんか破裂するんじゃないかってぐらい振動している。
お尻の感触が心地良いだなんて、まさに変態の発言じゃないか。殴ってくれ。誰か数秒前の僕を殴ってくれ。
少女は未だに状況を把握してくれていない。
「ま、いっか。きっと奇跡でも起きたんだよね」
違う。これは奇跡じゃない。事故だ。
それに最初は失念していたけど、現在僕の口と鼻は両方とも彼女のお尻によって塞がれている。よって呼吸ができないのだ。
苦しい、どいて! 声を出そうとしたけれど、みっちりと少女の体重が掛かっていて口が動かない。
このままでは酸欠で死ぬ。『日雇い従業員の男性、死体で見つかる。暗殺事件に巻き込まれたか?』という見出しで新聞に載ってしまうだろう。
本格的に危機を感じ、僕は腕や脚をバタバタと激しく動かした。
「わっ!? なに!?」
そこまでやってようやく僕の存在に気付いてくれたのか、少女は驚いて腰を上げる。それと同時に視界が開けた。
その際スカートの内側に黒い三角形を一瞬見てしまったが、今はそれよりも爆発寸前の肺に空気を送ってやる方が先決だ。
深呼吸していると、少女が訝しげにこちらを覗き込んでくる。
「きみ、誰?」
「それはこっちの台詞だよ……って、ああっ!」
少女の顔を初めて見た僕は、思わず裏返った声で叫んでしまった。
僕がわざわざこの屋敷に来ることになった元々のきっかけ。それを生んだ存在がそこにいた。
「カ、カノン!!」
「どうしてわたしの名前知ってるの? あっ、もしかして遂にわたしにもファンができたのかな~」
向こうは僕のことを憶えていないようだ。両手で頭を掻きむしりたくなる思いだったが、とあえず落ち着かなければ。
とぼけている様子は見受けられないので、多分本当に忘れているんだろう。
僕はあの日のことを懇切丁寧に教えてやらなければならなかった。
その甲斐あってか、彼女は段々と記憶を取り戻してきたようだった。
「そういう訳だから、弁償して」
「む、無理だよ! わたしそんなお金持ってない!」
確かこの娘はランク2って言っていた。収入も多くはないんだろう。
お金の話で争うのは良くないけれど、ここではいそうですかと引き下がる訳にはいかない。こっちはまともに就職すらできていないんだ。五万ナックはキツい。
けれど数える程しか話したことのない人間に対し、そこまで強く出られる度胸を僕は持っていない。
「お願いだよ……」
「これでも暗殺者なんだけどな~。きみ、わたしが怖くないの?」
「怖いけど、大金払わされることの方がもっと怖いよ」
「あははっ、変わってるね」
そ、そうかな……? 自分ではよく分からないけど。
しかし、このカノンという少女は何気に凄い。体中ボロボロなのに、どうしてこう溌剌としていられるのか。
多分この傷はウェインさんらから受けたんだろう。となると、もうガメルさんの身は守られたってことでいいのかな。でもなんで彼らはカノンを追ってこないんだ……?
腑に落ちないけど、まずは交渉しなければ。
「とにかく、どうにかしてお金を用意してくれないかな?」
「うう……分かったよう。お兄ちゃんに相談してみる。すぐそこにいるから」
「へえ、お兄さんがいるんだ……って、ええ!? すぐそこ!?」
カノンが指差す先は、玄関だった。つまり、外に?
「失礼、お兄さんの職業は?」
「わたしと同じ、ブラッディ・ハートの魔導士だよ! ランク10で、とっても強いんだから!」
ランク……10……?
この屋敷にいる魔導士の中で最強のウェインさんがランク9だから、それより上?
得意げに語るカノンとは対照的に、僕の頭から血の気が引いていく。
「あの~、ガメルさんを守っていた魔導士がいたと思うんだけど、その人達ってどうなった?」
「う~ん、お兄ちゃんがやっつけたんじゃないかな。標的のおじさんは逃げちゃったけど。でも、きっともう追いついているよ……って、ちょっとー!?」
カノンの台詞は最後まで聞かずに、僕は彼女の手を引いて駆けだす。玄関を抜けて、今まさに命のやり取りが行われている現場へと。




