第十八話 暗殺者の兄妹
音が、止んだ。
部屋の外でひたすら戦闘の終了を待っていたセレナは、ついにその時が来たのだと悟る。
自分もガメルと一緒に退散すれば良かった、などとは少しも思っていない。ジャーナリストとしての自負が、この事件の結末を見届けろと叫んでいる。
少女は再び気を失ったので、このまま廊下で寝かせておくことにした。
ドアの向こうは静寂に包まれているようで、何も聞こえない。数秒前までの騒々しさが嘘のようだった。
このままじゃ埒が明かない。セレナは遂に部屋の中へ入ろうとした。
しかし彼女が触れるよりも先に、向こう側からドアノブが回された。
不気味に軋みながらドアが開き、まるで空間そのものを黒く塗り潰したような暗闇から男は現れた。
セレナは悪寒を覚えた。ウェインは、負けたのだ。そう認めざるをえなかった。誰一人として敵わなかったのだ、この男に。
男はセレナのことは一瞥しただけで、特に気に留める様子は無かった。非力な女一人、意に介するに値しないと断じたか。
彼は床に横たわる少女に近づき、手足を縛っているロープを解きにかかる。せっかくの捕虜をみすみす取り逃がすのは、セレナにとって歯がゆい思いだった。けれど邪魔立てすれば殺されそうなので、ただ指をくわえて見ていることしかできない。
瞳を閉じたままの少女の頬を男は数回叩く。
「う……お兄ちゃん……ありがとう」
「ったく、世話掛けさせんな。役立たずが」
悪態を吐きながらも、ボロボロの少女に肩を貸した。
それからポーションをホルダーの一つから取り出して飲ませ、束の間の回復を与える。
「行くぞ。まだ仕事は終わってない」
「待って」
立ち去ろうとする男を、セレナはやっとの思いで呼び止める。
仲間内ではじゃじゃ馬呼ばわりされているセレナだが、恐怖心を全く感じない程の硬質な心臓を持っている訳ではない。普通に怖いものを前にすれば身がすくむし、震えもする。
けれど、彼女はそれを押し殺すことができる人間だった。
「きみ、ノワルね? ブラッディ・ハートのランク10(テン)の」
「…………」
沈黙は肯定。今までの経験則からそう判断したセレナは更に畳みかける。
「流石にきみぐらいの知名度になってくると、こっちにも噂ぐらいは耳に入るのよ。裏社会に突如現れた期待の新星、らしいわね」
「へー! 凄いんだね、お兄ちゃん!」
「お前は静かにしてろ。ややこしくなる」
ノワルは興奮する妹の頭部にチョップをかます。薬で多少は治癒しているとはいえ、まだまだ全快には程遠い筈なのだが。
それで、とセレナの方に向き直るノワル。
「お前は何者だ。堅気の人間が俺のことを知っているとは思えねえからな。大方、新聞屋辺りか?」
「ご名答。事件が起これば即取材、即発行、今を羽ばたくドラグ二ヤ・タイムスよ」
「ああ、そういえばそんなキャッチコピーだったな」
「あはは、だっさーい!」
「次声出したら猿轡だからな」
割と緊張感のない取材になりそうだ、とセレナは思った。
とはいえ、この状況では何もできない。自分でこの二人をとっ捕まえて憲兵に引き渡せればいいのだが、無論彼女にそんな力は無い。
ジャーナリストとは非力なものね……と自嘲気味に笑う。
それでも、できる限りの情報は聞き出しておきたい。それがせめてもの足掻きだ。
「やっぱり、この暗殺はブラッディ・ハートが関わっているのね?」
「ノーコメント、つってもまあどうせバレるだろうな。ああ、そうだよ。俺は依頼を受けてここに来た。あいつ……ガメルの死んだ妻の遺族からな」
予想外の返答に、セレナの目は大きく見開かれる。
「どうして? モンスターに食べられたっていう話じゃ……」
「ああ、そうさ。そういうことにしたんだよ。ガメルがな。そこの部屋に入ってみろ。散々暴れてたら、面白いものが出てきやがった」
ガメルの部屋を指さすと、ノワルは窓から飛び降りて遂に姿を消してしまった。
「ま、待ってよお兄ちゃん! もう、私まだ怪我してるのに~!」
流石にその状態で兄と同じ脱出は無理なようで、少女はふらふらと廊下を駆けていく。
一人残され、セレナは呆然と立ち尽くす。その瞳は、開け放されたドアの内から覗く闇、その奥を見つめていた。
果たしてこの部屋の中に、何があるのか?
腹周りに付いたぜい肉をゆすり、ガメルは屋敷の外目掛けて走る。
玄関と門の間が空きすぎているとは常々思っていたが、今この瞬間程にそれを恨めしく感じたことはなかった。
月が出ていないので辺りは暗く、足元が不安定だ。日頃の運動不足が祟ったか自分の望むスピードが出ず、焦燥心が掻き立てられる。
「? あれは……?」
夜闇に紛れて気が付かなったが、門の前に何者かが立っているのが見えた。
増援の魔導士だろうか。だが誰が呼んだのか? しかも数はたった一人しかおらず心許ない。
疑問は残るものの、ひとまず安心だ。
「おーい、こっちだ! 助けてくれえ!」
ガメルが声をかけると、人影はゆっくりとこちらを向いた。
彩を失った黒の世界に映える淡い紫色の髪。黒を基調としたメイド服と、白い肌のコントラストが実に美しい女性だった。
僅かな間見惚れてしまったものの、ガメルは自分が追い詰められていることを思い出す。煩悩にかまけている暇は無い。
「お、おい! 貴様、うちのメイドじゃないな。こんな所で何をしている?」
「何よあなた。腕一杯に絵だの壺だの抱え込んで。もしかして夜逃げ?」
「ああ、これは置いて逃げるのが忍びなくてつい……じゃない! 質問に応えんか!」
「うるさいわねえ。わたしはソフィリア。彼氏がどうしても済ませたい用事があるっていうからついてきただけよ」
彼氏……? この女の恋人らしき人物など、屋敷にいただろうか?
「まさか、あの暗殺者の!?」
「は? 死にたいの?」
途端に目の色を変え、詰め寄ってくる。もしかしなくても虎の尾を踏んだようだった。
ソフィリアはその他に類を見ぬような綺麗な手でガメルの首を絞めつける。
「わたしのギルハイド様を下賤な暗殺者呼ばわりするなんていい度胸ねえ」
「ち、違うならいい!! 悪かった、悪かったからやめてくれ!」
かすれ声で訂正すると、彼女はやっとその拘束を解いてくれた。
しかし、締められてみて分かったが見かけによらずもの凄い力だった。最近の女性は皆こうなのか? と身震いするガメルであった。
それとギルハイド、という響きは全く知らないものではなかった。今日限定で雇った使用人が確かそういう名前だった気がする。
けれども、今はそれどころじゃない。
自分は暗殺者に狙われているのだ。多少力が強いだけのメイドがいる所で何も状況は好転しない。ガメルは落胆した。
「とりあえず、ここは危ないから離れなさい。わしも逃げるから」
「言われなくてもギルハイド様が戻ってきたら出ていくわよ。こっちもデートの途中だったんだから……って、来たみたい」
「そ、そうか。じゃあさっさと……」
言いながら振り返り、そして固まる。
確かに男が一人、近づいてきていた。しかしソフィリアが指差したそいつはギルハイドではなく、ガメルが恐れる暗殺者、ノワルだった。
「ぎょえええええええ!」
絶叫した。まるでこの世のものとは思えない声が出た。
そしてそこが限界だったのか、ガメルはそのまま気を失いパタンと倒れてしまった。
その拍子に、彼の腕の中にあった壺が石畳へと叩きつけられ四方八方へと散らばる。これで数百万単位の金が水の泡になったことを知る者は、この場にはいなかった。
「もしかして、こいつがガメル? じゃあ暗殺者ってあなたのことなの?」
声をかけるが、返答は不要と判断したかノワルは彼女を無視してガメルに向かっていく。
アクロバティックにナイフを抜刀し、標的へ躍りかかった。その間僅か三秒にも満たなかっただろう。
凶刃が、喉笛をかき切ろうとした。