第九話 初めての仕事
あれよあれよという間に、僕は二階にあるミラさんの仕事部屋へ連れてこられた。流されるままに来ちゃったけど、本当に大丈夫なのか。僕、専門知識とか全然無いけど。
中は薬品みたいなにおいが漂っていて、まさに実験室といった感じ。
「あの、僕は何をすれば……?」
「そこら辺に散らかってる物、洗って片付けといて。それぐらいできるでしょ」
ミラさんは手短に指示を出すと、さっさと作業台へと向かってしまう。
確かに室内には図式やら実験器具やらがあちこち放置されていて、お世辞にも整頓されているとは言えない。なるほど、手伝いとはそういうことか。何も難しい話ではない。要は家事だ。いつもソフィリアが僕にしてくれている事をやればいい。
じゃあ手始めに、と僕は床に転がっているビーカーを拾い上げる。これは水でゆすいで棚に戻しておこう。
部屋の隅にある水道に持っていこうとしたその時、僕は異変に気付く。
なんか、手がヌルヌルする……ていうか痛い!?
「ラ、ミラさん! なんですかこれ!?」
「? ああ……それ素手で触っちゃったの? 容器にはまだ薬とか残ってるかもしれないんだから、手袋ぐらいつけなさい。ほら、もたもたしてるとあんたの手、腐り落ちるわよ」
「ひええええっ!!」
僕は大慌てで蛇口に飛びつき、大量の水を出して汚れを洗い流す。
それを五分くらい続けていただろうか。徐々に痛みも引いてきた。
改めて自分の手を確認してみるが、ちょっと赤くなっている程度で他に異常は見当たらない。どうやら腐らずに済んだらしく、ようやく安堵することができた。この歳で片手喪失とか勘弁してよ。いや、いくつになっても健康ではいたいけどさ。
一通り掃除が済むと、部屋の様子もかなりすっきりした。どうだ、僕だってやればできるんだぞ。
清掃が終わったことをミラさんに報告しようとしたけど、やっぱりやめた。なんだかすごく作業に集中していて、さっきから一言も発さないんだ。そりゃ話しかけるのだって躊躇うよ。
それに真剣に仕事をしている顔はちょっと怖いけど、すごくかっこよかった。だから邪魔したくはなかった。
僕の知る魔導士の中でもミラさんは特に異例の存在だ。
まず、滅多に仕事の依頼を受け付けない。モンスターが現れようが、貴族などから警護要請が出されようがお構いなし。多分ミラさんが戦っているところを見たことがある人なんて、数えるぐらいしかいないだろう。
その代わり、彼女はこうして自分の研究室に籠って魔法具の開発に日夜勤しんでいる。
そんな活動が許されるのはミラさんがランク12という地位にいるという理由だけではない。あの人は新しい魔法具を発明しては、その都度特許を取得している。おかげでギルド、民間人共に寄せられている信頼は厚い。
なのになぜ、従業員がいない? これ程にまで有名な魔導士であり研究者でもあるなら、助手の人だって選び放題な筈なのに。
「できたわ」
突然、ほんの僅かに気分の上がった声で、ミラさんが呟く。
人手不足の疑問はひとまず置いといて、僕はその作った物を見せてもらうことにした。
作業台には赤オレンジ色をした液体の入った小瓶があった。魔法薬の一種だろうか。
「これは、なんですか?」
「ドラゴヘンシン。飲めば竜になれる薬よ」
「えっ、竜にですか!?」
竜といったら誰もが知る最強クラスのモンスターだ。そんなものに変身できちゃったら、それはもう百人力だろう。そのネーミングはちょっと引っかかるけど、今ツッコむのは野暮というものだ。
「す、すごいじゃないですか!!」
「そうでしょそうでしょ。さあ、さっそく飲んでみなさい」
「……え?」
ガッツポーズのまま固まる僕に、ミラさんは瓶を突き出してくる。どうやら拒否権は無いみたいだ。
渋々受け取るが、瓶の中で揺れるその薬は僕をなんとも不安な気持ちにした。
でも、ここまで来てやっぱり無理ですとは言いたくない。せっかく採用してくれたのだから、少しでも役に立ちたいんだ。
覚悟を決め、僕は薬を喉へ流し込んだ。
ミラさんは食い入るように僕を観察している。
「どうかしら?」
「か、か、か」
辛ああああああい!
僕は叫ぶ。しかし、声の代わりに口からは赤々と燃える炎が烈火のごとく噴き出した。それはまるでドラゴンのブレスのように。
抑えようにも、舌が焼け付くように痛むので口を閉じることができない。
身振り手振りでミラさんに助けを求めたが、彼女は僕なんて見向きもせずにひたすらノートに記録を付けている。
「現れた効果は火炎放射だけ……失敗ね」
「――! ――!!」
「熱っ! ちょっと、危ないんだから近づかないでよ。心配しなくても元には戻してあげるわ。あっ、でもその前にもうちょっとだけデータを取らせて」
その時、理解した。ここに人がいない所以を。
――この仕事、とんでもなく過酷なんだ。僕は泣きそうになった。
「『リカバー』!」
ミラさんが治癒魔法を唱えると、僕の口から出る炎は段々とその勢いを弱め、やがて止まった。
炎の熱にやられて、僕は全身にびっしょりと汗を掻いていた。
「うう……まだ喉が熱い……」
ミラさんはさっさと薬の再調合に取りかかっている。成功作ができるまで、僕の体を使って試し続けるだろう。
きっと前にいたあの女の人も、色々と実験台にされたんだろう。そして、我慢の限界に達し辞めていったと。今なら充分に納得できる。まだ始めたばかりの僕でさえ、もう帰りたくなっているのだから。
背後でミラさんが僕を呼ぶ。
「さ、改良したからもう一度飲んでみなさい。今度こそ上手くいく筈よ」
それはまるで死神の招き声だった。