プロローグ
号砲が一つ響いた。
否、それを号砲と呼ぶのは些か正確ではないかもしれない。時報にしては激しすぎる。ましてや大きな祭りが催されている訳でもなさそうだ。
ただ人々はその音を合図にし、我先にと走り出しているのでやはり号砲で合っているだろうか。とにかく、何かを知らせるものであることだけは間違っていまい。
「くっ、こいつ強い!?」
「早く散らばるんだ! 固まるんじゃないぞ!」
「ちくしょう、負けてたまるか!」
都内の広場にて戦闘劇は行われていた。
役者は五人。全て男性だ。三人が一人の敵を取り囲んでおり、残りの一人は石畳の地面に横たわって動かない。
仲間らしき三人組は、服装などに類似点は無いが左胸に共通の徽章をつけている。
普通に考えればこの場合、有利なのは数で勝っているこちらだ。それなのに敵をまっすぐ睨む男達の表情は険しげで、冷や汗まで流している。
対し、一人の方は困窮した素振りすら見せない。それどころか微笑まで浮かべていた。
高い背丈をすっぽり覆うほど大きな黒服の後ろには、蝙蝠のものと似た形のこれまた巨大な翼が生え、さらさらした金髪から覗くのは二本の角。もはやこの男が人間でないのは明らかだ。加えて、それらの身体的特徴は彼が何者なのかをはっきり教えている。
魔族。赤き瞳を持つ、人類の天敵。普段は魔界と呼ばれる場所に住んでいるが、人間の魂を狙ってたびたび地上に襲来するのだ。
男は舐めるようにじっくりと、自分を取り囲んでいる連中をぐるりと見回す。そして、顎の下に指を添えて「ふむ」と頷く。
「いくら人間でも魔導士となれば少々てこずるかと思ったが、ただの杞憂だったようだな。所詮、我ら魔族には敵わんということだ」
「なんだと!? 我らブレイブ・クローバーの魔導士を愚弄するか!!」
「ふん、まあ貴様らが何者にせよ――」
魔族の男は魔導士達の逆上など気にも留めずに、高らかに挑発する。
「この偉大なる狩人、ゼパルを相手に勝利を収めることは不可能だ!」
台詞が終わった頃にはもう、魔導士の腹には凶悪な拳が打ち込まれていた。
声を上げる暇すら与えられず、男は吹っ飛び民家の壁へ激突する。
ぐったりと動かなくなった仲間を見て、残った二人の怒りは心頭に達した。
「くそっ、もう手段は選ばん! 挟み撃ちにするぞ!」
「了解!」
魔導士らは巧みな動きで連携をとり、呪文を詠唱する。
「ファイアブレイク!」
「クロスウィンド!」
赤々と燃える火球と疾風の刃。二つの魔法は交錯し、爆炎へと変わる。
ゼパルがいた場所には、灼熱の柱と焦げ付いた匂いが立ち込めた。空へと上がる黒い煙はきっと、彼の命が焼き尽くされたことを意味しているのだろう。魔導士らはそう思った。
しかし、それが誤りであることに気付かされるのに時間は掛からなかった。
「どこを見ている? 俺はここだ」
天を仰いだ頃には、もう遅い。
太陽を背にして翼を広げているゼパル。両手は深紅の光を帯び、不気味に輝く。
「消えろ」
その一言が引き金だった。
彼の手から放たれた無数のエネルギー弾は、容赦なく地上を蹂躙する。さっきの魔法など比ではない程の爆発が一帯を覆い尽くした。
やっと暴虐の嵐が止むと、そこには凄惨という単語をそのまま表した光景が広がっていた。建物は崩れて廃墟と化し、つい数分前まで人が住んでいた場所とは到底思えない。
先の魔導士二人はもはや虫の息であり、意識を失ってしまっている。
ゼパルは高笑いしながら下へ降りる。満足げなその姿はさながら己が創った芸術品を自画自賛するかのようだった。
「ふはははっ、脆い脆い! この調子ならば一日で街を破壊できそうだ。そして俺は人間共の魂を大量に――」
「うわあ、これはひどいや……。修理費とかいくらかかるだろう」
突然何者かの声が聞こえた。悦楽に浸っていたところへ水を差されたゼパルは怪訝な顔をして振り返る。
そこには一人の青年がいた。
ボサボサの黒い髪。覇気の無い表情。使い古されたようにヨレヨレな上着を羽織っている。その姿は只の一般市民にしか見えない。
何をしに来たのだろう。援軍に駆けつけた魔導士だろうか。しかし戦う術を持っているようには見えない。
「誰だ、お前は」
「買い物の帰りですけど」
「どうでもいいわそんなこと! お前は何者だと言っているんだ!」
「僕はギルハイド。魔導士、みたいなものです」
魔導士……? こいつが……?
ゼパルが存じている魔導士というのは、もっと血気盛んで自信に満ち溢れており、馬鹿みたいに偽善を押し通そうとする輩ばかりだった。
しかし、彼からはそんな意志など微塵も伝わってこない。ただぼんやりした雰囲気があるだけの貧弱そうな青年だ。
最初は唖然としていたゼパルだが、やがて冷静になってきた。
目の前のこいつが魔導士であろうとそうでなかろうと自分には関係無いではないか。どうせ同じ獲物である。
ゼパルはにやりと笑った。
「おもしろいな。貴様が飛んで火に入る夏の虫というやつなのか。大方、弱小のくせに手柄を求めてのこのこやってきたのだろう。俺に勝てる望みなど皆無なのになあ!」
言うが早いかゼパルは突進する。もはや相手を完全に格下と見たか、ノーガードだ。
エネルギーを手先に纏わせ、禍々しい爪の形を作った。こんなもので体を貫かれればまず確実に死ぬ。青年の命が風前の灯であるのは明らかである。
しかし青年は逃げも避けもせず、右腕を天へとかざす。
そして、彼の唇は魔法の名を紡ぐ。
「『ファイア』」
それは何らの特別性もない、初歩的な呪文だった。ゼパルは心の中で嘲笑する。そんなささやかな抵抗をしたところでお前の運命は変わらないと。
だが直後、彼の視界は焼けるような赤い光に包まれる。そして自分の身体を、まるで鈍器で殴られたような強い衝撃が轟音を伴って通り抜けていく。
「が、はっ……」
不可視、しかし圧倒的な力に押さえつけられるように、ゼパルは黒く焦げた石畳の中心に倒れ伏す。動こうとしてもその命令を四肢は拒み、立ち上がることはできない。
ゼパルはここまできてやっと、自分は炎に焼かれたのだということを理解する。しかも、並外れた威力を持っていた。
お前は何者だ……? 再び問いかけようとしたその瞬間が、意識を保つ限界だった。
動かなくなった彼を戸惑った様子で眺めている青年。しかし、急に何かを思い出したように走り出す。
「いけない! 今日は試験の結果が来るんだった!」