鵺が鳴く町
それを見てはいけない。
それを聞いてはいけない。
そして……、
それを言ってはいけない。
あれは、いつからだったろう。
町に足跡が残るようになったのは……。
何の変哲もない町だった。
昼間は何の変哲もない町だった。
しかし、夜。
夜になると、影が現われるようになった。
夕方、まず鳴いた。
夕方に、まず鳴きだしたのだ。
聞いた事もない聲だった。
聞いた事もない鳴き声がして、それが全ての始まりだった。
最初、鳴き声は町の入り口で聞かれたという。
近くの住人はそう口々に噂していた。
しばらくして、
次第に鳴き声は町の中央へと移動していく。
奇妙な声だった。
奇妙で不気味な鳴き声が、決まって日没に訪れて未明まで続く。
気になった町の住民は、鳴き声の主を探し始めた。
薄暗い夜の中を、
懐中電灯の明かりだけを頼りに……。
森の中で鳴き声がする方角を追って。
すると今度は後ろから足音が聞こえる……。
足音だけが聞こえてくるのだ……。
追ってくる。
迫ってきたのだ。
鳴き声を追いかけて白い照明を振り回して歩く住民たちを、
見えない闇が駆けだして追いかけてくる。
悲鳴がした。
甲高い女性の悲鳴だった。
悲鳴をあげた女性が誰だったのか、それは今でも分からない。
すぐにその場がパニックを起こしてしまった為だった。
パニックになって、
その日を境に、不気味な鳴き声を追跡するのは中止になった。
それでも、
鳴き声は止まなかった。
いつまでも続いていた。
ある日は西で、
ある日は南で、
ある日は北で、
ある日は東で、
鳴き声は毎夜、毎夜つづいていた。
それが一か月も経ったころ。
今度は、
足跡が……増えた……。
最初は……狸……。
タヌキの足跡だった。
よくどこの町でもある、山から下りてくるタヌキだという。
普通に見れば、それはありふれた出来事だろう。
町は山に囲まれていた。山に囲まれていたから、
その「山に住んでいた住人」が降りてきたのだと……。
しかし、数が……、
そう数が……、
どこかおかしいと気づいた頃には、
既に種類は増えていた。
タヌキの足跡の中に……、猿が混じる。
猿も「山の住人」だった。
何もおかしい所はない。
タヌキが下りてきて……、
それを追って猿まで町に降りてきたのだ……と。
その事を不思議に思う住人などいなかった。
猿がタヌキを追って山を降りてくる、などということは……誰も。
猿が?タヌキを……追って?山を?
太い脚が、
太い前脚が……、
町のアスファルトに一歩を刻んだ。
町の人間は誰も気づかなかった。
町の入り口から、蛇と共にやって来る。
それは大きく。
無数の蛇とともに道から町の家々を探して侵入してくる。
蛇が忍び寄り……、
それを道標に、太い脚が民家の庭先に一歩を踏んだと。
聞いた事もない呻り声が探り出したのを機に……、
町は一気に恐怖のどん底へと落ちることになる。
翌朝、
民家の壁に穴が開いていた。
大きな大きな穴だった。
大きな穴の前には足跡があった。
虎だった。
虎の足跡が民家の庭先に残されていたのだ。
町は騒然となる。
虎は……、トラはいないのだ。
この国には、熊はいてもトラはいない。
動物園に照会する。
逃げ出した虎は一頭もいない。
他にも飼育を許可されている施設でも頭数に変化はないという。
では?
このトラは何処から来たのか?
虎の捜索が始まった。
そして、それは直ぐに中止になった。
虎を追うと、影が追ってくるのだという。
あの不気味な鳴き声が、虎を追う人間たちの居場所を教えるのだと。
そして聲に導かれて影が追って来る。
無数の影が追って来て、無数の足跡を残していくと。
人々は……恐怖した。
闇に紛れて追って来る何か。
恐怖に負けて町中をスタジアムほどの明かりで満たした事もある。
すると今度は眠れない。
眠れないのだ。
白い夜では眠れない。
人は、夜が黒くないと安息できない。
声が鳴いた。
あの不気味な声が鳴いた。
足跡が増えていく。
頻繁に目撃される蛇の数。
道に残された、交わる膨大な足跡の数、
タヌキと猿と……虎……。
夜にしか跋扈しない動物たちの饗宴が、
人々を確実に昼間へと追い詰めていく。
眠れない人々は、遂にある幻まで見るようになる。
猿の中に奇妙な個体がいるという。
ある住人は語る。
常に耳を押さえている猿だった。
ある住人は語る。
常に目を閉じている猿だった。
ある住人は語る。
常に口を塞いでいる猿だった。
……人々は、次第に口数を減らしてしまう。
それを聞いてはならない。
それを見てはならない。
それを決して、……言ってはならない。
人々はやっと、それを学んでいた。
あの不気味な声から、遂にそれを教わっていた。
それを破った者はどうなるのか?
その者はきっと、
すぐに、
見てはいけないモノが見えてしまうようになる。
聞いてはいけないモノが聞こえてしまうようになる。
そして、
決して言ってはいけない事を、言ってしまうようになる。
……いま、一人の子供が天井を見つめている。
天井に腕一杯に張り付いているのは、
毛並みを逆立てて赤い目をした異常な猿。
猿が笑っている。
子供は動けなかった。
ふすまが開く。
目を閉じた猿が現われる。
ガラス窓が開く音がする。
静かに耳を押さえた猿が入ってくる。
子供は、目を閉じた。
窓の外から、大人たちの奇声が聞こえてくる。
離れた部屋や廊下でも大人たちがバタバタと奇怪に動く振動が伝わる。
見てはいけない。
聞いてはいけない。
そして、それを言ってはいけない。
目を瞑る子供の前で、
ドシンと重たく、何かが落ちた。
下の階でドアが、重い何かで突き破られた。
ボタボタと重い縄も落ちてくる。
蠢く。畝る。這いずり回る。そして……、
石臼でも落ちたような爆音で、太い足音が、壁や床を突き破るッ!
……近い。
迫ってくる。
上がってくる。
近づいてくる。
闇はもう目前だった。
猛獣の吐息。
子供は……顔を歪めたままどうしても動けない。
目を閉じて震えて無防備に立ったままでいる。
それでも……、
……もう大人は助けてくれない。
この町の大人はもう、子供を助けない。
大人は恐怖で凶ってしまった。
子供を生贄に捧げて、自分は生温く保身を図った。
それがこの町が学んだ、腐敗腐臭の処世術。
ひっそりと、
子供の後ろの襖が開いた。
開いた後ろの部屋の真ん中にいたのは、一匹の猿……。
一匹の猿が横たわっている。
子供は見ない。
それを見てはいけなかった。
だから見ない。
寝かされた猿も動かない。
横たわったままの猿も動かなかった。
ピクリとも動かない。
目は閉じていない。
口も閉まっていない。
手も足もダラリと無造作に投げ出されている。
そんな猿が部屋に一匹……。
その猿は、息さえしてはいなかった。
心臓も鼓動していない。
それでもなぜか……死んでもいない。
何もしない猿……。
それは「四匹目の猿」……、
……しざる。
「……あ……」
……子供は……見た。
見てしまった……。
ついに、それを言ってしまった……。
唐突に、
訪れた静寂に耐えきれず、
振り返って目を開けて我慢できずに見てしまった。
振り返った子供の背後で、猿が笑った。
口を隠して笑っていた。
子供の小さい背中に、獣毛の袖から伸びた魔の手が忍び寄る。
忍び寄る手が。
肩に。
触れると。
一瞬で絡め取って引き寄せさらった。
途端に襖は閉じられる。
閉じられた部屋の中では……一回、重い振動の後に、静寂が立ち込めてから。
……声が聞こえた。
声は、奇妙な唄を謡っている……。
〝まず一つ目に、
それを決して見てはならぬ。
次に、二つ目、
それを何も聞いてはならぬ。
三つ目、最後は、それを言ってはならぬ。
……それを破れば……きっと、間もなく、
それより先は、
何もしてはいけなくなるゆめ……〟
子供はこれからこの部屋で、何も出来ないようにされてしまう。
何もできないようにされた子供が、
今度は何も出来ない大人にされていく。
それが……これからの、
この町に定められた未来……。
夜の近づいた木枝に、いつしかのあの声が何気にとまる。
また、この町にあの声が鳴きはじめると辺りに響いた。
影に夜を知らせる、あの不気味な声が……。
夜中の公園……。
そこにある。
勝手に揺れているブランコは無人。
誰もいないブランコが揺れて出す音に上手に似せて、奇妙な声が鳴きはじめる。
また一つ……民家に影が落ちていく……。
声は、それを確かめるとすぐに身軽に飛び去ってしまった。
それを聞いてはいけない。
それを見てはいけない。
それを決して、言ってはいけない。
それを見たら?聞いたら?言ってしまえば?
すぐに何もしては、いけなくなるぞ?
何もしないでいられるものか?
何も聞かずにいられるものか?
何も見ないでいられるものか?
だから……きっと……。
それを、言ってはいけなかった……。
嗚呼、今夜もこの町に鵺が鳴く……。
……だが、話はまだ終わらない。
ブランコは揺れている。
今も、あなたの町のどれかにある公園のブランコがだ。
闇に浮かぶ無人のブランコがゆっくりゆっくり動いている。
揺れるブランコに、また奇妙な鳴き声が静かにとまった。
おやおや。
次に鳴くのは、もしかすると、
あなたの町の夜かもしれない……。