3-14 運命の日
今から話すのは、とある魔女と愛を奪われた少女のお話。
光も差さぬ深い深い森の中にて。
その日、一向に魔物が現れないのは少女にとって幸運だったか否か。
全身傷だらけの少女は、数えきれないほど立っている木々の一つに体を預ける。ここまで来るのに多少の時間が掛かったため、いつも家にいる少女の足ではかなりの体力を使う道のりであった。
やがてその木の根元に腰を下ろすと、息を荒らげながらゆっくりと瞼を閉ざす。
聞こえてくるのは小鳥たちのさえずり、小動物たちの鳴き声。
そうしていると、少女の腕に小さな痛みが走り、その原因を確認するため目を開く。そこには一匹のリスが乗っており、腕では飽き足らなかったのか頭の方まで登っていく。
リスはとても軽かった。木々を走り渡り、体中をいとも簡単に駆けずり回ることができるくらいに軽いというのに……その重さでさえ、少女の傷に障るものだった。
森はこんなにも空気が良くて癒しを齎してくれるのに、この傷つき続ける少女の人生では、それを素直に感じることができる日など来ないであろう。
今のような絶望が毎日のように少女の頭を過ぎっていた。こんな生なら終わってもしまっても……終わってしまった方が楽というものではないか。
少女から笑顔は消え、うつろな瞳で片方のポケットから小瓶を取り出す。それは、この日のために集めていた毒草を入れたものだった。
少しの間、手に盛った小瓶を眺める。お金があれば、薬屋で睡眠薬でも買って楽に死ぬつもりではあった。だが、そんなお金も持ち合わせていない。……死ぬ瞬間でさえも、楽になることが許されないというように。
――許されない? 誰に? ……私が何をしたって言うの? こんなことなら、あの人たちにこの毒を盛るんだったわね。
少女は心の中で悪を漏らす。しかしそれくらいは許されるだろう。本当に毒を盛った訳ではないし、これくらい思うのは人間として当たり前のことだ。
だが善良に育てられてた少女は、そんな風に思ってしまった自分を厳しく咎めだす。こんなことじゃお父様に顔向けできないと。
だから自分がおかしくなってしまぬうちに行かなければならない。父の元へ。
決心した少女は瓶から毒草を取り出そうとする。しかしその蓋は固く、今の疲れ切った少女の手では開けなくなっていた。
泣きそうになりながらも、何度も何度も蓋を回す。その度に手が滑り、その度に涙が滲んでいく。
幾度も蓋に擦れた指先は赤くなって痛みだす。そのうち少女の自分への卑下が最大まで達し、振り払うように瓶を横に投げ捨てた。
……それでも、瓶は開かなかった。
少女は、優しい毛布のように地面を覆う草に顔をうずめて咽び泣く。彼女には自分で自分が分からなくなっていた。いつ何処で、何を間違えてしまったのだろう。私はいま何をしているのだろうか。思い起こされるのはここに至るまでの日々。かつては王族にまでは至らぬとも、とても裕福な家庭だった。少女が幼いころに死んでしまった母の顔を見たいと父にせがんだこと。その翌年、事故で死んでしまった父。そんな父が、私のために予め保険として交流を持っていた貴族に迎え入れられてから始まった、いままでの痛々しい日々の繰り返し。
誰が悪いのかなど、もう分らぬほど複雑になってしまったこの悩みに、手を差し伸べてくれる御人好しなどいる筈もない。こんな時に優しくしてくれる者など、このリスや、強い日差しから守ってくれる広大な森だけ。
泣き疲れ、ここまで歩いた疲れも溜まっていた少女は再び木に身を預け、首から力を抜く。
思考は掠れていき、日々の苦しみや、体の痛みすら感じなくなっていく。
少女にとって、この睡眠の時だけが安らぎの時間だった。それに、森には誰も邪魔する者はいない……
そして完全に眠りに落ち、少女が森の景色の一つと化したところで、森はいつもと何も変わらぬ平穏を取り戻した。
綺麗な緑で染め上げられた森で一人、夢路を辿る少女。正に大きな絵画が飾られているような光景が、静かにそこにあった。
見る夢はどんなものか、現実から引用された辛く悲しい夢か、幻想の果てに見える美しく楽しい日々か。夢の中を漂う少女は笑顔を浮かべ、その内容はきっと後者であろう。
それから幾刻立った時のことであろうか。あれから森の景色や空の明るさも変わっているようには思えない。少女は目覚め、まず真っ先に痛みを感じる。いくら眠っているときは心地のいい時間だとはいえ、その間に傷が治ってしまう訳ではない。
疲れも取れ、少女はここに来た目的を思い出す。今日、自分はここで死ぬ。誰にも邪魔されず、邪魔をせず。ただ唯一、優しくしてくれるこの森に包まれながら。
自らの緩やかな気分を断ち切るように、厳かな顔をして立ち上がる。
少女は生を終わらせる手段として持ってきた毒草を探す。確かこの辺りにと、先ほど投げつけた方向へと歩いていく。そんなに遠くに投げた筈では無かったがなかなか見つからず、気づけば数分と時間を費やしていた。
すると、視界に動くものが見えた。それは周りを走り回っていた先ほどのリスであった。
「まだいたのね」
可愛げなリスの仕草に微笑むと、リスは突然動きを止めた。
リスの目の前には毒草の詰められた瓶が置かれていたのだ。
もしかしてリスがここまで移動させたのではないかと疑りながらも、そちらの方へと小走りで向かう。
自分より何倍も体が大きい人間がこちらへ走ってきているというのに、リスは瓶の匂いを嗅いだりといった仕草を止めることは無かった。と急に、リスはコロコロと瓶を押し始める。その力は少女が思ったより強いものであり、しかも先が坂道になっていたためどんどん加速がついて止まらない。
「待って!」
誰もいない森の中で、つい声を上げてしまう。
とはいっても、瓶には耳も、声を理解する脳も存在せず、ただ一直線に坂道を下っていくままだ。
しかし、それでもまだ全力で追いかければ少女にも間に合う速度ではあった。
小瓶と少女の追いかけっこが始まる。緩やかな坂道だがしかし、勢い余って転んでしまうのではないかと気を付けながらも少女は小瓶に視線を集中する。
……あと少し。腕を伸ばしても、その五本分は足りない。
……もうちょっと。腕を伸ばす。あと三本分と言ったところか。
……もう届く。あと腕一本分。ここまでくれば飛びかかってとってみようかと思案する。
だがそこで突然、小瓶が視界から消えたのだ。
「え?」
一呼吸おいてみると、視界から消えたのは小瓶だけではなく大地を覆っていた緑もだと気づく。
少女は徐々に自分の置かれていく状況を理解していった。
自分の足がついていない。下を見れば、奈落のような黒い闇。丘の下の、森の中でもかなり深いところに転落して、私はこうして死ぬのだと――
そこからはとても早かった。何せ、もう思い出は見つくした。こういう時に良い思い出が走馬灯のように流れるなどと聞くが、そんなものはもう余っていない。
九十度に近い斜面に体を殴られ、一気に下まで落ちる。気づけば体は止まっていた。
不思議と痛みは無い。……死ぬ瞬間は一番気持ちがいいと聞くが、それは正解らしい。
このまま眠るように逝こう。深い森のさらに下で、ゆっくりと、安らかに……
――コンコン。
その音は木の杖を思い起こさせた。
誰かいるのだろうかと、少女はまだ腐っていない脳で思考する。
どうやらまだ死んでいないようだし、眠くもない。せっかくだからと人生最後にできた疑問を晴らすため、少しだけ目を開けてみる。
幸い、少女の姿勢は仰向けであったため人物の姿はしっかりと捉えることができた。
少女は少し驚く。何故か。その人を見て最初に、死神だと思ったからだ。真っ黒なローブに隠れた顔。しかしよく見れば鎌では無く杖を持っており、どちらかと言えば魔女に近い。
しばらくそうしていると、ひらりと顔を隠していた布が揺れて目が合う。
目の色は少女には理解できなかった。それは名前の付いた色ではなかったからだ。しいて言うならば、まるで”夢”のような、混沌とした色と言ったところか。
「貴女、愛を奪われたのね」
女は只一言、それっきり何も言おうとしなかった。
彼女らにとても不思議な間が生まれる。それは決して不愉快ではなく、それどころか心地良いものだった。
数秒と時が過ぎ、少女は夢心地から覚めると視界にある変化を感じ取った。
昼だというのに、蛍が光っていたのだ。
どれほど強い光なのか、夜に見る時よりも大きく見える光の玉は、まるで死者の魂が天に向かうかのように湧き上がり、そして増えていった。
一瞬、少女はここが天国なのではないかと思っただろう。あまりに現実感のない光景に圧倒されたためか、思わず蛍に手を伸ばした。だが掴んだ手の中には何もない。それもその筈、この光は蛍などではないのだから。
「あなたは誰ですか」
少女はそっと起き上がりながら呟く。完全に起き上がったところで、自分の意志ではない力でゆらゆらと体が揺れ始める。
その感覚からすぐに、周りから地鳴りのようなものが鳴り響いてきた。次に、木々が割れるような音を立てながら揺さぶられる。葉が擦れ合う音がする。小動物が穴へと隠れる。鳥たちが羽音を鳴らして飛び立つ。
たった今、地震が起きているのだ。少女はそう思ったものの、あまりの恐怖に腰が抜けてしまった。地震などこの国ではまず起きないため、驚くのも無理はない。
こんな最中でさえ、ローブの女は微動だにしない。
狂い始めた地上は、少女をあざ笑うかのように、更に摩訶不思議な現象を吐き出していった。
最初に地面が割れた。少女と女を囲むようにして崩れていった地面は、最終的には彼女らの半径三メートルほどを残して崩壊を停止した。
下へと落下した土はもう見えない。周りを見れば、ここは雲と同じ高さまで上がっており、正に小さな空中庭園と化していたのだった。
何処からか鐘の音が聞こえる。実体は見えず、まるで頭の中で響いてるような聞こえ方だった。
その心地の良い響きにつられて周りには鳥たちが集まってくる。彼らは足で紐を掴んでおり、よく見れば庭園を持ち上げるようにして百を超えるであろう数が羽ばたいていた。
奥には、この庭園を守るように巨大なドラゴンが飛んでいる。
空を見れば、昼下がりの青空だというのに星が煌めいている。中でも一番異彩を放っていたのは、月よりも何百倍も大きく見える、まるでフィクションの中のような大きな惑星だった。見渡せばそれはいくつもの数が浮かんでおり、正に別の惑星に来てしまったのではないかと驚いてしまうくらいだ。
「貴女がこれを?」
少女はローブの女に呟いた。声は震え、いまだに腰が抜けた状態だった。
彼女たちの周りではあまりにも非現実的なことが起きている。しかし少女と違ってローブの女には全く驚いた様子がない。どころか、先ほどの杖の仕草、態度。それらから推測するに、この現象は女が起こしているものとしか考えられないと少女は思っていた。そしてこんな芸当ができる者たちの名も知っていた。
「魔法使い? ……でもこんな」
この女の力は少女の聞くものの範疇を優に超えていた。王城にも魔法使いが務めていると聞くが、こんな現実離れしたことができるとは思えない。そういう意味では、女は現実を超越した真の意味での魔法使いとも言えよう。
少女の呟きを聞き、ローブの女は機械的に返答する。
「そう。そして、貴方にもできる」
その囁きは、とても冗談とは思えない口調で発せられた。夢の色をした、曇りなき瞳で訴えかけてくる。
「本当に?」
少女が聞き返した理由は、曖昧だったからだ。ただ魔法が自分に使えるということなのか、それともこの現象を起こせるほどの力が身に宿っているということなのか。
「後者だ、さあ立ちなさい」
その言葉に少女は目を剥いた。女にはすべてが見えているのか。それは神の御業のようでもある。だがそんな感情とは裏腹に、さっきまで抜けていた腰が魔法のように治っており軽々と立ちあがることができた。もしかしたらこれも、女の使う術であったのかもしれない。
次第に庭園には魔力が満ち満ちてき始め、可視化できるほどに濃密になっていた。鈍いような淡いような光り方をするそれは土の中から生まれ、ゆっくりと天へと昇っていく。その中の一つが少女の手のひらに収まった。それに物質的な感触は無く、やんわりと温かさだけが感じられる。
少女が一つの接触を許した途端、まるで餌を与えられた鳩のように光が群がり始める。前が見えなくなるほど集まると突然、少女の体に電流が走った。
「うぐッ……」
強い刺激を感じたが、それは日々受けている虐待に比べれば大したことはなく、むしろ体になじむような感覚だった。それは例えるなら、古くなった配管の錆が一気に取り除かれたような――――
見れば、少女の指からは稲妻が漏れ出していた。小さな音で冬場の静電気のようなものが連続して光っている。
試しにと腕を天へと掲げてみる。そのまま詠唱もしなかったが、少女はその場で念じるだけで天へと雷を放ったのだ。〇コンマといった短い時間の中で電気の流れは無数の枝のように見え、爆音と共に腕から世界樹と見紛う電流が広がった。少女は、いともたやすく空と庭園を電流で繋げてしまったのだ。
何故か少女は魔法の使い方を理解していた。しかしそれはローブの女にとってはまだ足りないものだったらしい。コンと地面で杖を鳴らし、視線を自身へと誘導させて女は言った。
「魔法には想像力が大事よ。言葉でイメージを固めなさい。続けて」
女は少女の確認をとることも無く、一呼吸置いた後に詠唱の復唱を始めさせた。
「乱雲の内の遍く暗黒世界よ」
「っ……乱雲の内の遍く暗黒世界よ」
緊張して唾を飲み込みながら少女は言う。これから何が起ころうとしているのか。それらに対していかなる状況に陥っても臆しないように。
「我が目前に一条の光を閃かせよ」
「我が目前に一条の光を閃かせよ」
集中し、その魔法を想像する。少女の頭の中では、あまりにも誇大な力の放出が描写されていた。目を完全には瞑らず、想像と現実の堺で自らの心を客観視する。すると、自らの奥底に曖昧な何かの言葉が浮かんだ。その言葉の母音を読み取る。間違っててもいい。自分が最も想像出来うる最善が導ければ、それが現実を超越する魔法だ。
「デウス・ジュピテル」
――今の私は、なんでもできる気がする。
その言葉、重いと共に、紫電巡らす黒い霧が発生、そして爆発的に膨張し、目前五〇センチ先から絶大な射線が前方へと放たれた――――!!
それは余りに太く、そしてはるか大気圏の果てまで届く光の柱。耳が痛くなるような高い音と不気味な低音を吐き出しながら、先ほどローブの女がいた場所すら抉っていた。そのことに気が付いた少女は光の放射を慌てて停止する。
光は何の余韻も残さずあっさりと消え、少女が見た光景は、溶かされたように削り取られた庭園の端の姿だった。
明らかに女の生存が絶望的な状況だというのに、少女は安心していた。無事だと分かっていたのだ。この短期間のうちに、少女は周りの魔力を持った人間の気配を悟れるまで能力を開花させていた。
溜息をつき、少女はゆっくりと振り返る。そこにはローブをはためかせながら天から飛来してくる女の姿があった。女は慌てる様子も焦ったような汗もかいておらず、一貫して無表情を貫いている。だが少しだけ、笑ったような気もした。
「できたでしょう。その力は森羅万象を司ると言っても過言ではない程のものだ。文字通り何でもできる。義母も、その娘たちも、いくらでもいたぶることができる。思考を歪曲させ、街の真中で踊り狂わせ恥を晒させたり、喉に杭を打ったまま生かし続けることも出来る。……貴方は奇跡に巡り合えた。これからは復讐が許されることでしょう」
女は淡々と少女に語り掛ける。その機械的な口調とは違い、その内容はとても情緒的で暴力的なものだった。
一瞬、少女の脳内で残虐な画が浮かんだ。血に濡れ、笑い壊れた自分の姿。拷問器具に吊るされた見覚えのある肉塊の数々。そんな自分と目が合ったところで少女は妄想から解放される。
「……それは、出来ません」
胃液の酸味を感じた口を押え、女の提案を真っ向から否定する。そうすると、女は分かっていたというように言葉を返す。
「それが貴女」
一言そういうと、女の杖が音を立てながら変形し始める。それは機構的な動作ではなく、植物の成長を早送りで再生したような光景に近い。
数秒と時間を掛けて変わったその杖は、古くからの伝統を思わせる外見から一変し、光の線が通り上部からは剣が生え、未来的になりながら同時に戦闘用の武装と化していた。
「生きていれば希望がある」
女は最低限の声量で言う。女は少女に希望を与えた。そして少女は希望を抑止力として用いることを誓った。少女が貰った希望は、余りにも強大すぎた為だ。
少女は女の言葉を自らの心臓に打ち付け、縫い付ける。さっきまでの絶望は何処かへ消えた。
ふと、少女は先ほど追っていた毒草の小瓶が足元にあることに気付く。
「もう、いらないわね」
呟きと共に、つま先で小瓶を蹴り飛ばす。小瓶は遥か下の地上へと落ちていく。小さすぎて見えなくなるまで見続け、その光景を少女は自分の自殺の矮小さと重ねる。
もう見えなくなったところで、庭園に空を切る音と人工的と思われる低音が鳴り響いた。
辺りには無数の魔法陣が浮かび、中央に武器を構える者が一人。ローブの女が、既に臨戦態勢に入っていたのだ。
「私に傷を与えてみなさい」
女の言葉に少女は覚悟を決める。希望を与えられたと言っても、今までのは序の口だということだ。汗を拭い、見様見真似で庭園に生える木を武器に変形。素粒子レベルで変わったのか、木は鋼の剣へとなり、地面に突き立てられる。
「なんでもできるけど、それだけで私は満足したわ」
少女はこれだけの力を手にしても尚、私欲のために使おうとしない。今の言葉はローブの女に対する、そういう宣言だった。
少女の名はエラ。未だ幼き万能の魔法使い。
女の名はダルク。未知なる冷徹な魔法使い。
いま迅雷と閃光が瞬くとき、初めての師弟の対決が幕を開けた――――
・・・・・
刻は未明。
春に入る前のこの季節、夜の外の寒さは凍える程のものであった。
本当は外を探すつもりではなかったのだが、探している人が見当たらなかったのでしょうがない。まさかこんな時間に外で掃除でもしているのだろうか。……そう思ったのはきっと、私の希望的観測故だろう。屋敷の中に彼女の部屋は無かった。想像したくもないが、そういうことだ。
大きな庭をぐるりと周回し、屋敷の裏に辿りつく。そこには森と屋敷の陰に隠れた、暗く朽ちた木製の倉庫のような小屋があった。
一見、只の掃除用具入れかと思われたそれだが、私にとっては嫌な予感しかしない代物だった。
近づき、手を触れ、材と材の小さな隙間から内側を覗く。そこにいたのはやはりというか、どうしてというか、そんな言葉しか出てこない人物であった。
エラ。王子に迎えられるはずであった少女。運命に逆らえなかった少女の姿がそこにはあった。
「私には力がある。しかしそれは、本当に危なくなるまで使わない」
小さく呟きが聞こえてくる。
彼女は天井の隙間から差す月明かりを眺め、手を伸ばしていた。
「いつまで耐えればいいのかしら。でも、私が私を裏切っては駄目よ、エラ」
目を凝らすと、彼女の瞳からは一筋の涙が溢れていた。月の光を反射した雫は、より大きく輝き、彼女の中の希望が零れ落ちてしまっているようにも見えた。
私は小屋の外で俯く。壁にもたれかかりながら、痛む胸を堪えた。早くしないと。私は同情するためにここに来たのではないのだから。
目頭を押さえ、無理やりにも笑顔を作って扉の前へ立つ。コンコンコンと、三回のノックをした。そうすると、一呼吸置いた後に声が返ってきた。
「……誰、ですか?」
半日ぶり……いや、体感で言えば何か月ぶりともいえる程のエラちゃんの声だった。
私は恐る恐る扉を開く。あんなに笑顔を作っていたというのに、今の私の顔は俯いていて、彼女には見えないようになっている。こんなんじゃきっと、私だって分からない。
「いいいい……さん?」
それでも彼女は、気づいてくれた。
私はそっと顔を上げ、彼女の顔を見る。その頬からは、涙が消えていた。さっきの涙は見間違いかと思ったが、心配を掛けさせないために咄嗟に拭いたのだろう。
月明かりの角度のおかげで、幸いにも私の顔は隠れている。きっと今の私の顔は、自分でも想像がつかない程に涙で濡れているだろう。
反面、月明かりに照らされていた彼女の顔は、こちらからしっかりと見えていた。とても心配そうに覗き込んでくる顔。どうやら、私のことを怒ってはいないようで安心した。
「エラちゃん……ごめんなさい」
「……」
数十秒と沈黙が生まれる。物音もたたず、聞こえてくるのは弱い風の音と、遠くの森から響く梟の鳴き声のみ。
頭が真っ白になったわけではない。これは、私にとっての懺悔の時間だった。しかし不思議だったのは、エラちゃんが沈黙を破らなかったことだ。彼女の方に目を向けると、優しい顔で目を瞑っていた。
その姿は、聖女のような優しさに満ちていた。この長年使いこまれた古い小屋と、家族が使い捨てたであろう布で作られたみすぼらしい部屋の中でさえも、彼女は輝いていた。
「エラちゃん、聞いて」
先に沈黙を破ることになったのは私となった。
「……はい」
「エラちゃんにこれを渡しに来たの」
それは、例の捜索状を丸めたもの。彼女の手を掴み、傷に障らないようにそっと手渡す。
「私は、まだエラちゃんに諦めてほしくない」
エラちゃんはまだ内容を知らないから何のことか分かっていないだろう。その間に伝えたいことだけを伝えて帰ろう。後は彼女の思い次第だから。
「余計なお世話だったら捨ててもらっても構わない」
「…………はい……これ、大切にします」
私は勢い良く立ち上がり、扉の方へと翻る。自分の頬を伝う涙の感覚が分かる。私は逃げるように扉へ手を掛けると、最後に、一言だけ我が儘を告げた。
「……それと、また、一緒に遊ぼうね」
その震えた声を置き去りにして、外へ走った。
最後、エラちゃんに泣いているのがバレただろうか。
でも、まあ、私の気持ちが伝わったのなら、それでいいかな。
屋敷の門へと走っていくと、見知った二人が待っているのが見えた。
「……」
「いーちゃーん! どーだったー!?」
お兄ちゃんは無表情で此方を見つめ、ヒリアさんはこっちに向かって大声で叫んでいる。私はいまだ緩まっている涙腺を押えてそちらへと向かった。
「ちょっとヒリアさん! いま何時だと思ってるんですか! さすがに近所迷惑ですよ!」
「ああ悪いわね~、でも全員薬の効力で朝まで起きないわよ?」
「そ、そうですけど!」
私はヒソヒソ声で喋っているというのに、ヒリアさんは一向に声を小さくしようという努力が見られない。
彼女は、先ほどまで門番をしていた現在睡眠中のガタイのいいおじさんに腰を下ろしていた。彼の大きな体の所為か、きちんと椅子として成り立っているところが少し面白く見えてくる。
「さて、用も終わったことだし早く帰って寝ましょ。あんまり宿屋のおっちゃんに迷惑かけるとホントに出禁になっちゃうわよ?」
「そうですね……ささっお兄ちゃんもっ!」
そう言ってお兄ちゃんの背中を両手で押すと、転がるボールのようにさっさと宿の方に向かっていってしまった。
ふと、上を見上げると、街路樹の桜が月明かりに照らされている。
いつ満開になるのかは素人の私には分からない。だけど明日はもっと花が開いていて、そして明日は今日よりいい日になっていることだろうと静かに思った。