3-13 受け継がれた希望
昨日は雨だったのだろうか。水たまりの所為で、どれだけ俯いていても、桜の花が視界に入り込んでくる。
季節はやがて、春に近づいていた。
未だ満開とは言えない桜ではあるが、その薄桃色の景色が広がりつつあるこの光景だけで、どれだけ時が経ったか分かりうるだろう。
だがこんな景色を見せられたところで、私の心は凍えた風を感じ続けている。
――あの後、私の目に映ったのは古風なストリートの伸びる街並みであった。その時はパニックや怒り、悲しみといった感情で混乱していた。しかし直ぐに冷静に戻り、春の花たちを見つけたときは肝が冷えた。
こうして、今に至る。どうやってここまで歩いてきたかは分からない。
私は家同然とも言えるようになってきた宿の入り口付近で、体を丸めて座り込んでいる。
エラちゃんは今どうなっているのだろうか。あれから絶望に打ちひしがれながら生きているだろうか。それとも、いつものように暮らしているだろうか。――何を言っている。どっちだって何も変わらないじゃないか。
考えれば考えるほど深い闇へと飲まれていく。身動きができないほど重い底なし沼。沈めば尚のこと、圧力が増して潰れていく。
そんな暗闇の中で背中をつつかれた。
ヒリアさん? 違う。
「……ーい」
近所の子供? 違う。
「おーい!」
お兄ちゃん? 違う。でも、昔はこんなこともあったっけ。
「ちょっと! 部屋貸し切っといて今度は営業妨害か!」
「え?」
と野太い声で怒っていたのは、私たちが住んでいる……もとい泊っている宿屋の主さんだ。相変わらずの強面だが髭を剃ったようで、山男のようだった外見はすっかり変わっていた。
どうやらよく見ると、ギリギリ扉に引っかかる場所で座ってしまっていたようだ。
「すみません……いま退きますので……」
「どうしたぁ、最近窶れっぱなしじゃねえか。そんなんじゃいい嫁さんになれねえぞ?」
彼は勢いよく扉を閉めると、しゃがんでこちらと目線を合わせるようにする。すると手に持っていた何かをこちらへ寄こした。
「お前らとは割と長い付き合いだ。これ持ってけ!」
渡されたのは、白い何かの実のようなものだった。
「元気出るぜ?」
「……ありがとうございます……後でいただきます」
申し訳ないとは思うが、今は物が喉を通りそうではない。
鈍い動作でゆっくりとポケットへと手を回す。そのポケットは狭く、入れるだけで潰れてしまわないか心配になりながらも実を入れようとする。だが何かにつっかえて、よく中に入らない。私はいったん諦めて中を確認する。
そこには小さく折り畳まれた紙が入っていた。
「そうだそうだ。お前さん、昨日雨だっていうのにびしょ濡れになりながらその紙を持って帰ってきたじゃねえか! あんなに嬉しそうだったのに今日は風邪でも引いたって訳か?」
私が嬉しがるもの? なんだろうそれは。
そもそも彼が言う“昨日”には心当たりがない。もしかして時間が飛んだ間も私たちは何か行動していることになっているのだろうか。
おかしい。ここは誰かの、記憶を辿る夢の中だ。ここ最近ヒリアさんから聞いていたことでは、介入した私たちなんて単なる異分子に過ぎないという。だが、もし彼が話す通りならば、私たちは誰かの夢の中の一登場人物に過ぎないか、または私たちは夢ではなく、本当の過去にいるのではないか?
真実に至りそうになったところで思考は途切れる。とにかく、この紙を開いてみよう。
紙は何重かに折られていて開きづらい。破らないようにしながらようやく開くと、中には絵と文章が書かれていた。
――探しています!
――整った顔立ちの少女、金髪、忘れ物、ガラスの……
「……ガラスの靴――――!」
――連絡はフランク・ローランス宮廷まで。
「これって……」
思わず手から紙が零れ落ちそうになり、必死に握りしめる。それ故か否か、手は小刻みに震えていた。
あの日から……さっきから今日まで、私がどんな努力をしてどんな思いでここまでたどり着いたかなんて分からない。
でも確かなことはある。それは、私がまだ諦めていなかったこと。
そして――――それを、叶えたということだ……!!
走り出す。弾む足はウサギのように、高く、遠くに向かって進んでいく。今の気分はまるで、嵐の中、追い風を受けて走っているかのようだ!
「なんだか知らんが頑張れよー!」
後ろから声が聞こえるが、もう振り返ることはできない。気持ちの面でも、物理的にも。体感で言えば五〇キロは出ているのではないかと思えるほどに速かった。
私はいったいどこへ向かっているのか。エラちゃんの家とは方向が真逆だ。傍から見たら気でも狂ったのかと思われるかもしれない。
しかし、この道こそ目的にたどり着くための最短のルートなのだ。
私がどれだけ頑張ったといっても、一人では何もできない。だから私は、みんなのところへ向かうんだ!
さらに加速をつけようと、先ほど貰った実のことを思い出す。
宿屋の主は元気が出ると言っていた。ならばこれを食べてさらに早く走ってみせる!
口の中に勢いよく放り投げて噛み潰す。
必死になって走っているせいか味覚の伝達が少し遅く、徐々に何とも言えない味が口内に広がっていき……
「辛っ!? ……臭っ!?」
猛烈に火を吐きたくなるような辛さが全身に響き渡ったのだ。
後に分かったことだが、あの実のようなものはニンニクの一欠だったという。
・・・・・
樹皮が寂れ、多くの時を過ごしてきたであろう大樹の根元にて。女は一人、目の前の男を見つめ続ける。誰がどう見ても、女は男に見惚れていた。
男はまるで、雲の上で舞う天使の様。次第に周りには光が溢れ、今度は女の想像とは反して、薄桃色の花が男を包んだ。
ああ、これも見ものだと感じながら、勝手な背景の変更を許して――
「ってなんか春になってるー!?」
言葉とともに、黒のローブの女、ヒリアージュ・バレンタインは勢い良く立ち上がった。
その傍ら、黙々と無表情で魔物たちを嬲り殺す男こそ、勇者ああああである。
「……」
しかしそれも遠い昔のこと。ヒリアが気づかぬうちに、とっくに魔物狩りは終わっていたようだ。
「ねぇあーくん? なんか時が飛んじゃったみたいだしー何かあったかもしんないからそろそろ帰らな」
「……」
振り向いた女の目の前あったのは、聖剣の切っ先だった。
「え?」
と驚く間もなかった。
突如として獣のような速度で一回転した勇者は、勢いそのままに足払いを放つ――!
彼女は痛みを感じる暇もなかった。だが宙を浮き、次の一撃が放たれるまでにこの状況を完全に理解していた。頭の中でそれを説明する文章が完成するよりも先に――ただ、ヤバいと。
次の攻撃は見えている。まるで未来を予測しているかの如く顔面へ向かっている拳が。
回避不能。しかし彼女は焦らない。それはこの状況への覚悟が決まっていたからなのかもしれない。だからこそ、別の策を用意していた。
灰色の液体が霧のようにヒリアの体中に振りかかる。これは彼女の作った薬品だ。しかし彼女自身、こんなにうまく振りかかるとは思わなかった。
液体の触れた部分から瞬時に硬化が始まり、ヒリアの体はまるで鋼鉄の塊のようになってしまったのだ!
直後、顔面を殴りつける音が響き渡る。その振動で木に留まる鳥たちが羽ばたき、地に伏せた塵や草が一斉に湧き上がった。
正直なところ、ヒリアはこの攻撃が防げるか否かは大体半々の確立だと予想していた。しかし今の攻撃を受けても掠り傷一つ付いていない。
――成功だ! これならどれだけ殴られてもノーダメージ。
しかしこの作戦には一つ欠点があり、硬化している間は、まるで石像にでもなったかのように身動きをとることができないのだ。
だがそれでいい。このまま耐えればこの時間はいつか終わりを迎えるのだから。
……ヒリアには分かっていた。この男が何故、突然と私に攻撃を仕掛けてきたのか。その動機が。と言っても彼から直接聞いたわけではないので、これは只の彼女の想像でしかないのだが。
少し時を遡る。
この日、勇者ああああとヒリアは、いいいいと別行動をして郊外のもうちょっと奥にある小さな丘の方に来ていた。
何をしていたかと言うと魔物狩りだ。目的は、単純に鍛錬。技能や能力を上げるための、彼の日課ともいえる習慣。しかしヒリアにとって、それは人並み外れたものであった。
それもその筈。ここについてから宿屋に帰るまで一切の休憩なし。この辺りは王国周辺の中でもかなり凶暴なモンスターばかりが現れるのだが、そんなことはお構いなし。出会った瞬間急所を穿ち、最近になると全ての魔物を一撃必殺で終わらせる。正にどっちが魔物か分かったものじゃない。
だからこそ、ヒリアは魔物の危険性を感じる必要もなく、のんびりとあーくん観察に没頭できたのである。この時が来るまでは――
目に見えるものすべてを狩りつくした彼は、いなくなった魔物の代わりとしてヒリアを選んだのだ。鍛錬の相手として……
そうして今に至る。
ヒリアは仰向けに倒れた状態にされ、早すぎてスローに見えるほどの速度で繰り出される拳たちを見つめる。
まるでバイブレーターの音のように聞こえた。今ので何発の拳が私の腹部に炸裂したのか理解しきれず、彼女の鋼鉄の肌から冷汗が流れ出る。
その振動音が十秒ほど続いたかと思うと、突如として勇者は天高く跳び、小さく口元を動かした。
――詠唱!?
ヒリアがそう思った瞬間、勇者は後方へと離れて着地し、鞘から引き抜いた聖剣を思い切り地面に突き立てた。
そしてコンマ一秒とかからず地面が振動し始め、聖剣の宝石の色が金色へと変化する。
まるで爆撃を落とされたかのような光景だった。
勇者が剣を突き立てた方向……ヒリアのいる方向へ、大地の爆発が迫ってくる。直線的に、連続的に破裂するその様は、まるで地下に剛力の鮫が存在しているような恐怖感を覚えた。
この現象にヒリアはただ耐えることしかできない。既に目の前まで来ている爆発の恐怖を飲み込みながら。
遂に彼女の真下で地面が爆発する。体は宙へと吹き飛び、当然の如く怪我は全くない。
空中で体の動きを制御できないためブンブンと音を立てながら体が回り、視界も同様に回り続ける。
その中で彼女は何か光り輝くものを見た気がした。――こちらに向かって光の矢を番えた勇者の姿が。
「嘘であれ」
彼女は心の中で呟く。しかし彼女が見たのは全く嘘でも気の所為でもなかった。
空気抵抗によってだんだんと回転が収まってきたところで、見間違いだと信じていたものは確信へと変わった。しかしあんな技いつ覚えていたのか。
放たれた。空を切り、何重もの矢が同時に迫る。
その数は二桁になるだろう。魔法の力ゆえか、それぞれは空中で更に速度を上げ、石像となったヒリアに激突し爆破する……!
しかしその時点で彼女はおかしな感覚を覚えていた。痛みは全く感じないのでどうということはないが、矢は正面から衝突したはずなのに、背面からも爆音を感じたのだ。
あの一発で何本放ったのか、爆音はスターマインのようになり続ける。やがて音は鳴りやみ、彼女は砂煙舞う大地へと戻っていた。
そう、本来地面側から矢が放たれたのなら更に空に向けてヒリアは加速をつけることになるだろう。だが結果は真逆となった。それは何故か。簡単な話だ。勇者は先に放った矢を魔法でヒリアよりも上空で折り返させ、それを正面から当たる矢よりも先に引き返させ、そして正面よりも多くの矢を背面へと爆撃させたのだ。
「ゲハッ! ペッ! 口の中にゴミが入った!」
何とも下品な動作で体中の塵や埃を掃うヒリア。この一瞬、彼女はある重要なことに気が付いていなかった。
「っと、次は何をしてくるのかな~ッ!?」
呟きの終わり際で砂埃が晴れた。前方二十メートルに佇む勇者は聖剣を天へと掲げている。そしてヒリアは自分が発声できていることに気が付く。
手を開閉する、目を瞬く。彼女には、硬化が解け、このままでは生身で攻撃を受けなければいけないという現実が待っていた。
勇者の目は冷酷にも、ヒリアを確実に捉えている。
聖剣の宝石は青く輝き、その強すぎる光は、昼であるはずの空を黄昏時の藍色の如く染め上げた。
次の硬化は間に合わない。ヒリアは咄嗟に身を翻して闇雲に走る。
助けを求める声すら、悲鳴すら上がらない。目は見開き充血。拳が入るほど開いた口。祈るのは只、死にませんようにということだけ。
勇者の手元で、宝石の煌めきは膨れ上がる。その光は最大まで達し、合図のような高い音が鳴る。
そこから剣で空を切るまで、一切の躊躇は無かった。勇者は前方の空間を斜めに切り裂く――!
その時起きた光景はにわかには信じ難いものだった。なんと文字通り空間が裂け、そこから赤色の濁流が溢れ出す!
水が流れれば流れるほど空間の裂け目は広がり、周りの木々を薙ぎ倒しながら全てを飲み込み始めた。
「うあああ助けてー!!」
濁流の一歩先を走り続けるヒリア。やっと出た悲鳴も虚しく、重く激しい水流の音にかき消され、誰もそれを聞き入れる者はいなかった……かに思えた。
「熱い熱い熱いー! 誰か水くださーい!!」
「いーちゃん!?」
なんとヒリアが逃げる先から勇者の妹、いいいいが火を噴きながら走ってくる。
「ちょっとこっち来ちゃダメだってばー!」
ヒリアは手を振りながらいいいいを制止するも、彼女にはもう目の前が見えていない。
「ぶつかるー!!」
「水だー!!」
お互い全速力の二人は避けること叶わず、そのまま濁流の中へと消えるのであった。
・・・・・
「ッ……」
時が経っても変わることのない闇の中で、玉座に座る女の腕には赤が滲んでいた。
出血。しかしそれは外傷ではなく、内側から裂かれたものだ。
傷はとても小さく些細なものだ。しかし、女は大きく焦燥を覚えていた。
どんなに小さな傷であったとしても、実際に体を裂かれたのだ。今度は命に係わる傷を負うかもしれない。とは言っても、女には命など既に無いのだが。
原因は分かっている。あの異物が、夢を裂いた所為だ。
「これは早めに切り上げねばな」
そう言った女の口元からは、焦り、そして恐れの感情が見て取れた。




