第9話 融通の利く先輩
結衣は部室の扉を開ける。中には誰もおらず、広い部室はいつも以上にがらんとしていた。
鍵は開けっ放しだったので、誰かが一度ここに来ているはずなのだが……なんにしても不用心なことだと思う。
手近な椅子を引き寄せて腰を下ろすと、結衣は深いため息をつく。
結局、結衣は担任から透子の住所を教えてもらうことはできなかった。
理由は単純に個人情報保護のためとのことだった。
現在、情報漏えい対策として、学校には所属する生徒に関する情報を、国が推奨する暗号化アルゴリズムを用いて適切に暗号化して保存することが義務づけられている。
一昔前ならまだしも、そんな風に厳重に管理されている情報を一生徒に簡単に教えてくれるはずがなかった。
「……どーしよ」
結衣はそう嘆息する。先生が教えてくれなかった以上、透子の住所を手に入れるのは絶望的だ。
普通ならこういう時はクラスメイトから聞けそうなものだが、クラスで異端扱いされている透子と仲のいい人間なんて心当たりがない。おそらく住所はおろか連絡先すら誰も知らないだろう。
こんなことになるなら前もって透子本人から直接住所を聞いておけば良かったと猛省する結衣だったが、よく考えれば、そんなことができる仲ならそもそもこんな事態に陥っていないだろう。
後悔と苦悩の狭間で一人頭を抱えて唸っていると、
「渡瀬さん、そんなところでどうしたの?」
不意に上からそう声をかけられる。
顔を上げるとそこには不思議そうな顔をした雛乃がいた。虚を衝かれた結衣は、弾かれたように椅子から立ち上がり挨拶をする。
「お、お疲れ様です!」
「はい、お疲れ様~」
雛乃はにこやかに手を振って挨拶を返す。彼女の手に提げられたコンビニ袋が音を立てて揺れた。どうやら一度部室に来た彼女が、鍵を開けっ放しにしたままコンビニに行っていたようだ。
「他のみんなはまだ来てないの?」
「はい、みなさんまだ来てないみたいで」
「なんだ、みんなやる気ないなー」
そう言って雛乃は、コンビニ袋からお菓子の箱を取り出すとソファーに寝そべる。ソファーが小さく軋む音が聞こえた。
その光景を見て、どうせ意味ないのだろうけどと思いながらも結衣は口を開く。
「それだと、制服、シワになっちゃうんじゃないですか?」
「おっ、渡瀬さんまるでお母さんみたいだね」
「……やめてください」
やっぱり言わなきゃよかったと後悔して、結衣は椅子に座り直す。
そんな彼女を横目に、雛乃は愉快げに笑うとお菓子の箱を開ける。そして、中から細長いチョコレート菓子を一本取り出して口にくわえた。
アレいつも食べてるけど、そんなに好きなんだろうか。一本くれないかな。
結衣がそんなことを考えながら見ていると、不意にソファーの上で雛乃が足を組み直す。
その拍子にスカートがめくり上がり、彼女の白く柔らかそうな太ももが惜しげもなくむき出しになった。
ふとこちらの視線に気づいた雛乃は、まるでいたずらっ子のような笑みを浮かべる。
「何? 興味あるの?」
「見えかけてますから……」
「女同士なんだから別にいいでしょ。大体あたし女子校出身だから気にならないし」
そういう問題でもないような気がする。
「そんなこと言って、秋名先輩が来たらどうするんですか……」
制服の上からでも分かる柔らかそうな(主に胸部)雛乃の身体は、一つしか学年が違わないはずなのに妙に艶かしく見えた。同性の自分でもそんな風に思うのだから、男子の綴はどう思うのか心配になってしまう。
「あの人は枯れてるから大丈夫だよ」
そう言い切る雛乃に、結衣は今ここに綴がいなくてよかったと心底安堵する。今の発言は、高校三年生の彼にはあまりに酷すぎるような気がした。せめて紳士だとかもう少しまともな言葉で表現してあげてほしい。
「ああ。そういえば渡瀬さん、さっき職員室でえらい必死に先生から真島さんの住所聞き出そうとしてたよね?」
「え?」
突然、なんの前触れもなく投げかけられた言葉に、結衣は驚きの声を上げる。
どうやら職員室にいたところ雛乃に見られていたらしい。
「で、聞けたの?」
「い、いえ……無理でした。やっぱり個人情報だとかで……」
「そう、それは残念だったねえ。クラスメイトの子とかは知らないの?」
「……あの真島さんと仲のいい人間がいると思いますか?」
「それもそうか」
そう苦笑して再びお菓子に手を伸ばそうとする雛乃だったが、その手がピタリと止まる。
「あ、いや……待てよ? そういや、あたし真島さんの住所知ってるな……」
「え!?」
雛乃が零したその言葉に、結衣は思わず椅子から立ち上がる。
「それ本当ですか?」
「うん、たしか二週間くらい前だったかな……真島さんが家から出てきたところをたまたま目撃してさ。その時は、『ああ、ここに住んでるんだ』程度にしか思ってなかったから、すっかり忘れてたよ」
そう言って雛乃はソファーの上で身体を起こす。彼女の肩に絹糸のような髪がサラリと流れた。
絶望的かと思っていた透子の住所に関する情報。唐突に降ってきたそれに、結衣の表情は一気に華やぐ。
これで問題は解決した。
結衣はかつてないほどの尊敬の念を込めると、綺麗に腰を折って真っ直ぐ雛乃に頭を下げる。
「真島さんの住所を教えてください」
そんな健気な後輩の姿を見て雛乃は快く、
「え? あー? んー……ええと、どうしよっかなー……」
OKしなかった。
「ちょっと! この流れだったら、普通そこは教えてくれるところじゃないんですか?」
「んーあたしも可愛い後輩のお願いだし、教えてあげたいのは山々なんだけど……ほらこれ個人情報じゃない?」
「それじゃ先生と一緒じゃないですか!」
頬を膨らませる結衣に、雛乃は「いやいや」と手を振る。
「勘違いしてもらっちゃ困るなあ。教えないとは言ってない。先生っていうのは公務員だから融通の利かない人間だけどさ、あたしは学生だから融通が利く人間なの」
雛乃がそう言った瞬間、突然結衣の目の前でターミナルが展開した。
画面には『電依戦の挑戦者が現れました』というダイアログが表示されている。一瞬何かのバグかとも思ったが、そこで結衣は、これから雛乃が言わんとしていることを理解した。
「先輩まさか……」
「そう! 今からあたしと渡瀬さんで電依戦をして、渡瀬さんが勝ったら真島さんの住所を教えてしんぜよう!」
「いやちょっとそれは……」
結衣は苦い表情を浮かべると、こちらに向けられた人さし指から逃げるようにして視線をそらす。
青南高校の電依部に入部してから雛乃とは何度か電依戦をしたことがあったが、結衣は一度も彼女に勝ったことがない。
電依戦の実力差もそうだったが、二人の間には、現状どうしても覆し難い差があるのだ。
今の結衣にはどうしようもできない差。
だから、なるべくなら電依戦なしで教えて欲しいところだったが――、
「……普通には教えてくれないんですか?」
「『何かを得るために戦っている時こそ、人は心の底から勝利を渇望し、死力を尽くすことができる』――まあこれはあたしのお父さんの言葉なんだけど、あたしも折角やるなら遮二無二ぶつかってくる渡瀬さんと戦いたいからさ」
「お父さん、一体何してる方なんですか……」
「それにあたしに勝てないようじゃ、どっちにしろ真島さんのところになんて行かない方がいいんじゃないかな。上手く関係を改善できたとしても、その程度の実力じゃまた喧嘩になっちゃうかもしれないし」
突然の厳しい言葉に結衣は「うっ」と喉を鳴らす。
たしかに雛乃の言う通り、透子が部活に来るようになれば、自分はまた彼女と組んで電依戦をしなければならない。こんな言い方は失礼かもしれないが、雛乃に勝てないようでは、彼女より強い透子についていくことなど到底できないだろう。思えば、透子と会って話をした後のことなんて何も考えていなかった。
「まあこれは一つ、先輩からの試練と考えてよ。どうする? あたしは別にどっちでもいいよ」
雛乃はできもの一つない綺麗な顔でこちらを見つめていた。
彼女以外に透子の住所を知っている人間なんて思い浮かばない。
一瞬の逡巡の後――、
「……嘘だったら怒りますからね」
その言葉を承諾の言葉として受け取った雛乃は、目を細めて満足そうな表情を浮かべる。
「もちろん。それじゃ準備しよっか」
二人は机を挟んで向かい合った。
念のため、部室の扉には電子鍵をかける。これで二人が電依戦をしている間、部員以外の人間が部室に入ることはできない。
「さあて。試合時間は二十分、フィールドはランダム、リソースは2000、使用可能なプログラムは制限なし。試合時間を過ぎた場合は残りの体力が多い方の勝ち……ルールはこんなところでどうかな?」
「それで結構です」
結衣の合意を取り、雛乃は自分のターミナルで電依戦のルールを設定していく。
しばらくしてルール設定が終了したようだ。
結衣がジャックインボタンを押した瞬間、ふと雛乃が思い出したかのように口を開く。
「ああ、ちなみに渡瀬さんが負けた時はあたしの言うことなんでも一つ聞いてもらうから」
それ今頃言うの? という結衣の突っ込みを置いてきぼりにして、二人の電依戦が始まった。