第8話 勇気の消費期限
「結衣さ、私に何か言うことあるんじゃないの?」
中学二年の秋。電依部の部室で、結衣は部活の友人からそう詰め寄られた。
部室の空気は張り詰めている。逃げ出したくなるようなその重々しい空気に、結衣は思わず喉を鳴らす。
周囲には自分たち以外に誰もいない。ここにいるのは自分と友人だけだ。
「……言うこと?」
「この間、私と二人で出た大会。あれの話をしてるの!」
後半、友人は語気を強めて言った。
一週間前、結衣と友人は電依戦のタッグマッチの大会に出場していた。二人にとっては初めてのタッグマッチだったのだが、本番の緊張もあってか上手くお互いの連携を取ることができず、二人はあっさりと一回戦敗退となってしまった。
あれ以来、結衣に対する友人の態度は冷たく、今日の今までまともに口を聞いてくれていなかったのだ。
(やっぱり、そのことで怒ってたのか……)
結衣は静かに天井を仰ぎ見る。
こういう時の友人の扱いは難しい。二年という短いつき合いではあったが、彼女のことをよく理解していた結衣は、あまり刺激しないようにやんわりとした語調で返す。
「結果はたしかに残念だったけどさ……また次がんばろうよ。ね?」
これでこの話は終わりになるかと安易な期待を抱いていたが、友人は信じられないというような顔で「は?」とつぶやく。
「あんたのせいで負けたのによくもまあ、そんな他人事のように言えるね」
「……ちょっと待ってよ、私だけのせい?」
まるでこちらにだけ非があるような言い方に、思わず結衣は眉根を寄せる。
友人はフンと鼻を鳴らす。
「自覚なかったの? 最悪だね。あんたがもう少しまともに戦えてたら、一回戦敗退なんてお粗末な結果にはならなかったかもしれないのに」
「そんなこと言ったら、そっちだって序盤からボロボロだったじゃない」
「……じゃあ結衣は私のせいで負けたって言いたいんだ?」
「そうじゃないの?」
二人は至近距離で睨み合う。
気づけば二人の間に流れる空気は、先ほどよりも重くなっていた。
その場で睨み合っていた二人だったが、やがて友人は小さく舌打ちして踵を返すと、出口の方へツカツカと歩いていく。そして、乱暴に扉を閉めて部室から出て行ってしまった。
一人その場に残された結衣はしばらく扉の方を睨んでいたが、やがて頭を抱えると、深いため息をつく。
「やっちゃったなぁ……」
売り言葉に買い言葉で喧嘩になってしまったことに対して、結衣は激しい後悔に襲われる。
「なんであんなこと言っちゃったんだろ……」
少なくとも結衣は、自分たちが負けた理由が友人のせいだなんて本気で思っていない。あの戦いで負けたのは、不甲斐ない自分のせいだ。そんなことは、結衣自身が一番よく理解している。
それでも、いきなりあんなことを言われて、つい反射的に言い返してしまったのだ。
(謝らないと……)
ターミナルを立ち上げ、メッセージアプリを起動した結衣だったが、そこで指が止まってしまう。
――さっきの今で、そんな勇気はない。彼女になんて送ればいいのか分からない。
「……今はやめとこう」
今はまだお互いに冷静になれていない。友人だって頭が冷えていないはずだ。
明日……明日会った時にでも謝ればいいか。
そう心の中で自分に都合のいい言い訳をして、結衣は静かにメッセージアプリを閉じた。
* * *
放課後の教室、結衣は机に身体をもたれさせながら、自分の席より斜め前の透子の席へと視線を向ける。
彼女の席は空席だった。その光景に結衣は小さくため息をつく。
(真島さんは今日も欠席か……)
透子が学校を欠席して、これで一週間だ。担任が言うには、どうやら彼女は風邪を引いたらしいとのことだったが――、
(やっぱあれのせいなのかな……)
結衣はあの大雨の日のことを思い出す。
傘も持たずに部室を飛び出して行った透子。雨の中ずぶ濡れで帰ったのだとしたら、彼女が風邪を引いてしまった理由はそれに違いない。そう考えると結衣は、自分の心が小さな罪悪感に突き刺されるのを感じてしまう。
それに――、
『あなたがさっさと電依戦を辞めればこんなことにはならなかったのに!』
部室を飛び出す際に透子が言い放った言葉が脳内で再生され、結衣はいっそう陰鬱な気分になる。
(……なんで真島さん、私に電依戦をしてほしくないんだろ)
思い返せば初めて電依戦をしたあの時も、彼女は自分に電依戦を辞めるよう言ってきた。ひょっとしたら、自分が気づかない内に何かしでかしてしまっているのだろうか。
結衣がそんなことを考えていた時、
「ねえ、真島さんもうこれで一週間だよ」
「何かあったのかな?」
不意にクラスメイトのささやくような声が聞こえてくる。どうやら彼女たちは透子の噂話をしているらしい。
「というか、先生は風邪って言ってるけど、本当に風邪なのかな? そもそも一週間も風邪で休むって、今時あるの? 私たちが生まれる前ならいざ知らず、今は医療用のナノポートだってあるんだから、病院に行って一日二日もすれば、風邪なんて治っちゃうじゃない」
「だよねえ。もしかしてさ、不登校なんじゃない?」
(まさかそんな――)
「あ。そういえば私、雨の中を傘もささないで泣きながら走る真島さんを見たような」
(え)
いつの間にか結衣の視線はそのままに、耳だけは彼女たちの言葉に全神経を集中させていた。
「もしかしてそれって失恋とか!?」
「わかんないけどさ、本当は風邪とかじゃなくてやっぱり不登校なんじゃないの? ほら、クラスにも馴染めてなかったわけだし……」
その後もクラスメイトたちはしばらく透子の噂で好き勝手盛り上がっていたが、やがて満足したのか話を切り上げて教室から出ていく。
彼女たちがいなくなった後も、結衣はしばらく固まっていた。
(泣いてた? 不登校? あの透子が……?)
普通ならそんな根も葉もない噂、くだらないと一蹴できるはずだったが――、
(……あり得なくはないのかな?)
あの日起きた出来事、去り際の彼女の表情――それらを知っているからこそ、結衣は否定することができなかった。
窓の外からは野球部の威勢のいい掛け声が聞こえてくる。
気づけばもう部活が始まる時間だった。
「ゆーいっ!」
背後からジャージ姿のヒカリが抱きついてきた。今日も今日とて彼女は相変わらずテンションが高い。
「ああ、ヒカリ……」
「『ああ、ヒカリ……』じゃないよ。どうしたの? ボーッとしちゃって」
そう言ってヒカリは結衣の視線の先を追う。そして納得したように「ああ」とつぶやいた。
「真島さんか。今日も学校来てないよね。風邪が長引いてるのかな」
「どうなのかな……」
ヒカリの疑問に結衣は曖昧に返す。
先ほどのクラスメイトたちの噂話を聞いていたら、本当はただの風邪ではないような気がしてきたのだ。
「……もしかして結衣、真島さんと何かあったの?」
「え?」
突然の質問に結衣は驚いてヒカリの顔を見上げる。
「ふふん、分からいでか! これでも三年のつき合いだからね」
そう言ってドヤ顔を決めるヒカリだったが、その顔はすぐさま真面目なものへと変わる。
「だってここ最近の結衣、あの時と同じ顔してるんだもの」
「あの時……?」
「中学の頃、部活の友達と喧嘩しちゃった時だよ」
「……ヒカリはよく覚えてるね」
結衣は目を細める。
中学二年生の頃、結衣は部室で同じ電依部の友人と言い合いの喧嘩になったことがあった。
言い合いの末、その場から立ち去って行く彼女を結衣は追わなかった。
――今そんな勇気はない、明日会ったら謝ればいい、それで解決する。その時はそう考えていた。
でもそうはならなかった。
次の日、友人は学校からいなくなっていた。なんの前触れもなく、突然。
噂では、親の仕事の都合で他県の学校に転校してしまったらしい。
慌てて彼女に連絡を取ろうと試みたが、何故か電話もメールも通じず、結局話をする機会は二度となかった。
(あの時、ヒカリはこの話題には一切触れてこなかったけど、ちゃんと見てたんだなあ……)
ヒカリ相手にはぐらかすのは難しいような気がして、結衣は素直に白状することにした。
「――部活で真島さんと喧嘩したんだ。まあ普段から一方的に喧嘩売られてたような気はするけど……だけど今回のは本当の喧嘩だった。正直あの時は、悪いのはまた真島さんだって、そう思ってた。私は何も悪くないって……」
でもこの一週間ずっと考えていて思った。
「だけど今回は、私にも少し……悪かったところがあったのかなって……」
「謝りたいの?」
「うん……それもあるけど一番は聞きたいんだ。なんで真島さんは私にあんな態度を取るのかって。なんで私に電依戦を辞めてほしいのかって」
結衣はぎゅっと手を握りしめる。
今までずっと聞けなかった。他人に踏み込んで、それでもしまた喧嘩になってしまったら、中学の時のような――いやもしかしたら、それ以上に辛い思いをすることがあるかもしれない。そんな根拠のない恐怖がどうしてもあったのだ。
不意に、ヒカリの手が握られた結衣の手にそっと触れる。
「怖がらないでいいんだよ。もし駄目でも結衣には私がいるじゃない。その時は、私がなんとかしてあげるから」
「ヒカリ……」
彼女の手の暖かさを感じながら、結衣はいい友達を持ったなと心の中で感動する。
「……ありがとう。おかげで勇気が出てきたよ。来週、真島さんが登校して来たら話を聞いてみ――」
「はい、このお馬鹿!」
「だばっ!」
スパン! といい音を立てて結衣の後頭部にヒカリのチョップがヒットした。
え、えええ……?
突然の出来事に結衣は頭を抑えて唖然とする。え? 何、突然? 今すごくいい感じの雰囲気だったよね?
困惑する結衣に対して、ヒカリは眉を吊り上げる。
「まだそんなこと言ってる! いい? 勇気って消費期限があるの。今ある勇気だって明日の朝起きた時には、腐って使い物にならなくなってるかもしれないんだよ?」
ヒカリはまくしたてるように続ける。
「それに真島さんは来週本当に来るの? 来なかったら結衣はあーでもないこーでもないって、また一人で悶々としているつもり? そもそも昔それで一度、後悔したんでしょ?」
「それは……」
「大体、人間って風邪引いてるタイミングが、一番心が弱ってるのよ。お見舞いにかこつけて行けばいいのに、何折角のチャンスを棒に振ろうとしてるのよ」
その荒々しい物言いにしばらく固まっていた結衣だったが、やがて吹き出してしまう。
「ヒカリって意外と狡猾だよね」
でも彼女の言葉は正しい気がする。
(そうだよね。待ってるだけじゃ駄目なんだ)
結衣は席を立つと、ヒカリの肩をポンと叩く。
「ありがとう、ヒカリ」
「どこ行くの?」
「職員室。真島さんの家の住所聞いてこないと」
ひらりと手を振って、結衣は教室を出た。