第6話 あなただからこそ
その日の夕方、結衣は無言で帰宅した。
家には誰もいないのだろうか、玄関から見えるリビングは明かりが点いておらず、外からわずかに夕日が差し込んでいるだけで薄暗い。
結衣は一つ、大きなため息をついた。
なんだかここ最近毎日ため息をついているような気がするが、それもこれも原因はあの真島透子にあった。
結局、彼女が電依戦を仕掛けてきたのは、先輩たちの目の前で結衣を叩きのめして、自分の方が上だと誇示したかっただけなのかもしれない。仲良くなろうとしている、というのは都合のいい結衣の妄想に過ぎなかったわけだ。
それにしたって何も「電依戦を辞めろ」とまで言わなくてもいいじゃないか。
「あーもう! 本当ムカつく!!」
そう叫んで結衣は頭を乱暴にかきむしると、ドンドンと階段を踏み鳴らしながら二階へと向かう。そして、自分の部屋のドアを乱暴に開けた彼女は、目の前に広がる光景に驚き、目を見開いた。
――自分のベッドの上で、一人の女性がのんびりとくつろいでいたのだ。
「お姉ちゃん!?」
つい先ほどまで結衣の頭の中を支配していた怒りが、一瞬で驚きに塗りつぶされる。
ベッドの上にいた女性は、結衣の姉である渡瀬葵だった。
高校卒業と同時に海外の大会に参加するようになり、一年のほとんどを国外で過ごしているはずの彼女が、自分の部屋でのんびりしているとは予想だにしなかった。
葵の格好は、この間のテレビのようにきっちりとしたものではなく、黒いパーカーにジャージという完全にオフのスタイルだ。
何故かパーカーの胸元には白い字で、『DEFCON』と書かれている。それは一体どういう意味で、そしてどこで買ってきたものなのだろうか。
こちらの存在に気づいた葵の双眸が結衣を捉える。
「おかえり~。お、高校の制服懐かしいなあ。似合ってるじゃん」
久しぶりの再会にも関わらず、普段通り話しかけてくる姉に結衣は拍子抜けしてしまう。
二週間前、葵がテレビ出演のため日本に帰ってきた時には、番組終了後即海外へとトンボ返りしてしまったため会うことはできなかった。
そのため、こうして姉妹が直接顔を合わせるのは、実に十ヶ月ぶりのことになる。
「どうしてこっちに? というか帰ってくるだなんて聞いてないんだけど?」
「しばらく日本でやらなきゃいけないことがあるからこっちに帰ってきたの。まあ今って特にめぼしい大会とかないから別にいいかなって。あ、帰ってくるのを言わなかったのはサプライズです」
まったくこの姉は、と結衣は心の中でため息をつく。
サプライズ好きなのは結構だが、それに振り回される身にもなってほしいというのが本音だ。
「ところでこの間の朝の番組どうだったかな? お姉ちゃんかっこよかった?」
葵は、まるで褒めてもらいたい子供のようにして結衣にすがりつく。
その様子は、テレビに出ていた時の凛々しい彼女とはまったくの別物だったが、結衣は知っている。
あんなものは偽りの姿。これが本来の渡瀬葵なのだ。
それでも結衣は、そんなだらしのない姿も含めて姉のことが好きだったが。
「はいはい、すごいカッコ良かったよ」
「やった! 結衣に褒められた!」
そうガッツポーズする姉を尻目に結衣は深いため息をつくと、ベッドの上に腰を下ろす。
「どーしたの、ため息なんかついちゃって? さっきも珍しく荒れちゃってさ?」
葵は身体を起こして、結衣のとなりにやってくる。
やはりあの声は聞かれていたらしい。家には自分以外誰もいないと思っていたからあんな風に大きな声を出したというのに。
「お姉ちゃんには話したくない……」
結衣は蚊の鳴くような声でそう言う。
葵から貰ったエクエスを使って負けたなんて言えなかったし、言いたくもなかった。
そんな結衣を見て葵はしばらく黙っていたが、やがてその暖かい手で妹の頭を撫でる。
「まあ何か困ったことがあったらお姉ちゃんに相談しなさい。お姉ちゃんは結衣ちゃんの味方だからね~」
後半猫なで声でそう言いながら、葵は、じゃれつく子猫のように、結衣の頬に自分の頬を擦りつける。
中学生になったあたりから、たまにこの過剰なスキンシップが鬱陶しく感じることもあったが、今だけはそんな風に優しくされるとつい泣きそうになってしまう。
だけど自分ももう高校生。姉の前で涙は見せたくない。ここはぐっと堪える。
そんな結衣の表情を見て、葵は慰めるように優しく微笑んだ。
* * *
窓の外には、燦爛と煌めく都会の夜景が見える。
それはまるで、夜空に輝く星々が地上にぶちまけられたかのようだった。
地上およそ二百メートル。五十二階の高さから臨める景色は、普段慎ましい生活を送る結衣からすれば、異世界にいるかのような錯覚を覚えてしまう。
結衣は視線を落とす。
目の前の皿には、前菜となる料理が飾りつけられている。
フランス料理の知識などまるで皆無だったが、皿に印字されたマーカーを認識したナノポートが、料理名と使用されている食材を簡単に教えてくれた。
「こんなところに二人だけで来て怒られないかな」
そう言って結衣は恐る恐る辺りを見渡す。
結衣と葵の二人が来ていたのは都内にある高層複合施設、そこの高級フレンチレストランだった。
それなりに格式高いレストランということで、昨今では珍しくロボットではなく人間の給仕が客の対応をしている。
きらびやかな店内の雰囲気に、自分の格好は場違いじゃないだろうかと結衣は心配になるが、ここは葵の『学校の制服はあらゆる場面で着られる最強のコスチュームなのだよ』という言葉を信用することにする。
「お母さんから結衣のご飯頼まれてたし大丈夫でしょ」
そう言いながら目の前で赤ワインを呷る葵は、先ほどのラフな格好とは打って変わって、以前、朝の番組で着ていたものと同じスーツを着ていた。
あんなダメ人間スタイルでは、流石にこんな店に入れてもらえなかっただろうから、着替えてきて正解だと思う。
「お母さんはいいにしてもお父さんにバレたらヤバイかもね」
「あの人は面倒な人だからね」
葵は皮肉に口元を歪める。
二人の父親は堅物な男だ。
葵が初めて電依戦の大会に優勝した時、賞金を家に入れると言った彼女に対して父親はそれを拒絶した。
彼いわく、『ゲーム大会の賞金など、稼ぎとして認めない』とのことだった。
昔その件で一度、葵と父親が大喧嘩をしたことがあり、それ以来二人の関係はギクシャクしたままになっている。
故にこれまで葵が稼いだ賞金は一銭たりとも渡瀬家の口座に振り込まれることはなく、精々彼女が日本に帰国した時に、結衣と母親と彼女の三人だけで高めのレストランに食事に行く程度となっていた。
「片意地張らなければ今の家のローンだってさっさと返済できるし、もっと大きい家にだって住めるし、そもそもあの人だってもう働かないで済むのに」
そう嘆息すると、葵はワインを勢いよく呷った。
おそらく彼女は既に父親が稼ぐ生涯賃金の数倍の額の賞金を稼いでいる。
娘に養われるのは父親としての矜持が許さないのだろうか。
そんなことを考えていたら、段々と暗い気分になってきてしまった。気持ちを切り替えようと結衣は改めて目の前の料理に向き直る。
スモークサーモンとアボカドのセルクル仕立て。知識のない結衣からしてみれば、まずこの円筒形の前菜にどう手をつければいいのか非常に悩ましい。こんなオシャレで難解な名前の料理、普段の渡瀬家の食卓に並ぶことはまずないだろう。
「お姉ちゃん、いつもこんなもの食べてるの?」
「んー、本当はそうしたいところなんだけど、大会中って移動とかもあって意外と忙しいから、そんな暇もないんだよね。まあ今日は久しぶりに結衣に会えたから、一緒にいいもの食べたいなって思って」
そう言ってから葵は、近くを通った給仕に追加のワインを注文する。
あまりに調子よく酒を飲む彼女に、結衣は顔をしかめた。
「あんまり飲みすぎないでよ? ここから埼玉まで帰らなきゃいけないんだから」
「どうせタクシーで帰るんだからいいでしょ。あ、もし私が酔い潰れちゃったら私のことタクシーまで運んでね」
そう簡単に言う姉に結衣は自分の頭を手で抑える。
いつだったか、飲みすぎて立てなくなった葵を、店の人と協力してタクシーに押し込んだ時の記憶が蘇ってしまった。あの時の店員の引きつった笑顔は、中々忘れられない。
もうあんなことになるのはごめんだった。
やがて目の前にスープが運ばれてきたところで、突然何かを思い出したかのように葵が「あっ」と声を漏らす。
「そうだ結衣、エクエスの調子はどう?」
「うん、いいよ。今日も使ったけど馴染んでる」
「へー、今日電依戦やったんだ? どうだった、勝てた?」
その質問に、スープを口に運ぼうとした結衣の手がピタリと止まる。
どうにも今、完全に自分で墓穴を掘ったような気がした。
おかしな状態で固まった結衣を見て怪訝な表情をしていた葵だったが、しばらくして察したらしい。
「もしかして負けちゃった?」
「……ごめんね、お姉ちゃん」
葵から貰った電依を使って負けたことに対し、結衣は謝罪の言葉を口にする。
実際はとどめを刺される寸前に透子がリザインしたため、データ上は白星だったが、あれでは負けたようなものだろう。
「負けるのは仕方ないよ。私も結衣と同じ歳の頃は自分よりも強い相手に負けたもの」
そう葵は慰めてくれるが、結衣は知っている。彼女が自分と同じ年齢の時に戦っていたのは、世界の名だたる電依戦プレイヤーたちだ。
その点において、同じように聞こえる「負けた」という言葉も実際にはかなり意味合いが異なる。自分と彼女とでは根本的にレベルが違うのだ。
そんなことを考えていっそう弱気になった結衣は、ぽつりと漏らす。
「ねぇお姉ちゃん、後悔してない?」
「後悔? 何を?」
「私にエクエスをあげたこと」
エクエスは高校三年間、葵が使ってきた電依であり彼女と共に多くの死線をくぐり抜けてきた大事なパートナーだ。
高校電依戦三連覇、RSI電依戦大会優勝、電依女王戦優勝、エトセトラ、エトセトラ……。
葵とエクエスが成し遂げた実績を挙げれば枚挙に暇がない。
だからこそ本当なら自分なんかよりも、もっと相応しい電依戦プレイヤーがいるのではないかと結衣は思ってしまう。
きっとエクエスに相応しいプレイヤーというのは強くて、勇敢で、剛毅で、機知的で……そこまで考えて、何故か頭に透子の顔が浮かんでしまい、結衣は慌ててかぶりを振った。
そんな彼女を見てしばらく何かを考えるように黙っていた葵だったが、やがて静かに口を開く。
「後悔はまったく」
その表情と声音から、葵が嘘をついているようには思えなかった。彼女はそのまま続ける。
「もしも私があなたにエクエスをあげたことを後悔するとしたら、それは負けた時じゃない。戦わなくなった時よ」
「戦わなくなった時……?」
「エクエスってね、ラテン語で騎士って意味なの。戦わせてもらえない騎士なんて可哀想でしょ」
そう言って葵は手の中のワイングラスを回す。グラスの中でゆらゆらと赤い液体が揺れた。
「昔、結衣が私に言ったことを覚えている?」
「私が言ったこと……?」
「『私もエクエスと一緒に戦いたい』だよ」
「……」
その言葉に結衣は当時のことを追想する。
葵と共に勇敢に戦場を駆るエクエス。まるでファンタジーの世界の騎士。
そんな彼女に幼いながら見惚れ、憧憬を抱き、そして想った。いつしか、自分もあの少女騎士と共に戦いたいと。
「高校電依戦三連覇を成し遂げた後、エクエスを欲しいという人間は大勢いた。中には大金を積む連中もいたくらい。でも彼らは、エクエスをコレクションやステータスとしか捉えていなかった」
そう語る葵の瞳には、珍しく怒りの色が見えた。
「そんな中で『エクエスと一緒に戦いたい』って言ってくれたのは、唯一あなただけだった。鳥かごの中の鳥としてではなく、戦う騎士としてエクエスを欲してくれた結衣になら、いつか託してもいい――そう思えたのよ」
(そうだったんだ……)
葵の言葉に、結衣は口を強く結ぶ。
突然「入学祝い」と言ってエクエスの引き継ぎコードを送ってきた時は、また葵のきまぐれが発動したのかと思っていた。
でもそれは違った。
彼女はしっかりとした理由をもって、自分に大切なパートナーを譲ってくれたのだ。
「ま、私が認めた電依戦プレイヤーなんてそういないんだから、自信を持ってしゃんと胸を張りなさい」
そう言って葵はニッと口角を上げると、可愛らしいウィンクをこちらにくれる。
姉なりに励ましてくれたことに嬉しくなり、結衣は口元を緩ませた。
「ありがとう、お姉ちゃん」
それから二人は電依戦とは関係のない話をした。
結衣は学校であった出来事を、葵は海外であった出来事を。まるでそれまで会えなかった姉妹の時間を埋めるように。
いつしか結衣の暗い気持ちはどこかに吹き飛んでいた。