第25話 悔しいと思えるあなたなら
「結衣! 結衣!」
自分の名前を呼ぶ声に結衣は目を覚ます。
虚ろな目を開くと、ゲーム開始前とは違い、RSIの会場内は白い照明に照らされている。そして他の参加者たちの視線がこちらへと向いていた。
「おい、起きたぜ!」
少女の安堵するような声が聞こえる。
声の方を見やると、透子と涼が心配そうな顔をしてこちらを見つめていた。
「あ、透子……篠原先輩……」
「大丈夫か、渡瀬?」
「はい。……あの、試合の結果は、結果はどうなりました?」
結衣の問いに透子と涼は無言で表情を曇らせる。互いに目配せをする二人だったが、やがて透子がゆっくりと口を開いた。
「……この戦い、青山の勝ちよ」
「そっか……」
結衣は小さく息を吐き出す。
本当のところ聞く前に結果は分かっていた。ただどうしても自分でそれを認められなかったのだ。
「ごめんね、負けちゃって」
「あの青山相手によく戦ったわ。あそこまで追い詰めれば大したものよ」
「……いつもみたいに責めてくれればいいのに」
「結衣?」
怪訝な顔をして結衣の顔を覗き見た透子は、そこで小さく息を呑む。
結衣の瞳からは大粒の涙があふれ出ていた。
「え、泣かした?」
「あの子泣かした?」
「泣かしたっすね!」
「泣かしてない!」
背後のヒソヒソ話に反駁して、透子は動揺した様子で結衣の顔を振り返る。
「ちょっと……何泣いてるのよ?」
「悔しいからだよ! 透子は悔しくないの!?」
気づけば結衣は叫んでいた。
自分がもう少し早くに薫の弱点に気づけていれば、透子と二人で力を併せて薫を倒すことができたかもしれないのだ。
自分がもう少し早くに薫の意図に気づけていれば、あんな負け方はしなかったはずなのだ。
そう考えたら、これ以上悔しいことがあろうか。
悔しさに涙を流す結衣を見てしばらく黙っていた透子だったが、
「悔しいに決まってるでしょ」
震える声で静かに言い放つ。
その声に結衣は思わず涙で汚れた顔を上げる。
透子は震える拳を握り締め、唇を噛み締めていた。桃色の唇からは真っ赤な鮮血が滲んでいる。
「透子……」
「でもね、あなたはこの並み居る電依戦プレイヤーたちの中で最後まであの青山薫相手に生き残ったの。それはとてもすごいことよ。だから胸を張りなさい」
そう言って透子は身体の力を抜いて握りこぶしを解くと、慰めるようにして結衣の頭を撫でる。その優しい手つきに、いつしか結衣は姉に撫でられる感覚を思い出していた。
「渡瀬さん」
不意に背後から結衣を呼ぶ声が聞こえる。振り返るとそこには薫の姿があった。
彼女の顔は青白く、額には脂汗を浮かべている。心なしか……いいや、かなり体調が悪そうだ。
薫は緩慢な動作で結衣の顔を覗き見る。
「……もしかして泣いてるの?」
「あ、いや、これは……」
結衣は慌てて目に浮かぶ涙を制服の袖で拭う。そんな彼女の様子に、薫は目を細めた。
「私に負けてそこまで悔しがる人間なんて久しぶりに見たかもしれない。いつしか誰もが『負けて当然』と考えるプレイヤーばかり。……そうか、勝てると思われてたか。ちょっとショックかも……」
そう言って薫は結衣へと近寄ると、ゆっくりと手を伸ばす。ひんやりとした感触が結衣の頬を撫でた。
「心配しなくても、そうやって悔しいと思える、あなたたちなら強くなれるわ。それでも……私、には、絶対に勝てな――」
そこまで言って突然、薫の身体は結衣に向かってぐらりと倒れ込んだ。
「青山さん!?」
慌てて結衣は倒れる薫の身体を抱き止める。支える彼女の身体は酷い熱を孕んでいた。呼吸は荒く、白い肌は脂汗に濡れている。まるで病人のようだ。
「ど、どうしちゃったんだろう急に……」
薫を抱き支えたまま、結衣は困惑の視線を透子に向ける。透子はしばらく難しそうな顔をして二人を見下ろしていたが。
「やっぱり青山の能力は身体に負担がかかるものなのね」
「あ、バイナリアンシンドローム……」
確か薫は目で見たプログラムを自動的に解析してしまい、それは脳に酷く負荷をかけるのだったか。きっとその負荷がこうして身体に表れているのだろう。
とりあえずこのままの姿勢では辛いだろうと、結衣はひとまず薫を床に横たえようとする。その時、視界にあるものが入った。
それはダイヤモンドの指輪だった。指輪は薫の左手親指で煌めいている。
「これって……」
緊急事態であることも忘れて、結衣は薫の手を取ってまじまじとダイヤモンドに見入ってしまう。綺麗な宝石だったから、ということもあったが、つい最近、どこかでこれと同じ宝石を見た記憶があったのだ。
「こ、これは一体どういうことでしょうか?」
そこへ慌てたような声と共に、RSIの社員がこちらに駆けつけてくる。どうやらようやく何かトラブルが起きているらしいということに気づいたようだった。
透子は社員へと向き直る。
「青山薫の様子がおかしい」
「しかしナノポートのバイタルチェック機能は異常を検知してないみたいですが……」
「……自分の能力のことを考えて、彼女もダミーのバイタル情報を送るプログラムを使っていたのかもね」
「これ、私のせいかな……」
結衣は喘鳴混じりに荒く呼吸する薫を見下ろしてつぶやく。
試合中、彼女の調子が明らかにおかしくなったのは、結衣の作った長剣プログラムを見てからだ。
――自分の作ったプログラムが酷すぎたせいで薫をここまで追い込んでしまった。
そう考えて責任を感じてしまう結衣だったが、それを透子が呆れたように否定する。
「あなたの責任なわけないでしょ、馬鹿。強いて言えば自分の能力も体力も考えなかった青山の判断ミスのせいよ」
「とにかく救急車呼びましょう!」
社員が急いで電話をかけようとしたその時――、
「失礼します。こちらに青山薫はいますでしょうか?」
緊迫した雰囲気の会場に、突如、鈴を転がすような声が聞こえた。
その声につられて、会場にいる全員が一斉に一つの方向に目を向ける。
全員の視線の先、そこには一人の少女の姿があった。
年齢は結衣たちと同じくらいだろうか。黒い髪を後ろ手に結んで束ねており、まるで線の細い美男子を思わせる中性的な顔立ちをしている。
部屋の明かりに照らされて白い制服が眩い輝きを放っているように見えた。
少女は床に倒れている薫を一瞥すると、その細い目を大きく見開いた。
「彼女からの連絡が遅いのでまさか……とは思いましたが、まさかここまで追い詰められているとは……」
「あなたは……?」
探るような結衣の問いかけに、少女は思い出したかのように向き直る。
「申し遅れました。私、青山のお世話をさせていただいております、神明高校二年の白鞘千鶴と申します」
そう自己紹介すると同時に、千鶴は綺麗なカーテシーを披露する。その可憐な容姿と相まって、まるでお嬢様のようだ。
神明高校ということは、彼女も薫と同じ学校の学生ということだろうか。
「今回は青山が皆様に大変ご迷惑をおかけしたようで、彼女に代わって私の方から謝罪の言葉を述べさせていただきます」
「いや、そんなことよりも青山さんを何とかしないと……!」
「後は私の方で対応致しますのでどうぞご安心を」
千鶴は薫に近寄ると、彼女を起こすそうとする。細身の千鶴だったが、力なく倒れる薫の身体をいとも簡単に抱き上げて見せた。
「あの、救急車を……」
そのまま薫を連れて行こうとする千鶴を見咎めた社員が慌てて彼女の元へと駆け寄る。だが千鶴は小さく首を横に振った。
「お気遣いありがとうございます。でも外に車を待たせてありますので」
そう言って薫を抱き支えたまま出口の方を振り向いた彼女は、そこで一言つぶやく。
「それにしても……彼女がここまで追い込まれたのは初めて見ました。皆様のような強者と会えたこと、彼女にとってさぞ幸運だったことでしょう」
* * *
綴は息を切らせてRSIセキュアコーポレーションのビルの前までやって来た。
彼の元に青山薫がRSIの大会に参加しているという情報が飛び込んできたのは、今からおよそ一時間ほど前。プログラムの勉強会に参加していた時のこと。
情報元は彼がかつて所属していた神明高校電依部の現役の生徒からだった。
その話を聞いた瞬間、綴は慌てて勉強会の会場を飛び出して電車に飛び乗っていた。
青山薫が自分のことを嫌い、憎悪していることは痛いほどよく知っている。
そんな彼女がわざわざ後輩たちの参加する大会に出張ってくることの意味を考えた時、彼は恐ろしくなったのだ。
(何が狙いかは知りませんが、私のことで篠原さんや後輩たちに迷惑がかかるようなことがあれば私は――)
普段は温和なその瞳を鋭いものにする綴。
だが丁度その時、ビルの中からヨロヨロと人影が出てくるのが見えた。
「青山さん……」
息を切らす綴の前に現れたのは、少女に支えられた薫の姿だった。
二年ぶりに会う知己の姿に綴は息を呑む。
その顔は蒼白。瞳孔は開きかけている。まるで半死人のような様相だ。
記憶の中の彼女とはあまりもかけ離れたその様子に、綴は目の前の少女が本当に薫かなのかどうか自信が持てなくなってしまう。
彼が薫に抱いているイメージというのは、常に戦場で強者を踏みにじる絶対強者のものだったからだ。
「綴……?」
今までぐったりとしていた薫だったが、綴の声に気づいたのか反応を見せる。彼女の頭はうなだれたままだったが、目だけをギョロリと動かして綴を睨みつけた。
酷く調子の悪そうな状態にも関わらず、薫は綴へと飛びかかって彼の喉元を食い千切らんばかりの殺気を放っている。
間近で一番に彼への殺意を感じたのか、薫を支える少女が恐怖で喉を鳴らす。
一方で綴の表情には恐れの感情など微塵もない。ただ真っ直ぐといつもと変わらぬ穏やかな目で薫を見据えている。
「お前は、どうしてここに……?」
「……あなたの学校の学生さんから、あなたもこの大会に参加しているということを教えてもらいまして」
「誰だか知らないけど余計なことを……」
忌々しげに舌打ちする薫だったが、綴からそっと視線を反らす。
「プログラム……見たわよ。相変わらず、ムカつくほどお上品なコード」
「……それはどうも」
「あなたの後輩にちゃんと教えてやって。一人酷いのがいたわよ。お陰で私はこのザマ」
「渡瀬さん……のことですかね?」
「あ、やっぱりすぐに分かるんだ……」
それから彼女は、綴の胸元で光るダイヤモンドのペンダントに目を細めた。
「相変わらず身につけているのね、そのダイヤモンド」
「大切なものですから。あなたもそうでしょう?」
薫の左手親指に光るダイヤモンドを見て、綴が尋ねる。
「そうね。だけどお前にそれをつける資格は無いわ」
「資格、ですか……」
「そうよ。ハルを見殺しにしたお前にはね」
そう言って薫は千鶴に行くよう促し、踵を返す。
「……もう行くわ。ただでさえ調子が悪いのに、こうしてお前と顔を突き合わせているだけで反吐が出そう」
「青山さん、一つ質問が」
「……何?」
「私の……新しい仲間たちは強かったですか?」
綴の問いかけに数瞬何かを考えていた様子の薫だったが、やがて首だけ振り向かせると不敵な笑みを浮かべる。
「……あなたの後輩に伝えておいてくれるかしら。次戦う時は油断なく殺す、と」
そして再び綴に背を向けると、その場を去って行った。
去りゆく知己の背中を見送りながら、綴は一言つぶやく。
「次……? まさか彼女が認めたというのか?」