第19話 少女たちの出会い
青山薫という少女がいた。
本人はこれと言ってとりとめもない、どこにでもいるような何の変哲もない普通の女の子に過ぎなかった。
そんな彼女が平々凡々ではないと自覚したのは九歳の頃。
適性年齢となった彼女が初めて電脳空間にジャックインした時、一緒に潜っていた友達とは見ているものが微妙に異なっていることに気づいたのだ。
同じ電脳空間に潜っても、周囲の友達は綺麗な花や可愛らしい犬や猫がいると言うが、彼女の目にはそれらを覆うようにして0と1の数列が見えたのだ。
そのことを両親に言うと最初は笑い飛ばされたものの、やがて父親が知り合いからそういう症状の病気があるという話を聞いてきたらしく、彼女は精密検査のために病院へ連れて行かれた。
検査内容は、電脳空間内で見えた数字をなるべく順番通りに読み上げるというものだった。
薫が読み上げた数字とターミナルを見比べながら医師たちは何かをチェックする。
「大方このプログラムのメモリ通りだ」
「ということはやはり……」
しきりに大人たちのひそひそ声が聞こえてくる。
結局入院を告げられた薫だったが、当然のごとく幼い彼女には何の説明もない。
彼女に分かるのは、自分の身に何か恐ろしいことが起きているという漠然とした恐怖だけだった。
「ここがあなたの病室よ」
看護師に案内された病室には先客がいた。短い髪の、薫と同じくらいの年齢の女の子。同年代の子が一緒の部屋の方がいいだろうと、病院側が気を利かしたのかもしれない。
「こんにちは」
そう言って少女が微笑みかけてくる。だけど薫は彼女の言葉を無視した。
当時の彼女には、たとえ同年代相手だとしても誰かと話をする心の余裕は無かったのだ。
他人に見えないものが自分には見える。そのことが何よりも怖かった。
医者も両親も、一体自分の身体に何が起きているのか詳しく教えてくれる人は一人もいない。
自分の身に一体何が起きているのか。そしてこれから自分はどんな目に遭うのか。それが怖くて薫が一人、自分のベッドの上で頭を抱えていたその時、
「ねえ、薫ちゃん」
「か、薫ちゃん……?」
ふと顔を上げて隣を見れば、そこには先程自分に挨拶してきた少女の顔があった。
初対面の、それもまったく話したことが無い子からいきなり下の名前で呼ばれたことに、薫は面食らう。
いやそもそも何故自分の名前を? と思ったところで、ベッドに掲げられた自分のネームプレートが目に入った。
「薫ちゃんは何で入院することになったの?」
あまりにもズケズケとしたその質問に薫は絶句する。聞きづらい質問を初対面でいきなり聞いてくるその神経が信じられなかった。
「……あなた、私の友達か何かだったかしら?」
「え、友達になりたい?」
「そういうことじゃなくて、会って間もないのに随分遠慮なく聞いてくるなと思って」
「うーん、私入院生活が長いからあまりそういうの分からないんだよねえ」
「いや、入院生活が長いとかそういう問題じゃないでしょ……」
一体この無礼な少女の名前は何かと、薫は彼女のベッドのネームプレートに視線をやる。
ネームプレートには『糸衣ハル』と書かれていた。
「ハルでいいよ。同じくらいの歳でしょ?」
その声に視線を少女の方へと戻す。彼女はこちらへと向かってニコリと可愛らしく微笑んでみせた。
そんな少女に苛立ちながらも、薫は額に手を当ててため息をつく。
「……糸衣さん、申し訳ないけど今はあまり人とお話したい気分じゃないの。悪いけど話しかけないでくれる?」
「分かった。じゃあまた後で声かけるね」
「……」
宣言通り、ハルはそれから頻繁に声をかけてくるようになった。
最初の内は無視していた薫だったが、遠慮のないハルから執拗に色々な質問をされる内、気づけば返事をするようになっていた。
きっと彼女は他人の心にするりと潜り込むことの出来る人間だったのだ。
いつの間にやら二人は互いを下の名前で呼び合うようになり、一緒のベッドで肩を並べながらタブレット端末を眺めるようにまでなっていた。
「それはバイナリアンシンドロームって病気だよ」
薫から症状を聞いたハルは、タブレットの検索画面を指さして訳知り顔でそう教えてくれた。
「薫ちゃんの目は人が見られないものを見られるんだね」
「見たくないものよ」
「何で見たくないの?」
「邪魔だし気持ち悪いし、見てると吐き気と頭痛がするから」
「結構大変なんだねえ……」
ハルは感慨深げに言う。
これが他の人間に言われたのなら、きっと酷く腹が立ったことだろう。でもハルはバイナリアンシンドロームよりも更に重い、命に関わる病を抱えていた。
そんな少女に言われたせいだろうか、不思議と薫も苛立ちを覚えることはなかった。
「でもそんな病気なら逆に電依戦で使えそうだよね」
「電依戦?」
「知らない?」
そう言ってハルは薫の手からタブレットを取ると、Webブラウザに検索ワードを打ち込む。
やがてブラウザに電依戦の解説ページが表示された。
「へえ、電脳空間でやるゲームなの」
「そう、自分で組んだプログラムを武器やスキルにして戦うゲームなの。世界中で大会とかやってるの。ちなみに今注目されてる選手はこの人だよ」
そう言ってハルが指差した先には、一人の少女の写真が載っていた。渡瀬葵という人らしい。
「まだ高校一年生なんだけど、高校電依戦っていう大会で優勝してるの。プロ相手にも戦ってるけど、ほとんど負けなしっていうすごい人なんだ」
「負けないなんてあるの?」
「憧れちゃうよねえ」
「憧れるけど疲れそう。だってそれって裏を返せば、絶対に勝たなきゃいけないってことでしょ」
「うん、私もそう思う。いつか心が疲れちゃうよ」
そこで薫は違う方向に話の舵を切ってしまったことに気づく。
「あー……、ごめんなさい。何だっけ? 電依戦?」
「ああ、そうそう。いやあ……私もいつかはやりたいんだけど、今は入院中だからさ」
「別に入院中でもやったらいいじゃない。VRのゲームでしょ?」
やろうと思えば別に病院でも出来そうな気がしなくもないが。
「看護師さんに言ったけど、駄目なんだって。刺激が強いし、ネットにも繋がなきゃいけないからセキュリティが危ないんだって。私のナノポートは治療にも使ってるからさ。だから今だってこうして病院支給のタブレットなんかを使ってるんだよ」
「難儀な話ね」
そう何気なくつぶやいてから薫は慌てて口をつぐむ。
ハルの置かれている境遇をこんな一言であっさりと片付けるのは、あまりにも無礼で申し訳ない気がしたのだ。
薫は恐る恐る隣にいるハルの顔を窺う。だけど彼女は何のことはない、いつもどおりの顔で言った。
「うん、難儀な話なんだよ。ほんと」
ハルの元にはあまり多くの見舞い客は来ていなかったが、一人だけ薫たちと同い年くらいの男の子が頻繁に彼女の元へとやって来ていた。
同年代の男子にしては大人びたような雰囲気の彼は秋名綴と言って、ハルとは幼稚園の頃からの付き合いらしい。
普段は無遠慮な振る舞いの多いハルだったが、唯一、綴の前だけではいつもの彼女はなりを潜めていた。上手く言葉にするのは難しいが、『彼の前だけでは可愛い女の子であろうと振る舞っている』ように見えた。
そんな様子を見ていた薫は、ハルは綴のことが好きなのだと幼心にもすぐに理解することができた。だけど不思議と彼女は自分からその話をハルにすることは無かった。
自分や看護士には決して見せることのない心からの笑顔。それを自然と向けられるこの少年に薫は嫉妬していたのかもしれない。だからきっとわざわざ綴のことを話題に出すようなことをしなかったのだ。
それから時が流れ、やがて薫が退院する日がやってきた。彼女はベッドの上のハルに背を向けながら、黙々と自分の荷物を整理する。
薫の胸の中ではハルと離れ離れになってしまう寂しさと、彼女より後に入院して彼女よりも先に退院することに対する罪悪感がないまぜになっていた。
やがて荷物の整理を終えた薫はハルを振り返る。
いつもと変わらない、ニコニコとした表情の彼女がそこにいた。
そんな彼女を薫はそっと眇め見る。
「ハル……ごめんなさい」
突然謝罪の言葉を突きつけられたハルは、最初何のことだか分からないといった様子だったが、やがてゆっくりとかぶりを振る。
「別に気にしなくていいよ。こんなこと初めてじゃないの。ここに来た子たちは、みんな私より先にいなくなっていくから」
そう言ってから彼女は少しだけ寂しげな顔を見せる。
「最初はみんなメールでやり取りしてくれるんだけどね、その内返って来なくなっちゃうの。仕方ないよね。外の世界はこんな病室より広くて、楽しいことで一杯なんだから」
その言葉と初めて見るハルの沈んだ顔に、薫は目を見開く。
(ああ、そうか――……)
自分と同じ年齢にして、この少女は幾度もの別れと裏切りを経てきたのだ。
それに気づいた瞬間、薫は自分の中に押し留めていたものが溢れ出そうになり、
「ハル」
急いでハルに駆け寄ると、彼女を抱きしめる。突然のことに驚いたのか、少女の小さな身体がぴくりと震えた。
「薫ちゃん……?」
自分を抱きしめる薫に首を傾げるハルだったが、自分を抱きしめる少女が嗚咽を零していることに気づいて困ったように笑う。
「もう、馬鹿だなあ……。そんな顔しないようにずっとこらえてたんじゃないの?」
「うるさい……! 何で私だけ泣いてるのよ……!」
「そんなこと言われてもなあ」
苦笑しながらハルは薫の肩を優しく撫でる。
――やがて薫は、ハルから離れる。
泣き腫らした目を伏せる薫にハルは微笑む。
「落ち着いた?」
「……うん」
小さくうなずいてから、薫は赤らめた顔をハルへと向ける。
「ハルが退院できたらやるって言ってたあれ……何だったかしら?」
「電依戦のこと?」
「そう、その電依戦。私も始める。……だから、いつかまた会いましょう」
「……うん、やろう。約束」
二人は病室で互いの小指を絡めた。
結局、薫の入院生活は病気の治療という面で見てみれば無意味な出費と時間の無駄に終わった。
彼女の生まれ持って備わった力は、最初から医師たちにはどうすることもできなかったのだ。
でも薫にとっては決して無意味な入院などではなかった。自分に備わったこの力をどう活かすべきかを知った。自分のやりたいことが見えた。
そして何より、ハルという最大の理解者ができたのだ。
明日昼くらいに更新予定