第3話 初めましては最悪に
「行ってきまーす!」
ナイロン製の真新しいスクールバッグを肩に、結衣は自宅を出る。空から眩しい日の光が降り注いでいるが、四月も序盤ということでまだ少し肌寒い。
「現在地点から青南高校までの最短ルート表示」
玄関の前でそう言うと、結衣の視界に緑色の立体的な矢印が現れた。彼女はその矢印が指す方向へと歩を進める。
ナノポートが信号や車の多い場所を避け、学校までの安全でかつ最短のルートを示しているのだ。
人々がこの『究極のIoT機器』をその身に宿すようになってから『方向音痴』という言葉は死語と化し、そういった人種は絶滅した。
目の前に『あなたの進むべき道はこちらです』と、ご丁寧に矢印つきで示されて迷う人間などいないからだ。
道中、『98億人と話をしよう』と書かれた自動翻訳ソフトや、ナノポートのセキュリティソフトのAR広告を眺めながら結衣はのんびりと通学路を歩く。
「割と余裕そう」
結衣は視界の右上に表示されている学校への到着予想時間を見てつぶやく。これならば毎朝ギリギリまで寝ていられそうだ。
時々、ワイドショー番組に出ている訳知り顔の老人たちが、『ナノポートによってたしかに生活は便利になったけど、その分、人は怠惰になった』なんて言うけれど、便利を享受しないのは愚かだと思う。それに彼らだって若い時分は、スマートフォンとかいう機械を使っていたことを結衣は知っている。
漠然とそんなことを考えながら歩いていると、やがて前方に建物が見えてきた。
鉄筋コンクリート造の白い校舎。
あれが今日から結衣が通うことになる、県立青南高校だった。
結衣の住む埼玉県川輿市に設置された青南高校は、今年で六十七年目となる伝統ある高校だ。
学校のランクは中の中と中の上との間を彷徨っている程度だが、少子化のこの時代であってもたくましく生き残っている立派な学校の一つだった。
気づけば、結衣の周りには自分と同じように新品の制服に身を包んだ生徒たちがいた。彼らは、やや緊張した面持ちで学校へと向かって歩いて行く。
黒い校門を抜けた瞬間、役目を終えた矢印は結衣の視界から消失し、同時に『ポーン』という心地のいい通知音が彼女の耳朶に触れる。
ターミナルを立ち上げて確認すると、『クラス分け』という簡素なタイトルのテキストメッセージが一件、自分のナノポートに届いていた。
テキストメッセージには、『クラス:一年二組 出席番号:28番 氏名:渡瀬結衣』とだけ書かれている。
一年二組、どうやらそれが結衣のクラスらしい。
同じく校門を通った他の生徒たちにもクラス分けのテキストメッセージが届いているらしく、彼らは自分のターミナルを立ち上げて振り分けられたクラスの確認をしている。
昔は校内にクラス分けの紙が掲示されていて、生徒たちはそれを見て自分が誰と一緒のクラスなのかを確認、一喜一憂するという光景が風物詩だったらしい。しかし現在では、個人情報漏洩や手間がかかるなどの問題があってクラス分けの掲示は廃止されている。今そんな光景を見ることができるのは昔のドラマか、あるいはアニメの中だけだ。
昇降口から校舎に入ると、結衣の視界に沢山のポップアップウィンドウが現れる。
壁には学校からのお知らせが、教室の引き戸には教室の名称がそれぞれウィンドウ内に記載されている。
これらのウィンドウは現実には存在しないAR広告の一種なので、ナノポートの機能をオフにすれば、さぞ殺風景な廊下が広がっていることだろう。
「現在地点から青南高校一年二組までの最短ルート表示」
結衣の声と共に、再び視界に緑色の矢印が現れ、今度は一年二組の教室へと案内する。学校のマップデータは、先ほど校門を通った時にクラス分けのテキストメッセージと一緒に、ナノポートにダウンロードされていた。
案内板も、誰かに教室までの道のりを聞く必要もない。
結衣は矢印の指す方へと足を進めた。
* * *
「ゆ~い!」
一年二組の教室に入って自分の席に着いた結衣は、突然背後から何者かに抱きつかれて肩を震わせる。背中に当たる柔らかな感触と聞き覚えのある声に驚いて振り返ると、そこには一人の少女がいた。
「ヒカリ!」
少女の姿を見た結衣は喜び混じりの声を上げる。
秋元ヒカリ。
日に焼けた健康的な肌と短い髪のスポーティな彼女は、中学三年間ずっと同じクラスであり、結衣にとっては馴染み深い人物だった。
同じ高校に入学していたのは知っていたが、まさかクラスまで同じだとは思ってもおらず、結衣は苦笑する。
「もしかして高校でもまた同じクラス?」
結衣の質問にヒカリも「あはは」と困ったように笑う。
「どーやらそうみたい。なんつーかさー、ここまで来ると呪われてるって気しない?」
「何それ怖い」
そんなふうに軽口を叩きつつも、同じクラスに知り合いがいたという事実に結衣は内心ホッとする。
中学から高校というまったく新しい環境に放り込まれる身としては、何か一つでも変わらないものがあるというのは、それだけで安心することができるというものだ。
「あっ! 結衣の席、窓際なんだ。いいなぁ!」
そう言ってヒカリは窓の方へと駆け寄る。
窓の外にはグラウンドが広がっており、サッカーゴールや鉄棒などが置かれていた。
今日は新入生以外の生徒は休みであるせいか、グラウンドに人の姿は見当たらない。
「窓からグラウンドが見られるなんて、授業中も退屈しなさそう。私ならサッカーの試合とか楽しんじゃうんだけどなぁ」
ヒカリはそう言いながら目を輝かせる。そう言えば彼女は、中学時代三年間サッカー部だったか。
「ヒカリは高校でもサッカー部に入るの?」
「当然。そう言う結衣はどうするの?」
「私? 私は電依部かな」
「ああ、やっぱりそうなんだ」
ヒカリは納得したようにうなずく。
電依部はその名の通り電依戦をするための部活だ。
今や大人の参加者が大多数を占めている電依戦の大会だが、何も電依戦は大人だけのゲームではない。
学生向けの大会も数多く開かれており、電依部の生徒たちは大会でいい成績を残すべく日々部活に勤しんでいる。
結衣とヒカリが通っていた中学校にも電依部は存在しており、結衣はそこに三年間所属していた。
「あ」
ふと何かを思い出したかのようにヒカリがつぶやく。
「そういえば朝のニュース番組で、結衣のお姉さん出てたよね」
「あー見てたんだ」
「うん、見てた見てた。お姉さん綺麗だよね」
「えーそうかな~」
口ではそう言いながらも結衣は、「えへへ」と照れ笑いをする。大好きな姉のことを褒められるのは悪い気がしない。
「でさ、ニュースを見てる時も思ったんだけど高校電依戦ってなんなの?」
「高校電依戦はすごいよ。日本中の高校生が電依戦の頂点を競い合うの。……そうだな、他の部活で言うところの全国大会みたいなものかな」
「あーなるほど」
ヒカリは合点がいったというような顔をする。
期待通りの反応を返してくれた彼女を見て結衣は満足する。こういう説明をすると電依戦にさほど詳しくない人間でも、大抵は理解してくれるのだ。
高校電依戦とは、毎年十一月に開催される高校生のための大きな電依戦の大会だ。
全国でオンラインによる予選大会が行われ、そこで勝ち上がった高校生のみが本選へと出場することができる。
ちなみにこの大会で三連覇を成し遂げたのは、今のところ渡瀬葵のみとなっており、彼女を伝説たらしめている理由の一つとなっていた。
「はい注目~」
不意に前方から女性の声が聞こえる。教室のざわめきが大人しくなる。
声の方を見ると、教壇にはグレーのスーツを着た女性が立っていた。胸元には薄ピンク色のコサージュをつけている。雰囲気からしてどうやら教師のようだ。
「あと少しで入学式が始まるので体育館に移動します。皆さんは出席番号順に廊下に並んでください」
教師の指示に従い、教室にいる生徒たちはぞろぞろと廊下に出て行く。
「出席番号順だってさ。じゃあまたね、結衣」
そう言うと出席番号1番の秋元ヒカリは、急いで教室の外へと駆けていった。
結衣もヒカリや他のクラスメイトに倣って一緒に廊下に出ようとしたその時、
「真島さん」
教師の声が聞こえる。
声の方を見ると一人の少女が教師に呼び止められていた。
「あれって……」
見覚えのある、しかし予想外の人物の姿を見つけた結衣は目を丸くする。
少女は教師と何か話している。
結衣と彼女たちとの間には机三個分ほどの距離があったが、静かな教室では話している内容がよく聞こえた。
「真島さん、新入生代表の挨拶大丈夫そう?」
「はい、問題ありません」
少女の可愛らしく、けれども大人びた声が聞こえてくる。
「そう、もし何かあったら言ってね」
その後、少女と二言三言交わしてから教師は教室を出ていった。
結衣はそっと少女の顔を見る。
白い肌に艷やかな黒い髪、そしてあどけなさの残る顔。
間違いなくサイトの写真で見たことのある顔だった。
「あのー……」
勇気を出して結衣は少女に声をかける。
声をかけられた少女はその長い髪で弧を描きながら、こちらを振り向いた。
切り揃えられた前髪の向こうに見える暗色の瞳が結衣を睨みつける。
「……何か?」
そのまるで人を威圧するような声に、一瞬たじろいでしまう結衣だったが、すぐさま姿勢を正す。
「ええと、真島……透子さんだよね?」
初対面の人間に自分の名前を呼ばれたことに不審感を覚えたのか、少女は胡散臭そうに目を細める。
「私のこと知ってるんだ?」
「もちろん!」
そう言って結衣は両手を合わせる。
おそらく電依戦をやっている学生で彼女を知らない人間はいない。
毎年行われている全国中学生電依戦大会。そこで三年連続優勝を果たした天才電依戦プレイヤー、それが彼女、真島透子だった。
透子の表情からわずかに警戒の色が薄れる。
「もしかして、あなたも電依戦やるの?」
「一応ね」
全国大会の優勝者相手に堂々と同じゲームをしていると言うのも気が引けた結衣は、『一応』という言葉を使った。
透子の長いまつ毛が揺れる。
「ふうん。まあ、同じゲームをやっているよしみでよろしく。ええと……」
「ああごめん、まだ名前言ってなかったよね。私は渡瀬結衣、よろしくね」
そう友好的な笑顔と共に結衣は手を差し出す。
しかし、その手が握り返されることはなかった。
「渡瀬……結衣……」
透子は何かに驚いたかのようにその目を大きく見開くと、結衣の顔を見たまま固まる。
だがやがて目を細めると、敵意のこもった鋭い目で結衣を睨みつけた。
「真島さん……?」
目の前の少女から向けられた突然の敵意に結衣はたじろぐ。自分はただ名前を名乗っただけで、そんな風に睨まれるようなことを言った覚えはない。
「……私、急ぐから」
それだけ言い残すと、透子は結衣の差し出した手を無視して教室を出て行ってしまった。
その場に一人残された結衣は、ただただ呆然と立ち尽くす。
まだ少し肌寒い時期だというのに、彼女の背中を一筋の汗が伝った。