第2話 電依戦
朝七時半、結衣の頭の中でアラーム音が響き渡る。設定しているBGMは、最近お気に入りのアイドルの曲だ。
しかし、いくらお気に入りの曲でも毎朝それで起こされると、段々と嫌いになってくるような気がする。たまには、別の曲にでも変えた方がいいのだろうか。
まどろみの中で、結衣はしばらくそんなことを考えていたが、そうしている間にも頭の中で鳴る音楽は大きくなっていく。
このままでは本当に嫌いになりそうだと、やむを得ずベッドから起き上がり、一つ大きな伸びをしたところでようやく頭の中の音楽は鳴り止んだ。
寝ぼけ眼をこすりながら、結衣は目の前に右手のひらを持ってくる。
彼女の体内の『ナノポート』が登録されたジェスチャーを検知し、手のひらの上に半透明のディスプレイを表示する。
ナノポートは人間の身体に埋め込まれた超小型の機械だ。
世界最小の情報端末としてギネスブックにも掲載されており、『究極のIoT機器』の別名で呼ばれているこの機械は、ネットワークへのアクセスポイントさえあれば知りたい情報を即時取得したり、ナノポートを埋め込んだ人間同士での遠距離間の会話などが可能になる。
ちなみに先ほど、結衣の頭の中で流れていたアラームもこのナノポートによるものだ。
機能としては、まるでかつて存在した携帯電話のようだが、AR技術によって直接視界に地図や広告などを表示することもできる。
結衣が手のひらの上に呼び出したディスプレイは、『ターミナル』と呼ばれているナノポートを外部から操作するためのARコンソールであり、これもAR技術の賜物だ。
ナノポートが日本で導入され始めたのは今より三十年ほど前のことだったが、この十年ちょっとの間に一部を除いてほとんどの個人用端末がナノポートに取って代わられた。
今やナノポートは、ほぼすべての日本国民に導入されており、小学校では義務教育の一環としてナノポートの使い方を教える授業も存在する。
結衣はターミナルを操作して、ナノポートにインストールされているテレビアプリを立ち上げる。ターミナルの画面にテレビ映像が表示された。
『四月五日月曜日、お天気のニュースです。本日の天気は快晴。全国的に過ごしやすい一日となるでしょう』
アナウンサーのクリアな声が、直接結衣の聴覚に訴えかけてくる。
結衣は自分の顔の横にターミナルを固定すると、鼻歌交じりに桃色のパジャマを脱ぎ、真新しい制服に袖を通す。
紺色のブレザーにチェックのスカート、胸ポケットにあしらわれたエンブレムがおしゃれで可愛らしい。
新しい制服に朝からテンションも上がって、結衣は自室に置かれた姿見鏡の前でモデルのように色々なポーズを取ってみる。
だが、貧相な体型の自分がそんなことをしても虚しいだけということに気づいてすぐに止めた。
身体データを常時監視し、欠けている栄養素があれば即座に知らせてくれるナノポートだが、あいにくとスタイルを良くする方法を教えてくれる機能は搭載されていない。
「ま、これから色々と大きくなるよね。まだ成長期だし」
お姉ちゃんだって高校生になってから大きくなったんだ。そう自分に言い聞かせるようにつぶやくと、結衣は少し乱れてしまった髪を整える。
本当はもう少し伸ばしたいのだが、残念なことに自分の髪は傷みやすいようで、肩にかかるくらいまでが伸ばせるギリギリのラインだった。
* * *
部屋を出て階段を降りたところで、結衣は母親と出くわす。
「おはよう」
「おはよ、制服どうかな?」
結衣はスカートの裾をつまんで見せる。母親にはもう何度も見せたはずなのに、ついつい聞きたくなってしまう。
「うん、似合ってるじゃない」
そう言いながら母親は、わずかにずれていた胸元の赤いリボンを直してくれる。
「朝ごはんできてるから食べちゃいなさい」
はーいと返事をすると、結衣は母親の横を通り抜けてリビングへと向かった。
食卓にはトーストと目玉焼きにウィンナー、それとコーヒーが並んでいる。これが渡瀬家のスタンダードな朝食メニューだ。
結衣は、自分の顔の横にあったターミナルを目の前に持ってくると、そこに映し出された天気予報を眺めながらトーストをかじる。
普段ならば行儀が悪いと咎められるところだが、今朝だけは何も言われない。
やがて天気予報が終わり、『ピックアップeスポーツ』というコーナーが始まった。
「お母さん! そろそろお姉ちゃん出るよ!」
結衣は、洗面所にいる母親に向かって叫ぶ。
「はいはい」
母親の興味なさそうな返事が聞こえるが、本当は彼女が一番このコーナーを楽しみにしていたことを結衣は知っている。おそらく彼女も家事をしながら、自分のナノポートでこの番組を見ているに違いない。
結衣は目玉焼きを口に運びながら、食い入るようにしてターミナルを見つめる。
ターミナルには、向かい合う二人の女性が映っている。一人はこのコーナー担当の女性アナウンサー、そしてもう一人が渡瀬葵――結衣の姉だ。
『ピックアップeスポーツのコーナー。本日のゲストは高校電依戦三連覇という前人未到の記録を達成し、現在でも多くの電依戦の大会で活躍されている渡瀬葵さんです。渡瀬さんどうぞよろしくお願いいたします』
『よろしくお願いします』
アナウンサーの紹介に葵は緩やかにお辞儀をする。
彼女は美人に部類されるような目鼻立ちをしており、こうして女性アナウンサーと並ばされてもまったく遜色ない。むしろ身内の贔屓目なしに見ても、姉の方がずっと美人だと結衣は思う。
この放送は全国放送ではあるものの、場慣れしているのか葵に緊張の様子は一切ない。彼女はその優しげな双眸をカメラに向けている。
葵の胸元まである長く美しい髪とスラリと伸びた脚が、同じ両親から生まれた姉妹なのにどうしてこうも違うものかと結衣を悩ませた。
たまに家に帰ってくるといつも野暮ったい格好をしているが、今日は場所が場所だけに流石にそんなことはなく、縦ストライプの黒いスーツに白いシャツという身なりだった。
『それでは早速渡瀬さんに色々とお話をお聞きしたいのですが、その前に電依戦を知らない視聴者の方に向けて簡単な紹介VTRを作成しましたので、まずはこちらをご覧いただければと思います。それではどうぞ』
アナウンサーが合図をすると電依戦の紹介VTRが流れ始めた。
電依戦は、電脳空間で行われる対人戦ゲームだ。
電脳世界の依代である電依を使って戦うことから、電依戦という名称で呼ばれている。
電依戦フィールドと呼ばれる電脳空間が戦いの舞台となっており、プレイヤーはナノポートが提供するVR技術によってこの電依戦フィールドにジャックインすることができる。
このゲームでは、二名以上のプレイヤーが互いに電依戦フィールドにジャックインして戦闘を行う。
システム自体は他のVR対戦格闘ゲームと似ているが、このゲーム最大の特徴が、ゲーム内で使う武器やスキルをプレイヤー自らがプログラミングすることができるというものだ。
プレイヤーは、電依戦を運営する企業『アンリーシュ』から提供される開発環境を利用して電依戦で使うプログラムを書くことになるのだが、開発者の腕前いかんによって使える武器やスキルの性能は大きく異なってくる。
このゲームはバトルセンスとプログラミングスキル、その双方が求められるゲームなのだ。
電依戦の紹介VTRが終わり、再び葵とアナウンサーのいるスタジオへと映像が戻った。
アナウンサーは葵へと向き直る。
『さて今VTRで紹介のあった電依戦ですが、自分で武器や技をプログラミングできるというのは、他のゲームではあまり聞かないシステムですね?』
『私が生まれるより遥か昔には、戦車の動きをプログラミングして戦わせるゲームとかあったらしいんですが、たしかにこういうゲームはあまり見ないですね』
『プログラミングの学習にも非常に効果的なゲームと言えるのではないでしょうか?』
『実際、電依戦は元々子供たちが楽しくプログラミングを学べるようにと、あるプログラマーが作った教育ソフトだったんですよ。それがいつしか多くの人の目に留まって、段々とゲーム性が強くなっていったんです』
義務教育の一環で、四、五十年前と比べて子供たちは、自分でプログラムを書く機会が増えてきた。
しかし、授業で教えてくれるのはプログラミング言語の基本的な文法に留まるばかりで、そこから学んだプログラミングの知識で一体何を作ればいいのか分からず途方に暮れてしまう子供は多い。
そんな彼らにとって電依戦とは、ただのゲームではなく、遊びながら学んだことを活かせる存在でもあるのだ。
『電依戦は世界中で大会が開かれているとのことですが、渡瀬さんはどのくらいの頻度で参加されているんでしょうか』
『国内外合わせて年間八十回くらいですかね』
『八十回ですか』
アナウンサーが驚きの声を上げる。
この数年で、電依戦に関連する大会の数は右肩上がりとなっている。
日付が被っているものや規模などを考慮しなければ、世界中で一年の間におよそ五百近くの大会が開かれているのだ。
『まあ私は仕事をしていないので、多少無茶なスケジュールでも問題ないんですよ』
そう言って葵は、手で口を覆いながら上品に微笑む。
こんな姉の姿は家では絶対見ることはできないだろうなと、結衣は思う。
『他のeスポーツ大会では賞金が出ることが多いですが、電依戦の大会でも賞金は出るんでしょうか?』
『出ますよ。額は大会の規模にもよりますが』
『渡瀬さんは年間八十回も大会に参加されているとのことですから、一年で稼ぐ賞金の額も相当なものなんじゃないでしょうか?』
少し突っ込んだその質問に葵は苦笑する。
『たしかにそうかもしれませんね。でも大会の賞金って、私はオマケ程度に考えているんですよ。いや賞金目当てのプレイヤーはいますし、別にそれを否定する気はまったくないんですけどね』
『賞金が目的ではないということですが、それでは渡瀬さんは、なんのために電依戦を続けているんですか?』
ここでアナウンサーが上手いパスを投げ、カメラが葵一人を捉える。
『試合の中での緊張感、ゲームとはいえリアルな命のやり取り……自分が事前に書いたプログラムにバグが一つでもあれば、それまでどんなに順調な試合運びをしていても己の死に繋がることもある。そういうものの一つ一つがたまらないんです』
それに、と彼女はつけ加える。
『私好きなんですよ。電依戦が』