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比翼の電依戦プレイヤー  作者: 至儀まどか
vol.1 比翼の電依戦プレイヤー【完結済み】
13/55

第13話 好きに命令する権利

 第二ラウンドを迎え、結衣にとってこの戦いの意味はその彩りを大きく変えていた。

 負けられない。勝って証明する。エクエスに相応しいのは自分なのだと。


 力量差、経験差、プログラムの性能差――

 結衣と透子の間にはそういったあまりに多くの差が存在する。でもそれらはこの戦いにおいて、一つたりとも負けていい理由にならないのだ。


 草原に剣と剣のぶつかり合う音が響き渡る。二人の凄烈な打ち合いによる風圧で、草が緑色の羽毛のように舞い上がった。


 打ち合いの中で、結衣は透子の鋭い剣筋に思わず圧倒されそうになる。

 本当に彼女は自分と同じ年齢の少女なのか、本当に十全の体調ではないのか。その両方が疑わしい。


 透子の動きは、初めて部室で戦ったあの時のそれとは明らかに違う。怒りのせいか剣捌きは鋭くなっており、結衣は追い込まれるばかりで反撃の余地は一切ない。こちらは防御だけで手一杯だ。


 その上、結衣はすべての攻撃を防ぎきれているわけではない。

 怒りの中でもなお乱れぬ透子の精妙な剣戟が結衣の頬を、肩を、腕を擦過する。そのたび、結衣の白い肌に鮮血色の傷が生まれた。


「人を挑発しておいてそのザマは一体なんなの渡瀬結衣!」


 防戦一方の結衣に対して透子は嘲笑の言葉を浴びせる。

 挑発は完全に裏目に出た。斬撃の嵐を前に結衣の体力は徐々に、しかし確実に削られている。


 ――このままではジリ貧だ。


 現状を打開すべく、結衣はスキルプログラム【ハックスラッシュ】を放つ。雛乃戦でも用いた上段からの強烈な翡翠色の一振り。

 しかし透子は、それをひらりと横に身かわしただけであっさりと回避する。それでも結衣は止まらない。――それでいい、かわされることは分かっていた。続けざまに結衣はスキルプログラム【ブレードアッパー】を発動しようとする。下段からの逆袈裟斬りだ。


 だがその瞬間、突然結衣の足は地面から離れ、凄まじい勢いで吹き飛ばされる。彼女の身体は草の上を何度か跳ねてから、草原に(わだち)を作ってようやく止まった。

 脇腹に鈍い痛みを感じながら、結衣はよろりと上体を起こす。


 吹き飛ぶ少し前、彼女は見ていた。濡羽色の髪を翻しながら自分めがけて回し蹴りを放つ透子の姿を。


 倒れる結衣に透子は悠然と近づく。


「あなたを殺すのに銃はいらない。そしてスキルプログラムもね」


 地面に倒れ込んだまま、結衣は透子の顔を見上げる。その表情には侮蔑、嘲笑、憎悪――様々な感情があった。


 透子はこちらへと何かを放り投げる。何かは結衣の目の前に突き立つ。それは、蹴り飛ばされた瞬間、結衣の手から落ちた剣だった。


「さあ、剣を振るいなさい。こうなったらあなたにはもう少し苦しんでもらうわ。そうでないと私の溜飲が下がらない」


 まるで「いつでも殺せる」とでも言うように、透子から攻撃を仕掛けてくる気配はない。


 完全になめられている。


 結衣はぐっと喉を鳴らして立ち上がると、絶叫と共に透子に向かって激しく剣を打ち込む。

 それでも透子は涼しげにそれら全てを打ち返した。

 熾烈な打ち合いの中で二人の視線が交差する。その時、結衣は見た。透子の冷めた黒い瞳を。


 ――やはり自分たちの間にある差は覆しようがないのか。結衣の表情が悲嘆と苦しみで歪む。


 そんな彼女の顔を見て透子は愉快げに笑う。


「あはは。ねえ、もしかしてだけど、私に勝つなんて夢見ちゃった?」


 その瞬間、透子の表情はさっと冷たいものになり、これまで受け流すだけだった彼女の剣が攻撃に転ずる。刃が結衣の肩を、腕を鋭く抉る。


「だとしたら余計腹が立つわ」


 冷淡な声と共に、透子の剣戟はこれまで以上の速度になる。

 気づけば二人の立場は逆転しており、結衣は再び防戦を強いられていた。


(やっぱり、私じゃ真島さんには勝てないのかな……)


 確かに自分が透子に勝つなど、彼女の言う通り夢だったのかもしれない。雛乃との戦いで上手いこと行って調子に乗っていたのかもしれない。


 そう考えた時、結衣の首元に向かって透子の鋭い突きの一撃が放たれる。

 咄嗟にその攻撃を剣で防ぐことはできたが、自分を護る盾となった刃は無慈悲にも砕かれた。


 折れた剣先が眼前を舞う。その光景を見て、結衣は目を細める。


 武器を失った。だが新しいアーツプログラムの召喚は到底間に合わない。こうなっては次の攻撃を防ぐこともできない。


 もう、駄目だ。


 勝ち目は、潰え――、


 その瞬間、何故か結衣の脳裏によぎったのは人で溢れかえった会場。そこに設置された大型ディスプレイだった。


(――ああそうだ、思い出した)


 そう結衣が目を見開いた瞬間、異物が腹から背中へと突き出す感覚が彼女を襲う。透子の返す刀が結衣の腹部を貫いたのだ。


 致命傷級のダメージ。


 残されていた体力ゲージが一気に赤色(デッドライン)にまで減少し、わずか数ドットを残すのみとなった。あとは透子が剣を振るって結衣の腹を引き裂けば、それで決着はつくだろう。


「これでおしまいよ――渡瀬結衣」


 その言葉と共に透子が結衣の腹を()っ捌こうとしたその時――、


「何を――!?」


 彼女の表情が驚きに塗りつぶされる。


 突然、結衣が自分の腹に突き刺さった剣を掴んだのだ。

 彼女は刃を握る力を強めると、もう片方の手を振り上げる。

 手には太陽の光を受けてギラリと光る物体が握られている。それは先ほど折られた結衣の剣――その剣先だった。


 その光景に透子は浅く息を呑んで瞠目する。


 気づいたのだ。

 結衣の狙いに。

 そして、これから己の身に降りかかろうとしているものの正体に。


 慌てて透子は、結衣の腹を引き裂こうとする。

 だがそれを結衣は許さない。ソードマスタークラスの筋力で堅く握られた刃は、シンギュラークラスの筋力では動かすことができなかった。


 結衣は片手で腹に突き刺さった刃を握り締めたまま、もう片方の手を透子めがけて振り下ろす。


「チッ!!」


 やむを得なしと、透子は剣から手を離して、その場から逃げようとする。

 それは正しい選択だったが、判断が遅かった。


 結衣の振り下ろした剣先が、吸い込まれるようにして透子の胸に突き立てられる。


「がっ――!!」


 短い悲鳴を上げ、透子の身体はぐらりと草原へと倒れる。刃を握ったまま、結衣も引きずられるようにして崩れ落ちた。


 草原の上に、二人の少女が並んで仰向けに横たわる。


 一人は体中に無数の斬傷がある他、腹には剣が突き立てられている。そしてもう一人の胸には、剣鋒が深々と刺さっていた。

 現実であれば、お互い即死であってもおかしくない状況。

 だが奇跡的にも両者の体力はわずかに残されており、電依戦は未だ続いている。

 しかし、とどめを刺すべき相手が手の届く距離にいるというのに、二人共首から下を思うように動かすことができない。

 システムが二人の負ったダメージに致命傷の判定を下したおかげで、双方共に起き上がることができないのだ。


「ま、まさか……まさかわざと攻撃を食らったっていうの……!」


 胸に刺さった刃を見て、透子は信じられないというように呻き声を上げる。

 剣先を突き立てられる間際、わずかに身体をそらしていたため心臓への一撃は避けることができたが、そうでなければ即死だっただろう。


 結衣は小さく息を吐く。


 賭けだった。

 もしも宙を舞う刃を手にすることができなければ。

 もしもエクエスに対する致命傷の判定が後少し早く、反撃する前に動けなくなっていたら。

 もしも透子に目論見が勘づかれていたら。

 それらの()()()のどれか一つでも現実だったならば、ここに倒れていたのは結衣一人だっただろう。


 それでもそんな行動を取ったのは、


「思い出しちゃったの。お姉ちゃんの最後の高校電依戦を」


 ――葵の三年目の高校電依戦。

 最後の瞬間、葵の剣は天に弾かれた。

 誰もが思った。あの渡瀬葵がとうとう負けると。

 しかし、結局それも彼女の計算の内だった。

 あの瞬間、彼女はたばかったのだ。対戦相手のみならず、会場にいる人間全員を。


 剣先が宙を舞った瞬間、思い出してしまった。

 あの光景を。

 自分にもあの天才と同じ血が流れていたことを。


 結衣は困ったように笑う。


「まあそれでも結局、お姉ちゃんほど器用にも格好良くもできなかったけどさ」

「……よりにもよってあの方法で私が」


 どうやら透子には細かい説明は不要だったようで、彼女は空を見上げたまま、その顔に悔しさを滲ませる。


 海のような青い空を白い雲がゆっくりと泳いでいく。風が横たわる二人の身体を優しく撫でていった。


「ねえ、真島さん」

「…………何」

「真島さん、昔お姉ちゃんの高校電依戦を観に行ったって言ってたけど、その時、お姉ちゃんに頭を撫でてもらったでしょ?」


 なんの前触れもなく、突然結衣の口から出た言葉に透子は驚いたような顔をする。


「どうしてあなたがそのことを知ってるの?」


 やっぱり、と結衣は笑う。六年前、会場で見かけたあの少女は透子だった。この電依戦フィールドで彼女と話している時から、なんとなくそんな気はしていたのだ。


「私、少し離れた場所で二人のこと見てたからさ」


 結衣はそっと瞳を閉じてあの日のことを想起する。


 葵を探して会場を奔走した結衣が見つけたのは、綺麗な黒髪の可愛らしい女の子だった。自分よりも先に葵のところにやって来ていた彼女は、頭を撫でられてとても嬉しそうにしていた。


「私あの光景を見てあなたに嫉妬しちゃったんだ」

「嫉妬?」

「まるで大好きなお姉ちゃんが取られちゃうってそんな気がしたの。……そんなはずないのにね。それでもあの時、お姉ちゃんからあなたが電依戦を始めるって聞いた時は、負けられないって思った」


 幼き日に名前も知らぬ少女に対して抱いた小さな敵愾心。

 それは本当に小さなものだったが、間違いなく結衣が電依戦を始めるための一つの嚆矢こうしとなったのだ。


「真島さんは私が電依戦を始めたきっかけなんだよ」

「私があなたの……」

「だからね、エクエスのこともそうだったんだけど、真島さんには私のことを認めてほしかった。もう二度と『電依戦を辞めろ』なんて言われないように。……でもそれも無理か」


 結衣は視界端に浮かぶ体力ゲージに目をやる。微々たる差ではあるものの、残り体力は透子が上回っていた。

 こうして二人共動くことができない今、後はタイムアップを待つしかない。そうなればこの戦いは自動的に、残り体力の多い透子の勝ちとなるだろう。


 この戦いは結衣の負けだ。


 結衣の言葉に、何かを考えながら黙って空を見上げていた透子だったが、やがて静かに言葉を紡ぐ。


「……認めるしかないじゃない。私はあなたに負けたんだから」

「負けた? でも残り体力は――」

「私は自分より経験も実力もないあなたに、不意打ちみたいな形でこの戦いを挑んだ。その上、勝てる瞬間ならいくらでもあったのに相手をナメて……そしてその挙げ句がこのザマ。それで自分の勝ち? ……そんなこと堂々とのたまえるほど、私は恥知らずじゃないわよ」

「……何それ」


 結衣は思わず吹き出してしまう。


 そんなもの、吹けば飛ぶような暴論。

 この戦いの勝者は、誰の目から見てもデータの上でも透子に違いない。

 ただそれでも、彼女の目には確かに自分の黒星が映っていた。

 そんな、電依戦に対してはどこまでも厳しい透子の態度が、何故だか妙に面白かったのだ。


 不意に透子は表情を変える。それはどこか覚悟を決めたもののようだった。


「負けた私は何もかも間違えていたということ……。ならば私はけじめをつけなければならない」

「……けじめ?」

「私はあなたを騙して電依戦をさせた。私が勝てばあなたからエクエスを奪うと脅してね。特にあなたが勝った場合の取り決めはしてなかったけど、あなたには私に好きに一つ命令する権利がある。あなたが部活を辞めろと言えば私は部活を去るわ」


 最後の方、透子は苦しそうに言った。

 それはきっと彼女なりの最大限のけじめのつけ方だったのだろう。

 だけどそれはなんだかとても不器用なやり方なような気がして――でも金輪際こんな機会はなさそうだし、そんなことを言うなら思いっきり一つ命令してやろうと、結衣は口を開く。


「だったら命令。私と一緒に電依戦を続けて」


 その言葉にこちらを見る透子の瞳が大きく見開かれる。


「私ね、会った時から真島さんのことが苦手だった。初対面の私に対して攻撃的だったし、ロクに会話もしてくれなかったし、途中から仲良くなるなんてもう絶対に無理だと思った。部室で真島さんの姿を見かけただけで気分が落ち込んじゃったくらい」


 出会ったばかりの頃は、彼女の理由も分からぬ理不尽な敵意に困惑して憤ったものだ。

 でも、と結衣は続ける。


「こうして話をしてちゃんと真島さんの気持ちが分かった今、改めて私はあなたと一緒に電依戦をやりたい。私ね、会った時から真島さんと仲良くなりたかったんだよ?」

「………………そんなこと言って、後で私を追い出しておけばよかったって後悔しても知らないから」


 そう言って透子は微笑む。


 そこで結衣は初めて見た。

 嘲笑でもなければ憫笑でもない。優しい彼女の笑顔を。


『警告。プレイヤーのバイタルサインに異常が見られます。ただちに電依戦プログラムを終了してください。繰り返します。プレイヤーのバイタルサインに異常が見られます。ただちに電依戦プログラムを終了してください――』


 突如水を差すかのように、無機質な警告アラートが電依戦フィールドに響き渡った。


「私ね」


 透子がつぶやく。


 ナノポートはユーザのバイタルデータを常にチェックしており、異常があれば警告を発する仕組みがある。


 普段ならばこんなことは滅多に起きないのだが、今の透子は風邪を引いている。加えて先の激しい電依戦によって、彼女の体温や血圧などが閾値を超えてしまったのだろう。


「無茶するからだよ」

「……そうね、誰かさんのせいですっかりヒートアップさせられちゃったわ」


 そう透子は小さく笑う。

 やがて彼女の目の前にターミナルが立ち上がった。




 * * *




 二人が電依戦フィールドから透子の部屋に戻ってきた時、窓の外ではとうに日が沈み、夜の帳が下りていた。

 日が落ちたら自動で点くように設定されていたのだろうか、いつの間にか部屋は照明に照らされている。

 電依戦をしていたのは二十分程度だったが、だいぶ長いことあちらにいたような錯覚に陥ってしまう。


 不意に何かが結衣の胸へと倒れ込んでくる。

 何かと思って驚いて見ると、そこには息を荒くした透子がいた。


「大丈夫!?」


 動転した結衣は透子の肩を掴んでその身体を揺する。彼女の身体は酷く熱を孕んでいた。


「ちょっと……揺さぶらないで……死ぬ……」

「あ、ごめん……」


 静かな抗議の声に冷静さを取り戻し、結衣は透子をベッドに横たえた。

 透子は眉間にしわを寄せて気だるそうな顔をしている。その顔色は、先ほどよりも少しだけ悪そうだった。


「真島さん大丈夫?」

「……あなたの言う通り少し無茶しすぎたかもしれない。まあこんなもの寝てれば治るわよ」

「そっか……ならよかった」


 ほっと胸を撫でおろす結衣。そんな彼女を見て透子は鼻を鳴らした。


「今まで散々冷たく当たってきた人間をそんな風に心配するなんて、本当お人好しにもほどがあるわね。大体今日だってわざわざ家にまで来なくても、私が学校に行くのを待ってればいいのに」

「ごめん。でもこのままだとそんな機会もないかもしれない思って」

「どういうこと?」

「クラスで噂になってたから。真島さんあの日、雨の中を泣きながら走って帰ってたとか、不登校なんじゃないかとか」

「はぁ!?」


 まさか自分がいない間にそんな噂が広まっているとは夢にも思っていなかったのか、透子は素っ頓狂な声を上げてベッドから飛び起きる。


「ちょっと何よそれ!」

「いや、私に言われても……」

「いい? 誤解がないように言っておいてあげる。まず一つ、私は泣きながら走ってない。赤ん坊の頃を除いて、生まれてこの方泣いたことなんて一度もない! それから不登校じゃない。ただの風邪よ!」

「まあそれはそうなんだけど……」


 なんだろう、ちょっと面白い。がなり立てる透子を眺めながら、結衣はこみ上げてくる笑いを必死に噛み殺す。


「こうなったら病院に行って、さっさと風邪治して学校行かないと……」

「え? 真島さん病院行ってないの?」


 そこで透子は苦い顔をして目をそらす。

 よく見れば、ベッドの隅に市販の風邪薬の箱が転がっていた。


「……病院、好きじゃないし」


 ぼそっとつぶやかれた透子の言葉に結衣は呆れ返ってしまう。道理で、医療用のナノポートさえ病院で打ち込んで貰えば、風邪などすぐに治るはずなのにおかしいと思っていた。


「だから一週間経ってもその調子なんだよ!」

「うるさいわね! 行くって言ってるでしょ!」


 そう叫んだ瞬間、透子は激しく咳き込む。

 結衣は慌てて、彼女の背中をさすった。


「大丈夫? あまり大きな声出さないほうがいいよ」

「……このくらいなんてことないわよ。それより、あなたは私の心配よりも自分の心配をした方がいいんじゃないの?」


 透子はベッドに横になると、こちらに含みのある発言をする。

 その言葉の意味がよく分からず結衣は、「へ?」と声を上げた。


「私の風邪が治ったら、あなたには親善試合までの間、私と一緒に戦えるよう死ぬ気で電依戦に取り組んでもらう」

「死ぬ気で……」


 結衣は透子の言葉を反芻し、それから密かに身体を震わせる。

 不思議と結衣には、透子の口から出たその言葉がたとえにも冗談にも聞こえなかった。

 そうだ。先ほどの戦い――透子は決して万全の体調とは言えなかった。風邪を引いていて、あれだけの動きができたのだから、万全かつ本気の彼女は一体どのくらい強いのだろう。


 戦々恐々とする結衣の顔を見て透子は、してやったりというような表情を浮かべた。


「言ったでしょ。『後悔しても知らない』って」

「こ、後悔なんてしてないよ」


 負けじと言い返すが、自分でも声が上ずっているのがよく分かった。


 透子はその長いまつ毛をゆるりと上下させる。


「そう、よかった。じゃあ、そろそろ出ていってもらえるかしら。いつまでもそこにいられても迷惑だし」

「あっ、そうだよね! ごめん、もう帰るから」


 厳しい物言いは相変わらずだなあ、と苦笑しながら結衣は急いで自分の荷物を回収する。

 いつかもう少し透子と親しくなれる日は来るのだろうか。


「それじゃ真島さん、私帰るから」

「じゃあね、()()

「うん、また今度学校で」


 そう言って踵を返し、部屋を出ていこうとした結衣の足がピタリと止まる。

 今の透子の言葉――その最後の方に違和感を覚えたからだ。


「アレ? 真島さん今、私のことなんて呼んだの?」


 ベッドの方を振り返ると、透子は布団から半分だけ顔を出して、こちらに恨めしい視線を送っている。

 心なしか先ほどよりも顔色が赤いような気がする。


「なんで戻ってくるのよ……」

「いやあ、真島さんの口からはあまり聞き慣れない呼ばれ方をしたような気がしたからさ」


 酷い時は「これ」とか呼ばれていたというのに、たしかに彼女は今自分のことを「結衣」とそう名前で呼んだ。


「仕方ないでしょ、葵さんも渡瀬であなたも渡瀬なんだからややこしいし」

 それならば今まで通り「あなた」とでも呼べば解決しそうな気もするが、結衣はそんな無粋なツッコミはしない。

 調子に乗った彼女は先ほどの仕返しとばかりに、ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべる。


「えーそっかー。じゃあ私も真島さんのこと透子って呼んでもいいかな?」

「なんでそうなるのよ」

「だって真島さんだけ私のこと名前で呼んで、私は名字で呼ぶって傍から見てたらすごい変じゃない?」

「…………」


 透子はその質問に対する反論を一生懸命探していたようだったが、やがて諦めたかのようにため息をつく。そして、寝返りを打ってこちらに背を向けた。


「……好きにすれば」

「うん、好きにする。じゃあね、()()


 そう言って結衣は、今度こそ部屋を出ていった。

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