第11話 プールサイドの攻防B
「……さて、渡瀬さんは打つ手なしかな」
プールの上で雛乃は余裕の笑みを浮かべる。
辺りはセミの鳴き声とプールが小さく揺れる音ばかりが聞こえ、それ以外は物音一つしない。
てっきり結衣が、売店の裏からこっそり逃げ出すかと思って警戒していたのだが、どうやら今のところそれもなさそうだ。
とは言え油断はしない。矢を番えたまま、売店の方向に対して神経を研ぎ澄ます。
スキルプログラムで売店を吹き飛ばしてもいいのだが、ここは向こうが再びリソースエッジを使ってきた時のためにリソースを温存しておきたい。
いくら相手が貧弱なスキルプログラムとはいえ、流石にただの弓矢では勝ち目がない。こちらも再度スキルプログラムにて迎撃する必要がある。
実のところ、雛乃の残りリソースは既に半分を切っていた。原因は水の上を歩くために召喚したオリオンの靴。これでも中々リソースを要求される一品なのだ。
となるとここは売店から出てきたところを狙い撃つか、時間ギリギリになるまで待つかしたほうがいいだろう。
無理に現状を崩すつもりはない。崩さなくてもこのまま時が過ぎて時間一杯になれば、その瞬間、わずかでも残り体力が多い自分の勝利となるのだから。
「それにしてもなんか申し訳ないわ。よりによってあたしの持ってるプログラムと相性抜群なフィールドを引き当ててまうなんて」
すっかり勝利を確信した雛乃が「渡瀬さんには一体何をしてもらおっかなー」などと考えていたその時、売店のカウンターから少女騎士が飛び出してくるのが見えた。
「出てきた出てきた」
雛乃は舌舐めずりすると、狙いを定めて矢を放つ。
的確に放たれた矢は結衣の身体を掠め、その肩や腕に薄い鮮血色の傷を作る。だがそれでも彼女は止まらない。そのままこちらに向かってくる様子はなく、どこか別の場所めがけて走っているようだった。
「一体どこに行くつもりなんやろ……?」
結衣の狙いが気になり、雛乃は攻撃の手を止める。
しばらくして、何故か結衣はウォータースライダーの前で立ち止まる。
ウォータースライダーを障害物として使うつもりか? と思ったが、彼女はそのまま上へと続く階段を駆け上り始める。
やがてウォータースライダーの上に結衣の姿が現れた。雛乃は自然とプールの上から彼女の姿を見上げる形になる。
よく見れば結衣は身につけていた鎧をすべて脱ぎ捨てており、黒いインナーだけの格好になっていた。
その無防備な姿に「試合を棄てたか?」と雛乃は少々落胆しながらも警戒を解く。
「何その格好。遊んでるの、渡瀬さん?」
そう声をかけてみるが返事はない。
(まさかその上からこちらに向かってジャンプするつもり?)
一瞬そんなことを考えたが、ソードマスタークラスの筋力であっても、そこからここまで届くとは到底思えない。
それに彼女が見下ろしているのは自分ではなく、ウォータースライダーだった。
* * *
結衣はウォータースライダーの上からプールへと続くすべり台を見下ろす。
すべり台はとぐろを巻いて下まで続いており、その先端はプールに向かって真っ直ぐと伸びている。
「流石に少し怖いな」
これから自分のやることが上手くいくかどうかは分からない。
少しでも成功率を上げるべく、鎧はすべて脱いだが果たしてどうなるか。
もしもここが現実ならば不可能だろう。だけどここは非現実だ。
雛乃はというと、結衣の格好を見て驚き戸惑っているようでこちらを狙ってくる様子は今のところない。ただ、いつ攻撃を仕掛けてくるかは分からずあまり悠長にしている余裕はなかった。
やるなら今しかない。
そう腹をくくると、結衣は鎧の胸当てに片足を乗せて、残りの足でスタート台を蹴る。彼女は勢いよくウォータースライダーを滑走していく。その様はさながらスノーボーダーとでも言ったところか。
何か不穏なものを察知したのか、雛乃は再びこちらに向けて矢を放ってくる。しかし、とぐろを巻いたウォータースライダーを滑る結衣には上手く的が定まらないのか、矢は命中しない。
途中何度かバランスを崩しそうになるが、そのたびに結衣は懸命に体勢を立て直す。
やがてウォータースライダーの終着点が見えてきた。
勢いは十分。
もうここまで来たら後戻りはできない。
「いっけえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!」
結衣は絶叫しながらそのままの勢いで滑走、
そして――、
飛んだ。
ウォータースライダーから。
勢いに身を任せて。
高々と。
胸当てに運ばれた結衣の身体は勢いよくプールへと飛び出す。
そして次の瞬間、彼女の目の前に雛乃の驚く顔が現れた。
「いやそれは流石に嘘やろ?」
そうつぶやく彼女へ、結衣は強烈な翡翠色の一閃を振り下ろした。
* * *
「勝った……」
現実世界に戻ってきた結衣は、震える身体を押さえながら小さくつぶやく。
咄嗟のことにガードする余裕などなかった雛乃に対して、結衣が放ったスキルプログラム【ハックスラッシュ】は、彼女に致命傷級のダメージを負わせた。
雛乃はプールへと沈み、そのまま浮き上がってくることはなかった。
「あたしから一本取るとはやるねー渡瀬さん」
声に気づき正面を見ると、雛乃がニヤリと笑ってこちらを見ていた。あの状況で負けることなど考えてもいなかったのだろう、その笑みには悔しさが滲み出ていた。
「近距離攻撃しかない渡瀬さんじゃ、あそこから攻撃の手段なんてないと思ってたのに意外と度胸のある子だったか」
「いや、アレはギャンブルだったっていうか、もうあんなスリリングなジャンプはごめんというか……」
正直死ぬほど怖かったし、いくら現実世界ではないとは言え、二度とあんな真似はしたくない。
「ほら、そんな渡瀬さんの勇気を称えて、約束通りナノポートに真島さんの住所を送っておいたから」
「あっ、ありがとうございます」
結衣は自分のターミナルを立ち上げて、確認する。
たしかに、雛乃から住所が書かれたメッセージが送られてきていた。
試しにその住所を検索にかけてみると、ヒットしたのは――、
「青南高校学生寮……!」
「私も学生寮に住んでるんだけど、たまたま真島さんが部屋から出てくるとこに出くわしてね。おかげで、彼女が寮に住んでるって知ってたの」
そうだったのか。透子は学生寮に住んでいるのか。
なんだか初めて彼女について知ることができたような気がして、結衣は自分の胸が高鳴るのを感じる。
「ありがとうございます、橘先輩」
「お礼なんていらないよ。それより真島さんのとこ行ってあげなさい」
そう言って雛乃は、結衣の胸元に透子のバッグと傘を押しつける。
「先輩たちにはあたしから言っておいてあげるからさ」
「すいません、おねがいします!」
結衣は雛乃に頭を下げると部室を飛び出した。
そのわずか数秒後、部室に綴と涼の二人がやって来た。
「今出ていったのは渡瀬さんですよね? どうしたんでしょうか?」
「てか今日も真島いねえじゃん」
そんな困惑気味の三年生たちに対して、雛乃は敗者としてやるべきことを果たさんとする。
「まあまあ先輩方、これにはやむにやまれぬ事情があるんですよ」
そう言って雛乃は、なるべくいい感じの顔を作って窓から空を眺める。
「事情……ですか?」
「彼女たちはね、青春の真っ最中なんです」
雛乃の言葉に三年生の二人は同時に顔を見合わせる。
ちょうど野球ボールが一つ、快音と共に空へと浮かび上がった。