前編
郵便受けの中にパール地の上品な封筒を見つけたとき、手に取る前から差出人が予想できて嫌になった。それでも渋々摘まみ上げひっくり返して、明希子はわざとゆっくり息を吐き出した。予想的中がこんなに嬉しくないこともあったのかと、新たな発見でもしたような心地にすらなった。
女子高生という華やかだったのだろう時期、特に情熱を注いだ部活動の、仲間の一人が結婚する。大学生になってからは学期に一度から二度、社会人になってもしばらくは同窓会で会ってはいたし、そこに大学で捕まえた恋人を連れてきてもいた。SNSでもそんな気配を匂わせていたし、だから早晩籍を入れるだろうと、誰もが予想していた。今更驚くこともない。明希子も例に漏れず、また何の異論もなかった。
例えそれが、かつて好意を抱いた男の子であっても。
翔平とは結局三年間、同じクラスにならなかった。六クラスもある学校なうえ、明希子は文系、彼は理系だったから、当然と言えば当然である。それでもバドミントン部内の女子で彼と一番距離が近かったのは自分だと、明希子は自負している。
きっかけは入部してしばらく経った休日。自主練をしに出向いた区民体育館で、たまたま彼と出くわした。
「あれ、あー、神原さん?」
「そ、そう。確か、高塚君」
お互い自信なさげに名字を呼び合い、探るように会話をした。
「家、この辺?」
「ううん、自転車で二十分くらいのとこ。あの、高塚君は?」
「俺も、自転車で十五分くらい」
あいにく最寄り駅は二種類通る電車のそれぞれに別れていたけれど、同じ区に同じ部活の子がいることは、学校で人間関係作りに過敏になっている明希子には、とても心強かった。もっとも当時を振り返ってそんな話をすると、その時にはもうとっくに名前呼びが定着していた彼は目を丸くしていたけれど。
「そうか? 明希子はその時からニコニコしててさ、そんな不安、全然ないかと思ってた」
失礼な、と言って笑いながら、ひそかに思う。あの時、私には君が、神様から使わされた存在にしか思えなかったよ。
男女混合の部活で、時にペアを組みながら、合えば休日に体育館で練習もした。すっかり気の置けなくなった彼のくったくない性格のおかげで、部の仲間たちともほどよく打ち解けることができた。もともと厳しすぎない和やかな部活動だ。先輩たちも優しい人が多かった。学年のまとめ役になることの多い彼のそばにいるうちに、いつの間にか明希子も、中心近くにいることが増えた。
あの時翔平の存在に引っ張られていなければ。思うたびに、明希子の心に懐かしさと苦みが混ざったような気持ちがこみ上げる。
彼のいるあの部は、確かに私の居場所だった。でも、そのことが、今の私にはとても苦しい。
締め切りギリギリまで悩んだ披露宴の出欠届には、結局「出席」に丸をつけて送り返した。
大安吉日。その日はまるで絵に描いたような晴天で、念のため着てきたカーディガンは、すぐに荷物の一つになった。広い控え室に入ると、左奥のテーブルで、明希子の見知った顔が集まって談笑している。近寄っていくと、ふと目線を上げた一人と目が合った。一瞬よぎった驚いたような顔は、すぐに笑顔に上塗りされる。
「アッキー!」
「わー! 久しぶり!」
「久しぶり~、元気?」
「おぉ、神原じゃん!」
「久しぶり~、変わらないね」
「まぁな。そっちは? 今何してんの?」
「つかそもそも、神原は今どこにいるの?」
「東北」
『東北!?』
「あれ、言わなかったっけ」
『聞いてない聞いてない!』
こっちこっち、と椅子を示され、近況報告を求められる。笑みと共に応えながら、当然か、と冷めた心で思う。ここ三年ほど、明希子は同窓会に顔を出さなかった。ちょうど地方への異動の話が持ち上がったので、良い機会だからと受けたのだ。そのことを、翔平と、特に仲良かった数名だけが知っていた。
式が近づきトイレに立つと、その一人がさりげなく追いかけてきた。化粧室で並んだときに、ポツリと言われる。
「今日、来ないかと思った」
「なんで」
鏡越しに浮かべてみせた笑みは、明希子自身から見てもわざとらしさを拭えていなかった。
「来るよ。翔平のめでたい日だもん。私がお祝いしなくてどうするの」
彼女はなおも何かを言おうとして、それでも呑み込んだようだった。そっか、と一つ頷いて、それ以上その話題に触れることはなかった。
引退した日、明希子が翔平に告白したことを、彼女だけが知っていた。
電話越しならば少しは緊張も和らぐだろうかと思ったが、ちっともそんなことはなかった。むしろ沈黙の向こうで相手がどんな顔をしているのかわからなくて、余計に怖くなった。何度「ただ言いたかっただけだから、じゃぁ」と思ってもいないことを告げて通話を切りたくなったことか。それでも答えを聞きたい欲の方が勝って、明希子は通話終了ボタンの周りで指を彷徨わせながら待つ。その耳に最初に届いたのは、とても彼らしい、感謝の言葉だった。
「ありがとな」
その声色で、明希子は既に答えを悟った。
「明希子の気持ちはとても嬉しいよ。本当に。でも、悪い。応えられない」
「……理由を、聞いても良いかな?」
その声が振られた自分よりも明らかに落ち込んでいるようだったから、つい尋ねてしまった。勝算もそれなりにあると思っていただけに気になったのも事実。なぜ聞いたのかと、明希子はいまだに後悔している。
果たして、語られたのは翔平らしい、けれど到底想像つかなかった理由だった。
「……俺には、誰かと付き合う資格がないから」
翔平は確かにそう言った。
「前に告白されて付き合った子がいてさ。でも、俺、告白された事実に舞い上がって、結局彼女を振り回して傷つけて、別れた」
泣かせたんだと、彼は言った。「翔平君が本当に私のことが好きなのかわからない」「告白したのが私じゃなくても、翔平君はOKしたの?」と詰られたと。
「もちろん、俺だって誰でも良いわけない。でも、俺の好意が彼女の恋と釣り合わなかったのは認めざるを得なかった」
その時に決めたよ、と電話越しに静かな声が言った。
「二度と軽はずみな気持ちでOKしたりしない。俺の方が絶対好きだって思える誰かに逢えるまでは、誰とも付き合わないって」
「……馬鹿だよ」
詰まった喉の奥から、絞り出した。
「翔平は、馬鹿だ」
「おう。俺は馬鹿なんだ」
「そんな翔平を好きな私は、どうなの」
「明希子も馬鹿なんじゃね?」
「ひどい」
笑いながら、目元を必死に手の甲で拭う。電話の向こうで彼も笑っていて、そのことがなんだかとても痛かった。
「明希子は俺にとってさ、親友っていうか同志みたいなもんだから。部活を引退しても、そこはずっと変わらないと思う」
だから、引き続きよろしく。その言葉に、不思議と明希子の胸を満たしたのは安堵だった。
そうか、終わりじゃないんだ。
「そう言ってくれて嬉しい。こちらこそ、引き続きよろしく」
じゃぁ、と切りの姿勢に入った明希子に対し、しかし翔平はまだ言葉を続けた。
「明希子は、今たまたま一番近いのが俺だったから俺に好意を持っただけで、他に目を向ければもっと良いヤツが見つかると思う」
それは彼なりのフォローのつもりだったのだろう。硬直した明希子の様子などつゆ知らず、善意の感じられる言葉を吐き続ける。
「俺抜きで男子と話すことってあんまないだろ? 明希子と対一で話してみたいってヤツもいるし」
「……そうなんだ」
ようやく出た声は、意外にも落ち着いていた。でも、そのあとどんな言葉を返したのかは、まったく記憶に残っていない。今度こそ「じゃ、明日」と言って通話を切るなり、明希子は茫然とベッドに倒れ込んだ。携帯が枕の上を跳ねて手の届かないところに転がる。
なんだ、それは。
ただただ、彼の言葉が頭を巡る。
なんだ、それは。
涙は、出なかった。
以来、明希子は「恋」がわからずにいる。