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蜂に刺されたり、痴漢されたりしましたけど僕は元気です
怜悧な眼差し。鼻梁の通った冷たい容貌。
どことなく憂いを帯びた視線──
舞い散る桜色が、彼の姿を押し流してしまう。そのままどこかへ攫われてしまいそうで。
私は、
「────あの」
導かれるがままに、声を出していた。
◆
廊下に飛び出す校舎の窓ガラス全破壊しかけない少年。
絶賛思春期のおれは、羞恥で唸る鼓動に急かされるがままに廊下を進んでいた。
人通りが増えている。
もう入学式の時間が近いのだ。
今の時間を確認しよう。とっくに型落ちしたスマホを取り出すと、ちょうど通知に震えた。
メッセージが届いたトークアプリに画面をスライドさせる。
『もうそろそろ着くよん♪』
語尾に♪ですか母君。不気味だ。絶妙なウザさ。
鬱陶しく思う気持ちはあるが、実の母親なんだ、邪険にしても仕方ない。内心を押し殺し、画面をてしてしとタップして返信する。
『は?』
しまった! 押し殺せなかった悪意がにじみ出てしまった!
反省しましょう。家族だって他人なんだ、気を遣わないとね。
『まゆるんも狂って♡』
誤字。狂ってではなく、正しくは来るって。
相変わらず機械に弱いみたいで安心した。その調子でアナログを貫いてもらいたいところ。……って、妹も来るのか?
「……」
大丈夫だろうか。両親とはぐれて道に迷ってしまわないか。迷った先々で悪い大人に騙されないか。なんやかんやあって南米に飛ばされやしないか。
不安が濁流となって押し寄せる。
ダメだ。我慢できない。
まゆりの連絡先に電波をビビ☆と送信。一秒と待たず遮断された。
「なん……だと……!?」
繋がりもしなかった。
まさかの着信拒否。反抗期ってやつか? 身近な人間に反感を覚えるアレか? なんて恐ろしい人間に……!
恐怖に震えた。戦慄のアキオである。
……繋がらないなら、これ以上干渉するのはやめておこう。
ため息への誘惑を断ち切り、スマホをしまった。
教室に戻ろう。あの珍事による熱気も、多少は治まっている頃合いに違いない。
踵を返した、そのときだ。
「……ないよぉ! 生徒手帳ないよぉ!」
……幽かな悲鳴が、風に流されてきた。
悲鳴の先を辿る。
薄い色合いの髪、陶磁を思わす肌。
一見すれば、女のような顔立ち。しかし──男子用の制服が彼の性別を語っている。
小柄な体格もあって、人形めいた印象を覚えた。
「あの、どうかしましたか?」
「っ!」
おれ、声をかける→少年逃げる↓
少年逃げる←おれ、面白がって追う
「な、ななな……!」
「話だけでも聞いていきませんかー?」
「い、いいよ! ぼくにかまわないで!」
「……おれの名を言ってみろぉ!」
「し、白羽秋生!」
「いやなんで知ってるのっ!?」
面識なんてないはずだぞ!?
驚愕が俺の足をその場に縫い留めた。
しまった、真相を正す前に逃げられる……!
不覚! と走り去っていく少年を見つめる。
けれど、少年は膝をついていた。あれー?
「つ、疲れた……!」
「体力無さすぎでしょ」
「ごめん……ちょっと肩を貸して」
「あたぼうよ」
肩を差し出すと、華奢な腕を首に回して身体を預けられた。
身長差のせいで少年の身体が浮いている。
……紫水晶の双眸が、俺を見上げていた。
「ありがとう……」
少年特有の掠れた声は、どことなく艶を帯びている。
ちょっと走っただけで息切れしている。肩を上下させていた。
呼吸を整える胸には、青いラインが走るネクタイ。このラインは、学年ごとに色が異なるんだっけ?
新入生のおれは赤。馬鹿な、このショタ、先輩だぞ?? てっきり同学年かと。
「いえ……ところで、どうして名前を?」
「新入生の男子は全員把握してるんだ。僕、生徒会だから」
なんと。男子の情報を網羅しているとな。
しかし、生徒会とな。媚び売るか、それともゴマを擦るか……。
そんな打算塗れの思考などつゆ知らず、先輩らしき少年はキラキラと純真な瞳でおれを見ている。
「この学校は比較的男子の数が多いから、きっとキミも気楽な生活を送れるはずだよ」
「そうすか? ところで、先輩の名前は……」
「あ、ぼくは乙野飛鳥。改めて、よろしくね」
「乙野パイセンすね、オナシャス」
下っ端根性丸出しな挨拶を、乙野先輩は朗らかな笑顔で迎えた。
寛容だなぁ。身体小っちゃくても人間としてでかいよ。
「そういえば、生徒手帳探してましたよね?」
「そうなんだよ。見当たらなくって」
「自分、心当たりありまっせ」
「ほ、本当っ!?」
彼の表情に笑みが咲いた。
反対におれは、どうも暗い面もちであった。
先輩の生徒手帳を持っているであろう人物──深瀬やよいの顔が、脳裏に浮かんだから。
この、純真無垢な先輩を毒牙に曝すわけにはいかない。
出会って二分で、おれの心は先輩に対する父性で満たされていた。
「クラスメイトが生徒手帳を持っていたんですよ」
「え、新入生なのに? そっか、きっと拾ったんだね」
生徒手帳を配られるのは、入学式を終えた後。現時点において、新入生は決して持たざるものなのだ。
紋所代わりに生徒手帳を掲げていた深瀬さんを思い出す。
テンパっていたが、冷静な今ならば理解できる。犯人は彼女だ(暴論)
「……そろそろ、肩の貸出期限が過ぎそうですよ」
「ご、ごめん……」
乙野先輩が慌てて身を離した。
ほとんど囁くような距離で会話していたのだ。どうだ驚いたか。
「お役に立ててなにより。それじゃ、自分はこれにてドロンさせていただきます」
「うん。……遅れたけど、入学おめでとう。ほんの一年だけ先輩だけど、キミを歓迎するよ」
「よきにはからえ」
尊大な口調で別れ、校庭に急ぐ。
──その背後を追う、紫水晶の視線に気づかぬまま。
「いい子だね……彼、ちょっと楽しそう」