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春を迎えて、生活に大きな変化があった。
受験戦争を経て、無事に第一希望の〝熊丑高等学校〟に合格した事。
進学を機に独り暮らしを始めた事。……これは、妹の『部屋を確保したい』という謀略によりもの。実家は狭く、先月まではおれと妹との共同部屋で過ごしていた。ところが、まゆりが両親を誑し込んでおれを家から追い出したのだ!
知り合いにアパートの大家さんが居なければ、おれは今頃行く当てを失っていたかもしれない。格安な家賃で済んだのは僥倖だったと言える。
仕送りは十分だし、浪費をしなければ問題なく暮らせるだろう。
新生活。不安や心配は尽きないけれど、それを吹き飛ばすぐらいの期待が大いにあった。
人生の転機に、何かしらの変化が起きるかもしれない。
けれど、その期待はあまりにも予想外の方角から裏切られるのだった。
◆
逸る気持ちが、おれを早朝に登校させた。
まだ七時半。校門は閑散としていて、校舎に喧噪はない。
親が来る生徒は、八時頃にやってくるはずだ。
昇降口に向かうと、入り口の掲示板にクラス表が張り出されているようだった。
クラス表には、ズラリと名前が並んでいる。
これからクラスメイトとして生活を共にする学友だ、同じクラスの生徒ぐらいは確認しておくべきだよな。イカれたメンバーを紹介するぜ!
冗談を心の中で転がしながら、文面を視線でなぞっていると、
「……うわ」
苦々しい声が漏れてしまった。
〝深瀬やよい〟
知り合ったばかりの少女の名前があった。
真面目な印象だけど、どうにもパニックになりやすい性格みたいだし、付き合い大変そう。
「いけないな、先入観」
混乱していたなら尚更、先ほどの邂逅で彼女の全部を見抜けたはずもない。
素朴な顔立ちだけど、よくよく思い返せば結構可愛かったし、おれとしては仲良くしたいところだ。……さすがに、イカれたメンバーだったら御免被るけれど。
雑念を別の意識に追い払い、下駄箱で新品のスリッパに履き替えた。浮足立った足取りで誰もいない廊下を歩く。
一年C組。
教室の扉から室内を覗くと、三人ほど人影が見えた。
話し声は聞こえない。中学の同級生でもいれば嬉しいが、地元から離れた高校である以上、ここに進学したのは少数だろう。あまり期待していないのが本音。
むしろ、全く新しい環境を望んでいたからこそ、この高校を選んだんだ。
「……」
扉を開くと、三人分の視線が集中した。
初々しい制服姿の女子。
まだ男子はいないようだ。さっき確認した限りでは、女子三十人に対して男子が十人という珍しい比率だし、少数者同士仲良くやりたいな。
「おはよ」
軽く手を上げて、面々に挨拶する。
……総じて神妙な面持ち。何だ、葬式にでも向かおうってツラじゃないか。
かと思えば、真っ赤になった顔で俯いてしまう。
「……お、おはよう」
絹糸のようにか細い声が返ってきた。
「一年間よろしく~」
雑に手を振り、宛がわれた席に座る。
入学式は八時半。まだ一時間近く残っている。
暇つぶしがてら持参した本でも読もうとしたんだけど……
「……」
「「「……」」」
肌に感じるほど視線がおれに向いている。
一挙一足を観察されているようで、どうにも落ち着かない。
視線を合わせようとすると、決まって逸らされた。
ど、どういうことなの……?
縋るように首を巡らせる。
そういえば、深瀬さんがいない。同じクラスだったし、先に学校に着いたと思うのだけれど……この空気を壊してくれるのなら、深瀬さんにだって魂を売るぞ!
「おはよー!!」
快活な声が鳴り響き、勢いよく扉が閉められた。
何奴!? と扉に振り返る。
「お、男子いるじゃん! アタシ日向葵! 末永くよろしくね!」
ずかずかと距離を詰められ、アーモンド形の瞳がおれを覗き込んだ。
明るく染め上げられた茶髪、吊りあがった眦には薄いアイシャドウ。通った鼻梁の下に綺麗な白い歯を浮かべている。
派手目なギャルが、俺を見ていた。
まっすぐ見てくる彼女に、茫然と瞬きをする。
「ええと、よろしく日向さん。早速で悪いけど、ギブミー命」
「い、命っ!? そんな、いつか捧げる覚悟はするつもりだったけど、出逢って三秒でなんて早急だよ~!!」
「おおっと、冗談が通じるタイプじゃない生真面目さんでしたか!」
見誤った。人は見た目で決まらないね案外!
ファーストコンタクトでおふざけ噛ますのはよろしくなかった。あらぬ誤解を相手に与えてしまった。覚えておきます。それを今後に活かすかは別として。
「アタシのことはサニーって呼んでね。ハニーならぬサニーだよ」
「おまけに冗談下手くそと来たか……」
強敵登場だな?
中々の曲者だ。久しく困惑を覚えているぞ。こんな感覚、深瀬さん以来だ。
「あ、ちなみにちなみに! 常夏って感じのアタシですが、実は冬生まれなんだよね!!」
「それは衝撃だ。何ていうか、日向さんは元気でよろしいですね」
小学生の通知表に書かれる平凡な評価を告げると、日向さんは頬を紅潮させた。
すると、赤らめた頬に両手を添え、腰をくねらせながら、ぶつぶつと何やらを呟く。
「す、すごい包容力……うう何だろう、太陽なのあなたは? ひょっとしてアタシの太陽? ううん、ひょっとしなくともアタシの太陽だよね……?」
ずずいっ、と更に顔を寄せられた。
おれの両手を柔らかに包み、潤んだ瞳でこちらを見つめてくる。
「すきぃ……」
感極まった表情。恍惚とした瞳は、間違いなくおれだけを映していて。
「ええと、お友達からでよろしくね」
接近してくる唇を人差し指で押しとめる。
ぷにと、指先の柔らかい感触で全身の血液が顔に集まっていくのを自覚した。
「そ、それはAからDのどこまで許してくれるの!?」
「ちょっと付いていけないんだけれど。というか、喋るついでに指舐めないで」
「平気! アタシも初めてなんだけど、アタシ達きっと上手くいくよ!」
取り付く島もなかった。
おれの声は届いているのか、それとも無視しているのか。
日向さんは出逢って二分でおれに求愛し始めたのだった(自惚れ)
「ええい鎮まれい鎮まれい!」
今度は何だよ……!?
目前の少女で手一杯なんだけど! 時代錯誤な声は、教室に現れた深瀬さんが響かせたものだった。他の女子は目まぐるしく変転する状況に当惑している。
「この紋所が目に入らぬか!」
「それは……! ……ウチの校章じゃないか!」
深瀬さんが取り出したのは、何の変哲もない生徒手帳。
だから何なんだよ……!
一瞬考えて、思い至る。
さっきみたいにテンパっていらっしゃるんですね。
「ダメ! ダメだよ葵ちゃん! 手を出したらアウトだよ!」
深瀬さんが暴走状態の派手ギャル型別嬪兵器・処女機を羽交い絞めにする。その際、目前で制服の解けた谷間の領域が視界に飛び込んできて、おれまで暴走しそうになってしまう。彼女の豊潤な香りと胸とで世界がやばかった。
「セーフ! まだセーフだから!」
「間違いなくアウトラインよ!」
「離してやっちゃん!」
委員長な深瀬さんと、ギャルな日向さん。
似ても似つかぬ二人だけど、口ぶりからして二人とも知り合いなのかも。それもかなり親密な。
「よし、二人ともそのままキャットファイトを続けて。おれは自爆する」
「じ、自爆っ!?」
「自縛なんてそんな卑猥なっ! まだ朝の八時だよっ!?」
「こ、怖いぞその解釈は!」
背後を疼かせる悪寒に従うまま、おれは狂犬と化した日向さんから逃れるべく教室を飛び出した。
……確かに、変化は望んでいたけれど。
もっと、こう……あるだろう……!!!!
すきぃ……