序
成長すれば、見えるものも増えるとばかり思っていた。
まだ微睡みにある意識で、ぼんやりと考えていた。
通学路である桜並木の道。
白い光を受けて揺らめく桜の色彩。起き始めたばかりの空色。
まだ真新しい光景も、毎日の通学で色褪せていくのかと思うと、少し寂しい想いになる。
確かに、見えるものは増えた。けれど、目に見えたモノに対しての感動だとか、衝撃だとか、そういうのが錆びついていってる感じがする。
このままではつまらない人間になるのかも。
何となく、焦燥が胸にあった。
人生をもっと謳歌しなきゃ。恋愛や部活、何か目標に向けて突き進むべき。
そんな青い感情。
「……でも、な」
思わず零れた言葉を慌てて塞ぐ。
つまらないものはつまらないんだ。
こんな涙が出そうになるくらい下らない戯言。耳を傾ける必要はない。
「……うん」
要するに、どう感じるか。
──クオリア、という言葉がある。
人間が、現実世界に対する内観。人それぞれの物の感じ方を哲学的に分析した概念。
自分が思うことで、世界は簡単に色を変えてしまえるのだ。
正直な話、おれは変化を求めていた。
進学だとか一人暮らしだとか。
そういう、統計的というか普遍的みたいな変化じゃなくって、おれの世界を根本から壊してしまえる、心躍る変化を。
「あの、あなたも〝熊丑〟?」
突然、背後から掛けられた声が、おれの意識を現実に引き戻した。
肩越しに振り返る。
つぶらな瞳。真面目に編んだ三つ編みの黒髪。こっちが心配になってしまうほどの危うい小さい体。オドオドと、彼女はおれを見上げていた。
「……そうだよ、おれも〝熊丑〟の入学生」
「ほんと? 嬉しい」
「ひょっとしなくても、君も今年からだったり?」
「そ、そうなの」
「そっか、よろしくね。おれは白羽秋生」
ゆるりと左手を差し出した。
友好の証、握手だ。
……けれど、彼女は身体ごと固めて、おれの手を見つめるばかり。
突き刺さった視線に居心地の悪さを覚えて、首をひねった。
「ええと……?」
「あ! ご、ごめんなさい! わ、私は深瀬やよい!!」
猛烈な勢いで頭を下げたかと思えば、深瀬さん? はおれの手を力強く握り返してきた。
これから試合でもしようかってくらいの気合の張り様だ。
「……ッ!」
華奢な女の子が持ち合わせているとは思えない剛力。
意地で声こそ上げなかったけど、呻き声が漏れた。
途端、深瀬さんは身を離し、キツツキもかくやという動きで頭をぶんぶん下げた。 すげえ勢いだな、風圧でスカート捲れないかな。
「ご、ごめんなさいっ!!」
「へーき、へ、へへ……」
笑顔を浮かべたつもりが、痛みで頬が引きつった。
握られた左手をぶらぶらと振り、痺れを抜いていく。
「凄く力強いんだね、深瀬さんって」
やべ、嫌味になったかな。
おれの心配は杞憂だった。深瀬さんは目に見えて混乱しており、おれの言葉は正しく伝わっていなさそう。
顔や手、なぜか股の間から謎の液体が滲んでいる。パントマイムめいた滑稽さを彷彿とさせる動きで、彼女はわちゃわちゃと捲し立てた。
「そ、そっそうでもないんだよ! むしろ平均以下っていうか! あ、こんなこと言ってもしょうがないよね! ごめんね、時間取らせちゃって! それじゃ私走るから────!!」
それからの動きも早かった。
地を蹴り、綺麗なフォームで深瀬さんは走り出す。
風を切り裂き駆け抜け、深瀬さんの後ろ姿はあっという間に消え去ってしまった。
死ぬしかないなー! と、彼女の可愛らしいが悲痛に満ちた声が通学路に残った。
「一体何だったんだ……??」
一際強い朝風が、辺りの桜に吹雪を散らせる。
おれの胸中に正体不明の感情が起きた。
その意味を探すように、おれは周囲を見渡した。
「これは……」
視線が止まる。
通学路の石畳に点々と続く水の跡。
彼女がまき散らした謎の液体だ。すごいな、足跡代わりになるとか。ヘンゼルとグレーテルかよ。
「なるほど、なるほど……!」
頷き、顎先に手を当てた。
いや、本当どういうこと? さっぱりわからない。深瀬さんの錯乱ぶりは、ますます意味不明になった。
「ある意味、衝撃だったかも」
……ひょっとしたら、おれが求めていた変化が、彼女だったのかもしれない。
劇的な、恋の予感的なあれ。
綺麗なエピローグでまとめてしまおうとしたけど、中身が謎過ぎてちっとも締めくくれない。
──というわけで、真のエピローグ。
変化はまさしく劇的だった。
この入学式の朝を契機に、おれの世界は先日までとは全く異なる世界に変わったのだ。
個人の価値観、社会の仕組み。
まるごと全部、ひっくり返った。
男女比や男尊女卑は逆転し、真逆の貞操観念が世界に蔓延している。
そんな、あべこべな世界のフタを開くのは、少し先。
「……柔らかかったのか、あれ」
今朝はただ、思ってもみなかった女の子との出会いに、柄にもなくドキドキしているだけ。今後は、別の意味──主に恐怖的な意味合いで──ドギドキするようになるのは、まだ知る由もない。