1章 (5)
その日綱成は、子飼いの忍びである糸月からの報告の場に、多目元忠も同席させた。腹の座った者であれば、現状を知っておいた方がいいというものだ。綱成はそう考えた。
多目元忠も、喜んで同席した。ただ糸月は難色を示した。忍びはとにかく、仕えている人間以外を信用しない。多目元忠の姿を見た糸月は、しばらく口ごもり、綱成が促しても口が重かった。
「いいから話せ。口ごもるのは時間の無駄だ」
綱成が少しいらついた表情で糸月をせっついた。これが3度目だ。そこでようやく糸月が気持ちにふんぎりを付け、明確な口調で話しだした。
「放った忍びが小田原から戻りましたが、情勢はより悪くなっております。三代氏康様が今川勢と対峙しているのはご承知と思われますが、その今川に、武田勢が付きました」
糸月の言葉に、多目元忠がすっと目を細めた。綱成は腕を組んで目を瞑っていたが、肩がぴくりと動いた。百戦錬磨の綱成でさえ、動揺を完全には隠せないのだ。
有力大名の今川義元に武田信玄が付けば、小田原城そのものが危ないと言ってもいい。もちろん武田は単に横やりを入れてくる程度で、全精力をかけてくることはないはずだ。関東の雄、武田信玄が新興勢力の後北条などにわざわざ全軍をあげてつぶしにかかるなど、到底考えられない。しかしそれでも、二大勢力と対峙することになったのは事実だ。そのような緊急時に、とても小田原城の守備を薄くするなど考えられない。後北条家当主の氏康が武蔵のことなど構えるはずもないことは、だれもが分かることだった。
「これは援軍の期待は捨てた方がいいな。それでどうする、勝ち目がないのなら、城を明け渡すというのも一つの手だぞ」
綱成が、重大な内容を気やすい口調で言う。しかし軽く言ったがために、より相手に重く響いた。
「明け渡す、と言われるのですか?」
元忠の方は重く問う。細めた目が、思わず見開いた。
「勝機がないのなら、それが最も犠牲が少ない対応策だろう。ただ、相手が受け入れるかは分からないがな」
戦巧者綱成の、すぐれた決断力の表れた言葉だった。同じ負けるのなら、まだ被害の少ない方法を、という。
そして続く言葉も、綱成の洞察力を語っていた。勝利は間違いないと思っている相手に、交渉事が成立する見込みは薄かった。100パーセント総取りできる者が、折れなければならない要素はひとつもない、ということだ。
それでも、そのような不利な状況であっても、降参するのであれば早ければ早いほどいい。それだけ受け入れられる確率は高いはずだった。
綱成は、肩に3000という数の兵の「生」を背負っていた。戦えば、ほぼ確実に、全滅する。しかし無条件に明け渡し、相手が受け入れれば、ある程度の人数は助かることになる。
「明け渡し、です、か……。」
元忠の声は苦しそうに掠れていた。
「それしかないであろう」
綱成は対して軽い。苦渋は腹に押し込めているのだ。
「では、勝機があると言いましたら、どうされますでしょうか?」
元忠が顔を上げて発した言葉にその場の2人が打たれたように首を向け、視線を受けた元忠はわずかに頷いた。






