1章 (4)
戦国時代の出来事で多く語られ、関心を集めるのは、まずなにより「関ヶ原」と「本能寺の変」だろう。それらの出来事には、徳川家康、織田信長と歴史上の主役が関わっていることもあるが、なにより、起こるまでの背景が分かりやすい。
本能寺の変で織田信長が殺害されたときからたった36年前に起こった関東の大激戦、河越夜戦も多く語られて不思議のない出来事だ。しかし関わった当事者の知名度が低く、そしてまた、起こるまでの経緯が複雑だった。
ごく分かりやすく記せば、以下のとおりとなる。
室町時代を通して、関東には足利将軍家から、足利の長を置いていた。そこに、西から上杉家が下って足利家のサポートの地位に就いた。
足利の「関東公方」に、上杉の「関東管領」。その形で、関東はしばらくの間、統治されていたが、室町後期になり、足利と上杉が仲たがいし、さらに上杉家そのものも2つに割れる。権力が入り乱れた状況となり、その状況を衝いて、小田原から勢力を拡大した後北条が武蔵の地に入り込む。そして2つに割れた上杉家のうちの1つ、扇谷上杉家の本拠地である河越城を、手に入れてしまう。
江戸城、松山城など武蔵の城がすべて後北条に渡るに至って、ようやく足利、山内上杉、扇谷上杉の強大3勢力が結束する。元々の統治者だけあり周囲の大名も呼応し、河越城への攻撃陣が八万に膨れ上がる。
一方、後北条は、城に籠る三千が孤立する。この動乱を好機と見て、今川と武田が小田原を攻める姿勢を見せたので、後北条の本家が河越に援軍を送れなかったからだ。
新興勢力の後北条を、既存勢力が寄ってたかってつぶしにかかる。それが、この圧倒的に数的不利な一戦となる背景だった。