表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
晦冥戦記 (臆説・河越夜戦)  作者: 曠野すぐり
後北条家
4/12

1章 (4)



 戦国時代の出来事で多く語られ、関心を集めるのは、まずなにより「関ヶ原」と「本能寺の変」だろう。それらの出来事には、徳川家康、織田信長と歴史上の主役が関わっていることもあるが、なにより、起こるまでの背景が分かりやすい。


 本能寺の変で織田信長が殺害されたときからたった36年前に起こった関東の大激戦、河越夜戦も多く語られて不思議のない出来事だ。しかし関わった当事者の知名度が低く、そしてまた、起こるまでの経緯が複雑だった。


 ごく分かりやすく記せば、以下のとおりとなる。


 室町時代を通して、関東には足利将軍家から、足利の長を置いていた。そこに、西から上杉家が下って足利家のサポートの地位に就いた。

 足利の「関東公方」に、上杉の「関東管領」。その形で、関東はしばらくの間、統治されていたが、室町後期になり、足利と上杉が仲たがいし、さらに上杉家そのものも2つに割れる。権力が入り乱れた状況となり、その状況を衝いて、小田原から勢力を拡大した後北条が武蔵の地に入り込む。そして2つに割れた上杉家のうちの1つ、扇谷上杉家の本拠地である河越城を、手に入れてしまう。


 江戸城、松山城など武蔵の城がすべて後北条に渡るに至って、ようやく足利、山内上杉、扇谷上杉の強大3勢力が結束する。元々の統治者だけあり周囲の大名も呼応し、河越城への攻撃陣が八万に膨れ上がる。

 一方、後北条は、城に籠る三千が孤立する。この動乱を好機と見て、今川と武田が小田原を攻める姿勢を見せたので、後北条の本家が河越に援軍を送れなかったからだ。


 新興勢力の後北条を、既存勢力が寄ってたかってつぶしにかかる。それが、この圧倒的に数的不利な一戦となる背景だった。

 

 




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
cont_access.php?citi_cont_id=581143448&s
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ