1章 (3)
天文15年(1545年) 晩秋。
後北条はここで絶えてしまうのだろうか。北条綱成は子飼いの忍び、糸月に敵勢の報告を受けてから、この思いが離れない。動揺など決して外には出さなかったが、心の奥底では絶望感に打ちひしがれていた。
―― 8万対3千、か……。
籠城戦は数的不利を補えるという。しかしその数にも限度がある。25対1という比率では、持ちこたえられるはずもない。
綱成は、仕える後北条家三代目の北条氏康に、当然のことながら援軍要請をしている。糸月が選びぬいた脚力自慢を小田原に飛ばしているのだ。しかし氏康からの返答は「時を稼げ」というものだった。今は、来ようにも来られない。後北条の本拠地である小田原城が、今、西から今川に狙われているところだからだ。河越に援軍を出せば小田原城が手薄になり、好機とばかりに今川勢が攻めてくる。
「時を稼げと言われても、な……」
綱成は一人、ため息をつく。戦巧者の豪傑なので、ため息もまた大きい。小田原城の状況は重々承知しているが、それでも義理の兄である三代氏康の短い返信に、つれないという思いを持ってしまう。
それでも城守としては、不安顔を見せるわけにはいかない。綱成は不安顔な家臣たちに安心しろと声をかけ続けた。綱成のおおらかな挙動と野太い声は、すぐさま彼らの心の支えとなった。もとより武の実績充分で、ここまで連戦連勝の男なので、その声掛けは尚更威力を発揮する。
そしてまた、技も使う。秘策があると、付け加えるのだ。その一言により、不安を取り除くだけでなく、期待と展望を生む。蒼白な家臣たちの顔が、一人、また一人と血色がよくなっていく。
まず、士気の点では好転したと、綱成は安堵した。
しかしそれだけだった。家臣の士気が上がるにつれ、綱成の心は反比例して沈んでいく。秘策がないのだから当然だ。のちの崩壊への心配を先送りし、綱成ただ一人が背負う形となったにすぎない。
その綱成の声かけが不要な男がいた。初代北条早雲の頃より仕える多目家の、元忠だ。綱成は多目元忠にも同じように、声をかけようとした。しかし顔を合わせた瞬間、その表情に不安の色が微塵も滲み出ていないことを掴んだ。この男には激励の言葉など必要がないじゃないか。綱成は言葉を呑み込み、ポンと肩を叩き、頷くだけにとどめた。
ところが驚くべきことに、多目元忠の方から激励の言葉がかかった。
「心中お察しします。小田原からの救援も期待できず、絶望的な状況のなか、それを押し隠して皆の者への激励。感銘しております。これは当主氏康様から信頼が厚く、そして闘将と敵から恐れられる綱成様だからこそでき得ることでしょう」
綱成はどういう表情を浮かべてよいものか迷った。
本音では、分かってくれたのかと、思わず手を取りたいところだった。しかし今は、いついかなる時も気持ちをさらけ出すわけにはいかない。否定も肯定もせずに押し黙った。