BLOOD STAIN CHILD ~bedtime story~
いつもよりレッスンを早く終え、引っ手繰るように半額の食材を買い込み家にバイクを走らせると、アパート前の駐車場ではミリアと美桜がフラフープで遊んでいた。カスタム済のバイクの大音量で早々に気付いたのであろう、ミリアがぴょんぴょんと飛び跳ねながら手を振る姿が、遠目にもリョウにもわかった。
「リョウ! リョウ! おっかえりなさーい!」リョウがバイクを停めるや否や、ミリアがフラフープを縄跳び代わりにくるくると振り回し、すたとん、すたとん、と軽快に飛び跳ねながらやってくる。
「お兄ちゃん、おかえりなさーい!」美桜もその隣で同じくすたとん、すたとん飛びながら微笑みを浮かべる。
「おお、ただいま。」
「これでねえ、遊んでたの。」ミリアが再びくるんとフラフープを回して飛び跳ねる。すたとん。「フラフープ、『すち』!」
すち、というのは昨今のミリアの流行語で、フラフープも「すち」ならば、昨夕食卓に出したシチューに入れた花形に切ってやった人参も「すち」であるし、それから勝手にトイレに貼ったキティちゃんのシールも、ベランダに置いたミニトマトの鉢も、何でもかんでも最近は「すち」、なのである。でもスクールカウンセラーが寄越してくる交換ノートには、何事にも好意を持てるようになってきたのは、虐待の記憶から脱却しつつあることの証であり、良い兆候であるとのことであったので、リョウはミリアの「すち」を引き出せるよう、百円均一で花形だのハート型だの型を買ってきて、人参だの、今朝はハムもそれで切ってやっりもするのである。
「巧くなったじゃねえか。」リョウはスーパーの袋を提げ、ミリアの肩を軽く小突いた。
ミリアは更に自慢げにくるん、と飛び跳ねる。すたとん。
「ミリアちゃん、先週フラフープ買って貰ったのに、もう私よりも上手なの。うちから縄跳びにしてここまで来たの。一回もこけないで!」
美桜に褒められ、ミリアは照れて身を捩る。「だって、すちだもの。」
「ほお。好きこそものの上手なれ、っつうしな。」
先週、ミリアが美桜のフラフープを交代で使わせてもらっているのを見かけ、これはおそらく「すち」なのだと察知し、リョウは早速近くのおもちゃ屋に行って買って来てやったのである。ミリアの大好きな水色を選んで持って帰った晩、ミリアは案の定「これ、すち」と言いながら、部屋中を飛び回った。
「ミリアちゃんは足も速いし、縄跳びも三分間飛べるし、フラフープも得意なの!」
更に褒められ、ミリアは堪らぬといったようにぴょんぴょんと飛び跳ねた。
「やるじゃねえか。スポーツが得意なんか、お前は。」その分勉強は不得手だが、とはあえて口にはしない。
「スポーツだけじゃあないの! お兄ちゃん、この前の学級通信見ましたか?」美桜にそう言われ、リョウは首を傾げる。「学級通信?」
「そう! ミリアちゃんね、今ね、読書頑張ってて、もうすぐライオン賞なの!」ミリアは言葉が上手ではないので、言うべきことも黙っているということを美桜は知っていた。だからミリアのことを時折リョウに伝えなくてはいけないと、ほとんど使命のように感じていたのである。
「ライオン賞?」
「そう! ミリアちゃん毎日図書室で本読んでから、おうち帰っているの。クラスでもね、ミリアちゃんが一番か二番くらいに本読んでいるの! 学級通信にちゃんと書いてある!」
「俺はそんなの見てねえぞ。」
ミリアは顔を赤くして更に身を捩っている。「……どっかにある。」
ミリアは整理整頓と名の付くものと、学校からのプリントをリョウに渡すのだけは極めて不得手なのである。それでリョウは何度叱ったり、苦言を呈したり、注意を促したかわからない。それでももう根本的に無理なので、もうミリアを変えることは諦め、気付いた時にリョウはミリアのランドセルを逆さにして詰まった紙を取り出すのを習慣としていたが、昨今はスタジオとレッスンで忙しく、それも忘れていたのである。
「ええ? ミリアちゃんお兄ちゃんに見せてないの? ちゃんと探して見せなきゃダメよ!」
ミリアと美桜は相談の上、今からランドセル内の大捜索会を敢行することにしたらしい。リョウと共に家に戻ると、ミリアはまずランドセルを逆さにして、大量のごみのようになったプリントの山をテーブルの上に成した。
「お前、な、な、何だこりゃあ!」さすがのリョウも台所から大声を上げた。
「……おてがみ。」ミリアはさすがに少々しょげながら答える。
「ミリアちゃん、酷い。これは。」さすがの親友も匙を投げかけたが、一緒になって一枚、一枚、プリントを広げながら整理をしていく。
「あ、あった。これ。」ミリアはその山の中から比較的新しいプリントを一枚取り上げ、そっと掌で伸した。
リョウは買い物袋を冷蔵庫に仕舞い終えると、二人の傍にやってきて、ミリアの取り上げたプリントを目の前で広げ、読んだ。
――本はみなさんの心を大きく成長させてくれます。心にも本で栄養を送ることが必要です。ぜひ読書に挑戦しましょう。30冊読んだ人にはライオン賞、20冊読んだ人にはシマウマ賞、10冊読んだ人にはウサギ賞の賞状とシールを贈ります! みなさん、ライオン賞めざしてがんばりましょう!
小学校も色々工夫をしているのだなあ、とリョウが感嘆したその矢先、その下にシマウマ賞、くろさきみりあさん、と書いてあるのに瞠目する。
「おお! お前の名前があるじゃねえか!」
「そうなの、ミリアちゃん、シマウマ賞なの! でも毎日絵本借りてきて読んでいるから、もうすぐライオン賞になれるの!」
リョウは目を見開いたままミリアを凝視した。ミリアは照れたような困ったような顔で、ちらとリョウを見上げた。
「……だって、ライオンは猫ちゃんの仲間でしょう? ミリア、猫ちゃんすちだから、ライオン賞貰いたいの。」
小学校の工夫は見事にここに開花した。まさか、ライオンが猫の類であるから狙う、というモチベーションを有している小学生は他にはいないであろうが、ともかく、理由は何だって構わない。リョウはここぞとばかりミリアの両肩を握り締め、「頑張れ。」と呟いた。
確かに昨今ミリアは宿題を済ませ、ギターを一通り練習すると、その後一人で絵本を広げて読んでいるようであった。絵本がすち、というのもよく口にしていたように思う。昨夜はピノキオを読んで何か感銘するところがあったらしく、冒頭部の「ピノキオは、ゼベットおじいさんの作った木のお人形です。」という文章をやたら復唱していた。
「図書館の先生ね、放課後行くとお話してくれんの。そんで本も貸してくれんの。昨日はね、ピノキオのお話をしてくれたから、それを、借りたの。」ミリアはにっこりと微笑む。
「ミリアちゃんいっつも図書館行って、ご本借りて帰ってくるの。偉いでしょう?」美桜が言った。
「その前はね、シンデレラでしょ? その前は浦島太郎でしょ? その前は、眠り姫、ももたろうもお話してくれたから、それ、借りた。」
「そうだったんか。お前、……そりゃあ、立派じゃねえか。本読んだら馬鹿になんねえかんな。お話聞くのも、……いいことだ。」自分の経験としては皆無であるが、おそらく学校の先生がしてくれるのだからいいことなのに相違ない。
「そりゃあ、ライオン賞なったら俺もなんかくれてやんねえとなあ……。」リョウが茫然と呟くと、「絵本バッグがいい。」ミリアがはっきりと言った。
「絵本バッグ?」
「そうだ!」美桜もぱちんと手を叩いて首肯する。「絵本借りる人用に図書館に絵本バッグが置いてあるんです。でも自分で持ってる人は自分の使ってもいいことになってて……。」そうして美桜は口ごもった。それはサイズも決まっていることから、大抵の生徒は母親の手作りを持参していた。だからサイズこそ既定のものであるが、お気に入りのキャラクターの生地であったり、イニシャルのアップリケがついていたりするものばかりであった。可愛いバッグを持ってくることが上級生たちの間で流行になっていて、下級生たちにもその余波がそろそろやってきているのを、美桜は感じてもいた。しかしそんなバッグをとてもではないがこの赤髪の兄に作れるとは思えなかった。
「ほお、本入れる鞄か。まあ、鞄ぐれえならいつでも買って……、」
美桜は慌ててリョウの言葉を制するように言った。「……サイズとかあるから! あの、決まってるんです。だから、それ書いてある今度プリント貰ってきます。」
「おお、そうか、そうしてくれっとありがてえな。」まさか手作りとは思ってもいないリョウは笑顔で答えた。
「ママ。」美桜は帰宅するなり、キッチンで夕飯の準備をしていた母親に神妙そうに声を掛けた。
「お帰り、美桜。随分遅くまで遊んでたのね、手は洗った?」
「うん。洗った。……ねえ、ママ。お願いがあるの。」
「なあに?」母親は柔和な笑みを浮かべて答える。
「あのね、今度読書頑張るから、……その、絵本バッグ作ってほしいの!」
「ああ、この前プリントで貰って来たあれね。美桜はあんまり学校から借りて来ることはしないから、いらないかと思ってたわ。」
美桜はたしかに、と唇を噛んだ。自分の場合には、海外出張に行っている父親が本は教育上最も大切であるというモットーを持っており、その結果、「本であれば幾らでも欲しいものを子供に与えてほしい。」、と駅前の本屋に頼み込み、後払いをする形式で契約を結び、美桜はそこから好きな本を見つけては持って帰ってくることを習慣としていたのである。
「あのね、今度は図書館で借りようと思ってるの。絵本とかいっぱいあるし……だから。」
「もちろん、いいわよ。美桜は、何の柄がいいかしら? 今度ロビンに似たワンちゃん柄の生地買ってくる?」
美桜はううむ、と頭を捻った。自分は飼い犬のロビンが好きであるし、無類の犬好きと自負してもいる。でも今回は、それではいけないのだ。
「あのね、……ミリアちゃんにも作ってあげてほしいの。その……、お揃いで。」
母親は目を丸くした。
「ほら! だってミリアちゃん、今、読書頑張ってるでしょう? もうすぐライオン賞なのよ? クラスでまだ誰もいないんだから! でも……、ミリアちゃんにはママがいないから、お兄ちゃんだけだから……、その、……絵本バッグを作ってくれる人がいない。」美桜は涙声になるのを抑えられなかった。「だから、だから……。」
「わかったわ。そうよね、美桜の言う通りだわ。この間の学級通信にもミリアちゃんの名前、出てたものね。たくさん本を読むのはパパも言っているけれど、本当に大切なことよ。絵本バッグ、美桜とミリアちゃんの分、お揃いでママ、作ってあげる。素敵なの作るわ。任せて!」
美桜は堪らずわあんと言って母親に抱き付いた。
母親は善は急げとばかりに、さっさと夕飯と片付けを済ませると、裁縫箱を広げた。美桜が幼稚園に通っていた時に色々買いためた生地だのレースだのがまだたくさん残っていた。母親は二人の喜ぶ顔を想像しながら、その中から生地を選び始めた。女の子だからレースを付けてみよう。それにこのビーズも、わざわざ海外から取り寄せたもので、仕舞い込んでいたのに輝きは褪せていない。母親は胸を躍らせながら、デザインを考えた。今宵は長くなりそうであった。
翌日、ミリアは帰宅するなりパソコンに向かって作曲をしていたリョウの胸に遠慮なしに飛び込んだ。わあ、わあ、と騒ぐだけ騒ぎ何を言っているのかはわからなかったが、どうやらその頬を濡らしている涙は、歓喜ゆえのそれであることが知れた。
「ねえ! ねえ! 美桜ちゃんが! 美桜ちゃんのママが! これ! これ!」
そう言って、ミリアはしっかと握り締めていた袋をリョウの目の前に突き出した。
それは水色のバッグで、口にはレースが施され、所々ビーズで花模様が描かれており、さすがのリョウもその凝った作りに瞠目せざるを得なかった。
「ここに! ここに! ミリアって! ミリア!」勢いよく裏返しすると、そこには「くろさきみりあ」とアップリケで名前まで付けられている。
「どうしたんだよ、こりゃあ!」
「だから! 美桜ちゃんが! 美桜ちゃんがママに頼んで、お揃い! 美桜ちゃんとお揃いの絵本バッグ! すち! こんなにすちなもの!」興奮しすぎてミリアはげほげほと苦し気に咳き込んだ。
「マジか……。」リョウは唖然として、そのバッグを凝視した。これが昨日ミリアたちが言っていた絵本バッグ、なるものかと、勝手にどこぞの店で安物買って済ませようとしていたリョウは驚愕した。「これ、……美桜ちゃんのお母さんが、お前の分まで作ってくれたんか。名前入りで、お前の好きな水色で……。」
ミリアは相変わらず咳込みながら、激しく肯いた。リョウは立ち上がって携帯電話を掛け始めた。コールはすぐに鳴りやんだ。
「もしもし。あ、黒崎です。ミリアの兄です。」
「まあ、こんにちは。」明るい声が響く。
「その、……ミリアにバッグ、ありがとうございます。凄い、素敵な……。」
「まあ、そんな、大したものではなくって。一晩でさっさと縫い上げたもので、あまり細かい所は見ないで下さいね。恥ずかしいですから。」
「いやいや、こんな、名前まで、飾りまで色々……、ミリアが大泣きしながら今帰ってきました。本当に、ありがとうございます。逆立ちしたって俺にはできねえすから。」
「いいえ。昨日美桜からせがまれまして、一つ作るのも二つ作るのも変わりませんし。今さっきおうちにミリアちゃん来て、あんまり感激してくれたものですから、私も嬉しくて嬉しくて。」
ミリアは泣きながら必死にリョウの携帯電話に手を伸ばし、受話器に向かって「ありがとう、美桜ちゃんママ。大事に使います。大事に。一番大事に。」と頻りに訴えた。
リョウは苦笑しながら、「俺にはとてもじゃねえが、こんなものは作れません。ミリア、絵本バッグっつうの欲しがってたんです。最近、絵本読むのが好きになったみてえで。学校から毎日借りて帰ってきて。せっかくの機会だから後押ししてやりてえとは思ってましたが、俺には無理だったんで。本当にありがとうございます。いつも気に掛けてくださって、本当に……。」リョウは電話越しに深々と頭を下げる。
「ミリアちゃん頑張っていますよね。私が応援してあげられることはあまりないですけれど、それでもできることはやりますので、いつでも言って下さいね。」
「すみなせん。ありがとうございます。本当に、ミリアのこといつも気にかけてくれて、俺は何にもできねから。」
「そんなことない、リョウが一番すちなんだから!」
その声は電話の向こうにも聞こえたらしい。「そうですよ、ミリアちゃんはお兄さんのことが大好きなんですから。お裁縫とかお料理は私、好きな方ですけれど、そんなもので少しでもミリアちゃんの力になれるなら、いつでも言って下さいね。」
「ありがとうございます。本当に。こんなミリアが大泣きして嬉しがることって、ないんです。俺も凄ぇ嬉しいです。ありがとうございます。」
ミリアがわあわあと泣き喚く中、電話は切られた。
「お前、ありがてえよな。こんないいの、作ってくれる人がいて。」
「すち。これ、一番すち。」ミリアはひっくひっくとしゃくり上げながら言った。
「そうだな、そりゃ、すちだ。」リョウは笑いながらミリアの頭を何度も撫でまわした。
リョウは夕飯を作り始める。今夜は半額になっていた豚肉を使った肉じゃがである。ミリアは絵本バッグを膝の上に置きながら、腫れた目でいつものようにリビングのテーブルで計算ドリルとやらに取り組み始めた。
「ねえ、これわかんない。」ミリアがとりわけ苦手な計算をリョウの顔に突き付けてくる。
「ああ? 8だ、8。」リョウはジャガイモの皮を剥きながら面倒くさそうに答える。
「式。」
「式だあ?」
「式ないと、先生にダメって言われる。」
「2×4だよ、2×4。」
ミリアはその場でリョウの横腹にドリルを押し付け、2×4と書く。
「お前くすぐってえじゃねえか! あっちで、テーブルで書けよ!」
「もう終わった。」ミリアはにっと微笑み、ドリルを抱き締めリビングに行き、そそくさとランドセルに入れると再びリョウの傍にやってきた。
「ねえ。」
「何だ?」
「今日も絵本借りて来たの。」
「おお、何だ。ピノキオか。」
「ううん。今日は、別の。」もったいぶったようにミリアは言った。
「お前あれか、学校でお話して貰って、その本を借りてきてんのか。」
「うん。お話すちだから。……ねえ、リョウは、お話、できる?」
「はあ? お話だあ?」玉ねぎを刻み、涙を拭った。
「うん、先生がしてくれるみたいな、お話。」
「お話ぐれえ誰だってできんだろ。」リョウはそう気軽に言って退け、更に溢れる涙を拭った。
「本当? じゃあ、今日の夜、お話してくれる?」
「ああ、ああ、してやるしてやる。」そう言いながらも更に渋面を浮かべ続けるリョウを心配そうに見上げ、「悲しいの?」と問うた。
「違ぇよ。この、この、玉ねぎだよ。古い玉ねぎはやっぱ、きちいな。」
「眼、瞑って切ったら?」
「そしたら俺の全生活と野望がかかってる指が切られて終ぇだ。」ああ、きちいな、と言いながら切り終えた食材を鍋に入れる。
「じゃあ、今日、本当にお話してね。」
「わーかった。」しかしリョウは気付かなかったのである。自身、施設で育ち、その後は一人暮らしをしてきた自分が、人から昔話の類をされたことがなかったことを。昔話なんぞその内容さえろくに把握していなかったことを。
肉じゃがと味噌汁に、サラダのついた夕飯を食べ終え、リョウとミリアは順繰りに風呂に入り、それから二人して暫くの間ギターを弾いた。ミリアは時折堪らぬとでもいったように絵本バッグを抱き締め、再びギターを弾き始める。リョウはそれを微笑ましく眺めた。
「おい、そろそろ寝な。」リョウがそう呟くと、ミリアは一瞬不審げに顔を歪め「……お話は?」と問うた。
「お話?」
ミリアは悔し気に顔を歪めて、リョウの腿を叩いた。「リョウ! お話できるって、だから夜お話してくれるって言った!」
すっかり忘却していたのである。と同時に、ミリアがここまで楽しみにしているらしいことに気付き、焦燥が芽生えた。
「……あの、」ごくり、と生唾を呑み込み、「お話って、……どういうの?」リョウは恐る恐る尋ねた。
ミリアは泣きべそかく寸前の顔になり、「ピノキオとか! 桃太郎とか! そういうのじゃないのよう! 昔々あるところにおじいさんとおばあさんが住んでるのよう!」やたらめったらリョウの背を叩いた。
「ああ!」さすがのリョウにも合点が行き、「わかった、わかった! よっし、お話をしよう。お話はお布団に入って寝ながらしよう。」とミリアを引っ掴んで寝室へと入った。
ミリアはやっほーい、とか言いながらリョウの腕にぶら下がり、そのまま布団の中に寝かしつけられる。布団に潜ったリョウにぴったりとくっ付きながら、ミリアは嬉しくてならないといったように何度も目を瞬かせ、リョウを見詰めた。
しかしリョウは深刻である。やはり、どう考えてもお話、なんていうものを知らないのである。金太郎がどういう物語なのか、桃太郎とどう違うのかさっぱりわからない。シンデレラと眠り姫はそもそもどんな話であるのか、想像もつかない。そんなことに今更ながら気が付いた。
「ねえ、お話は?」
知らない、と言ったらミリアは落胆するに相違ない。泣くかもしれない。そう思えばこそ、リョウはなかなか言葉を口にできなかった。
ミリアは心配そうにリョウを見詰める。「……おじいさんとおばあさんは?」
ああ、そうか、とリョウは目を輝かせて「そうだよな! ……昔々、ある所におじいさんとおばあさんが住んでいました。」と言った。が、その次がわからぬのである。
ミリアはうっとりと目を閉じている。
「おじいさんは……」その後はどこかに行ったような気がする。山か川か――。リョウは首を傾げた。山へ行ったところで何をするのか。登山か。だとすれば川へはラフティングでもしに行くのだろうか。しかし老人がそんなことをするのだろうか? ますます混迷を増していくことになった。
「ねえ、おじいさんはどうしたの?」ミリアが耐え切れずに言った。
ええい、とリョウは「おじいさんは、ライブハウスに行きました……。」と言った。ミリアは目をパチリと開けて「ライブハウス?」と頓狂な声で繰り返す。
しかしリョウにはそれ以外の場所なんぞよくわからないのである。「そうだ。ライブハウスだ。おじいさんはメタルバンドのフロントマンでした。」
ミリアは困惑したような顔をして、「……おじいさん、髪、赤い?」と訊ねる。
「赤い。相当真っ赤だ。しかもロン毛。」リョウはそう何故だか力強く断言すると、「おじいさんは今日はワンマンライブなのです。おばあさんはおうちでお留守番です。」と続けた。
ミリアは期待と全く異なって来たお話の様相に、溜息を吐く。しかしリョウは次第に興に乗ってきたとばかり話を続けた。
「おじいさんのやっているジャンルはデスメタルです。おじいさんは今晩はワンマンだからたっぷり曲をやれて、お客さんを沸かせられるぞと、ニコニコして家を出ようとしました。でもおばあさんがちょっと寂しそうなので、気になりました。」
「だって、おばあさん、おじいさんが好きなんだもの。」勝手に感情移入したミリアは、そう悲し気に呟く。
「そうだ。わかってる。でもな、おじいさんはおばあさんがいるから、安心して家を空けられるんだ。おばあさんも大きくなってきたかんな。来たばっかりの頃は、痩せっぽちで、可哀想だからあんま家空けらんなかった。」
ミリアは小さく肯いた。
「んでな、おじいさんはおばあさん、いつもありがとなって思って、バイクに乗ってライブハウスに着きました。何回も出たことのある、サンクチュアリです。ギターの音をチェックして貰って、メンバーと音を合わせます。今日もバリバリに厳つい音が出て、おじいさんご機嫌です。」
「良かったのねえ……。」
「そうだ。後は昼飯食って腹ごしらえしたら、客を待ちます。開場一時間前にもなると、ライブハウスの前には列が出来ました。」
「みんな、リョウのお客さん?」リョウ、と言ってしまっている。
「そうだ。おじいさんは女子供には好かれねえが、メタル野郎には大人気なんだ。」
「でもミリアは『すち』!」
「そうなんだ、おばあさんとは相思相愛だ。……そんでな、リハが終わると、ちっと時間もできて、おばあさん、おうちで寂しがってねえかとかも考えます。」
「だから電話してくれんの?」
「そうだ。おじいさんにとってはおばあさんはとってもとっても大事だからな。」
ミリアははっとなってリョウを見詰め、それから腕を強く強く抱き締めた。
「そうすっと、開場になります。物販も次々売れていきます。おじいさんがデザインしたTシャツ、おじいさんが発注したリストバンドとキーホルダー、何でもかんでもありますが、続々売れてきます。」
「宅急便で届くやつだ。」
「そうすっと、照明なんかも暗くなって、野郎どもがおじいさんの名前を呼びます。」
「『リョウー!』って呼ぶの?」
「そうだ。そうすっと楽屋で居ても立っても居られなくなって、メンバーにとっととやろうぜ、って声掛けます。でも開演時間は守んねえとダメだっつわれて、おじいさんはしょうがねえからギター弾きながら待ちます。どんどん客席から上がる声はでかくなってきます。」
「『リョウー!』ってみんな呼ぶのね。」
「そうだ。そうしてじりじり、じりじり、待ってっとやがて開演になります。俺はもう、」俺、と遂に言ってしまう。「おっしゃー、てめえら待たせたなっつってステージに飛び出していきます。ドラムの音がな、こう、凄まじい雷みてえに轟く。俺のギターもな、凄ぇ音になって襲い来る。わかるか?」
「ううん、わかんない。ミリア、聴いたことないから。」
「ああ、そっかあ。残念だなあ。もうちっと大きくなったら来いよな?」
「うん。」
「そしたらな、最初の一音で一気に客のボルテージが最高潮に達する。客が一気にステージに押し寄せる。渦巻いて走り出す。もう、戦場だ。」
「楽しい?」
「ああ、楽しい。この世に産まれ落ちてよかったって、心底感じる。俺はこのために生きてんだなって思う。お前にもそう感じる瞬間が来ればいいんだけどな。」
「うん。」
「ワンマンはマジでいい。2、3時間俺の曲を延々やり続けられるっつうのはな、やっぱ出来上がる世界が違ぇんだ。凄ぇ達成感を感じる。対バン形式も悪くはねえが、俺は小せえハコでもいいからワンマンやりてえ派だな。」そう言って、リョウは昔話だったと思い返す。
「ああ、そんでな、おじいさんはワンマンを終えて、まあ、打ち上げに顔出すこともあっけど、地方に泊まってツアーしてっ時なんかは打ち上げ行くけど、都内のライブハウスん時は基本おばあさんが心配だからとっとと帰宅します。おばあさんが寂しがってっといけねえから。」
くつくつ、とミリアは声を殺して笑う。
「おばあさんは小学生だから、次の日寝坊して遅刻したりしちまうとだせえので、先寝てろよって言ってんのに、無理矢理起きて待ってる時もある。」
「それはね!」ミリアは話題の意外な風向きに、必死の弁解を試みる。「あのね、寝て待ってんの。でもリョウが帰って来るとピーンと来て、起きちゃうの。だから、ちゃんと言うこと聞いて、寝てんの! 本当に。」
「と、おばあさんは言いますが、おじいさんはやっぱミリアがちゃんと寝てないと心配です。寝ねえと体がでかくなんねえしな。」
「はあい。」
「おじいさんはおばあさんがちゃあんと大きくなって、賢くなって、立派になることをいつも願っています。」
「うん。」
「……絵本バッグ、良かったな。」
「うん。」ミリアは目を閉じてリョウの腕に再び抱き付いた。
「ライオン賞取ったら、モノホンのライオン見に、動物園でも行くか?」
「ええ? 本当に?」
「旨ぇ弁当作ってやるよ。」
ミリアは歓喜の溜め息を吐いた。「リョウが一番すち。……おばあさんはいつもおじいさんのことがすちでした。めでたし、めでたし。」そう言うと、ミリアはあっという間に幸福な夢の世界に誘われていった。たくさんの動物たちが、本をたくさん読んで偉いね、とミリアを賛美する幸福な夢の世界へと――。そして最後に冠を付けたライオンがにゃあご、と鳴いてミリアの頬を舐めた。